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エピソード78 すべてが買われるわけではない

翌朝には、古い石板の周囲が小さな作業場になっていた。


低い木の杭が立てられている。


杭の間には縄。


そばには石工用の槌が二つ置かれていた。


地元の作業員三人が、広げた紙を前にして言い争っている。


二人は人間族。


一人はダークエルフ。


一人が紙の上を指すたび、別の一人が実際の石床を指した。


ラリオンの二台の荷車へ目を向ける者はいなかった。


オリヤが縄のそばで足を止めたのは、ほんの数秒だった。


「何か分かった?」


腰に金属槌を下げた年配の作業員が顔を上げた。


「排水路へ流れ込む水は、ひとまず止めた」


「井戸は?」


「臭いが残ってる」


オリヤは閉鎖された井戸の方を見た。


「じゃあ、あれが原因じゃなかった?」


男が首を振った。


「まだそう決めるのは早い。止めたあとに残った水も、ほかから入ってくる水も調べなきゃならん」


オリヤが頷いた。


「分かった。水は今日も西側ね」


「ああ」


男は紙へ目を戻した。


「使えるようになったら、そこの衛兵を下げる」


オリヤも井戸のそばの衛兵を見た。


彼は近づいてきた御者に、西側へ回るよう手で示していた。


「それなら見れば分かるわね」


オリヤは先へ進んだ。


背後では、作業員たちがまた石の位置をめぐって言い争い始めた。


*


二台目の荷車のそばでは、昨日の書記が待っていた。


手には紙が二枚。


「残りの荷も、検査が終わりました」


オリヤが近づいた。


「今日は早いのね」


書記は交易場の東側を示した。


「囲いを避けて、荷車一台分の通り道を空けました」


オリヤがそちらを見る。


二人の荷運び人。


人間族とダークエルフが一人ずつ。


水樽を載せた台車を上屋の方へ押していた。


「水運びは?」


「続けています。ただ、台車を先にまとめて通して、その合間に荷を動かすことにしました」


反対側からヴァルンが近づいてきた。


書記が続けた。


「昨日は、どちらも途中で止まっていましたから」


ヴァルンは狭くなった通路を見た。


「すれ違おうとしなければ、通れるな」


「ええ。今は、その順番も決めています」


オリヤは一枚目の紙を受け取った。


行を目で追う。


それから単価を指で示した。


「これは、昨日の人から?」


「はい。検査の結果を見て、買い取りたい品と数量を出してもらいました」


「まだ決定じゃないのね」


「お返事を頂いてからです。条件の話が必要なら、本人を呼びます」


オリヤが二枚目を見る。


「そっちは?」


「検査済みの品の一覧です。買い取る分も、見送る分も載っています」


書記は紙を並べた。


同じ品目が、片方にはあり、もう片方にはなかった。


オリヤの指がそこで止まった。


*


二台目の荷車の商品は、すべて買われるわけではなかった。


オリヤは一覧を二度読み返した。


それから実際の積荷とも照らし合わせた。


「これは売れる」


「はい」


「こっちは持ち帰る」


「今の買い取り条件では、そうなります」


「どうして?」


書記が控えを確認した。


「在庫がもうあるそうです」


「品質?」


「それが理由ではありません」


「値段?」


「値下げしても、今はこれ以上必要ないとのことです」


オリヤは黙った。


(ここまで運んだんだから、もう少し売れてほしかったけど)


彼女は、買い取りを見送られた品目をもう一度見た。


気分のいい話ではない。


だが、値の話だけでは動かない相手に、同じことを繰り返しても仕方がない。


一つの行に指を置いた。


「これを運んできたのがラリオンじゃなくても?」


書記が目を上げる。


「答えは同じです」


オリヤが頷いた。


「なら、その理由も書いておいて」


「在庫があるため、と?」


「ええ。荷の持ち主に説明するから」


書記は空いているところへ短く書き込んだ。


オリヤが買い取りの一覧を示す。


「こっちは、本人と最後に確かめたい」


「呼んできます」


やがて昨日の人間族の男が来た。


オリヤは、買い取る数量と単価を一つずつ確かめた。


残る品についても尋ねる。


男は倉庫の方を指した。


「同じ品が、まだあそこにあります。今、これ以上仕入れるつもりはありません」


「分かった。なら、買う分だけで話を進めましょう」


支払いは、昨日と同じく搬入と数量の確認を終えてから。


今日のうちに。


そこまで確かめて、オリヤは頷いた。


書記の木炭が紙の上を動き始めた。


*


カイサが現れたのは、持ち帰る商品を二台目の荷車へ固定し直している時だった。


すでに指先で銅の輪を回している。


「買ってもらえなかった?」


オリヤは振り返りもしなかった。


「全部じゃない」


「ずいぶん落ち着いてるのね」


「泣いた方がよかった?」


「商売では、たまに役に立つわよ」


ヴァルンが革紐を締めた。


「値が上がるのか?」


「相手次第ね」


オリヤが結び目を引いた。


動かないことを確かめてから、ようやくカイサを見る。


「樽は満たしてもらえた?」


「必要な樽の半分だけ」


「なら、まだ出られないのね」


「だから、あなたたちが出る前に渡しておきたいものがあるの」


セイガは少し離れた壁際に立っていた。


カイサの手へ目を向ける。


彼女が取り出したのは、小さく折った紙だった。


「昨日言ってた、サルマって人に見せてくれる?」


オリヤが受け取る。


広げると、品目と数量、その横に値が書いてあった。


「今、持ってる分?」


「そう。三台の中身を全部口で覚えて帰ってもらうより、いいでしょう」


オリヤは上から下まで目を通した。


「帰ったら見せるわ」


「それでいい」


「注文を受けたことにはならないからね」


カイサが片眉を上げた。


「分かってる。だから、先に何を売れるか知らせるんじゃない」


オリヤの指が値の欄に止まった。


「この値段は、いつまで同じ?」


「今の値よ。日が延びたり、行き先が変わったりすれば、変えることもある」


「なら、それも書いて」


カイサは紙を受け取り直した。


余白を探す。


「小さい紙にしすぎたわね」


「裏もある」


「知ってる」


カイサは裏へ一行書き足した。


オリヤはそれも読んでから紙を畳み、しまった。


*


次にカイサが持ってきたのは、古い布切れだった。


木炭で三本の道が描かれている。


どれも、まともな地図には見えなかった。


ヴァルンは必要以上に長く、その布を見つめた。


カイサが言った。


「絵は下手なの」


「見れば分かる」


「いつもそんなに感じがいいの?」


「いや」


カイサがオリヤを見る。


「冗談?」


「まだ見分け方を覚えてない」


ヴァルンが一番下の線に指を置いた。


「ここが関所か?」


「そう」


「なら、ラリオンへの道はこっちじゃない」


カイサから木炭を借りる。


線を一本、引き直した。


「ここを出たら、まず坂を下りて、乾いた川床を渡る」


カイサが身を寄せた。


「橋は?」


オリヤが街道の先を示した。


「川床を越えて、さらにラリオンへ向かう途中。小さな石橋がある」


「三台でも?」


「並べずに、一台ずつなら」


「重さは?」


オリヤがヴァルンを見る。


彼は首を振った。


「正確な限界は分からない」


オリヤが付け加えた。


「私たちの荷車が通れたことは言える。でも、あなたの一台がどれくらい重いかは知らないわ」


カイサは自分の隊商へ目を向けた。


「行くなら、その手前で荷も見直すわ」


「水は?」


オリヤが川床の向こう側の道筋に、一つ印を付けた。


ヴァルンが、そこから少し離れたところに二つ目を足す。


「この二か所だ。どちらも川床よりラリオン側にある」


オリヤが言った。


「私たちが使ったのは一昨日よ」


カイサは二つの印を見比べた。


それから爪で道の線をなぞる。


「途中で泊まるなら?」


「私たちは途中では泊まってないわ」


オリヤが答えた。


「ラリオンを朝に出て、その日の夕方にここへ着いた。途中の宿や、夜を越す場所までは確かめてない」


カイサが頷いた。


「私の三台でも同じように進める、とは考えない方がいいわね」


「それは約束できない」


「分かった」


セイガが近づいてきた。


布を見る。


それからカイサを見る。


「護衛のことは聞かないんだな」


「それも考えるわよ」


カイサは橋の印を指した。


「でも、護衛がいたって、橋の代わりにはならないでしょう」


セイガは何も言わなかった。


カイサが笑う。


「期待外れだった?」


「逆だ」


オリヤが彼を見る。


「今の、褒めたみたいに聞こえた」


「慣れるな」


*


正午までに、今日の分の精算も終わった。


買い取られた商品は、すでに倉庫へ運び込まれている。


持ち帰る分は二台目の荷車に積まれていた。


書記が、今回の取引をまとめた記録を二部持ってきた。


一部は関所に残す。


もう一部はラリオンへ持ち帰る。


昨日、代金を受け取った分。


今日、新たに売った分。


買い取りを見送られた品と、その数量。


それぞれが分けて記されていた。


オリヤは印を確認した。


次に、品目ごとの数量と金額。


昨日の控えとも照らし合わせる。


今日渡された代金を数え、受け取りの記録を確かめる。


それをすべて終えてから、ようやく書類をしまった。


カイサは横から見ていた。


「喜ばないの?」


「帰ってからよ」


「町から自分たちで荷を出すの、これが初めてだったの?」


「町でまとめた荷を、ラリオンの名でここへ運んだのはね」


「なら、もっと祝うものじゃない?」


オリヤが二台の荷車を見る。


「代金も、残った荷も、記録も持ち帰れたら、その時に祝うわ」


カイサが笑った。


「先に喜んだら、何かなくなると思ってる?」


「誰にも言わないで」


「もう遅い」


書記には聞こえていた。


だが、聞こえなかったふりをした。


ラリオンの四人の衛兵は、出発前の確認をしていた。


水。


荷締め。


車輪。


オリヤは陽の高さを見た。


「暗くなる前に着けそうになかったら、止まる場所は早めに決めるわよ」


ヴァルンが頷く。


「分かってる」


帰りはヴァルンが先の荷車を受け持つ。


オリヤは、持ち帰る商品を積んだ二台目に乗ることにした。


*


閉鎖された井戸のそばは、朝より少し静かになっていた。


年配の作業員は、また囲われた石板のそばに立っている。


仲間の一人が基礎の方を指しながら、何か説明していた。


出発前、オリヤがもう一度そこを通った。


「まだ使えない?」


年配の作業員が頷いた。


「まだだ。水は変わらん」


オリヤは、井戸のそばに立つ衛兵を見た。


それ以上、原因を決めつけることはしなかった。


男は隣の石床を示した。


「今日は、こっちの石板を一枚外す」


「それで分からなければ、明日は井戸のもっと下を調べる」


話している間も、男の目は紙と石床の間を行き来していた。


仲間が何か呼びかける。


男は手を上げて応えた。


オリヤが言った。


「上手くいくといいわね」


男はそこで、彼女の旅支度へ目を向けた。


「そっちも、道中気をつけて」


オリヤは荷車へ戻った。


男は広げた紙の前へしゃがみ直した。


*


交易場の側門では、誰も彼らを大げさに見送らなかった。


人間族の衛兵が記録を確認する。


もう一人の衛兵。


若いダークエルフが、二台の荷車の覆いの下を確かめた。


ラリオンの護衛二人が、先の荷車の左右へ回る。


残る二人は後ろについた。


門が開いた。


セイガが最初に出る。


数歩先で止まった。


街道を見る。


左。


右。


高み。


それからヴァルンへ手を振った。


「行ける」


ヴァルンが一台目の荷車を進ませた。


その後ろを、オリヤの二台目が続く。


カイサは自分の荷車を離れ、側門の手前まで来ていた。


背後に残した三台では、必要な樽の半分がまだ空だった。


「オリヤ」


オリヤが振り返る。


「何?」


「ラリオンへ行くとは、まだ約束してないからね」


オリヤが片手を上げた。


「分かってる。買い手がつくとも言ってないわ」


カイサが鼻を鳴らした。


二台の荷車が街道へ出た。


四人の衛兵も、そのそばを歩いていった。


*


数分後、二台の荷車は曲がり角の向こうへ消えた。


カイサはしばらく門のそばに立っていた。


それから自分の三台の荷車へ戻る。


端の一台で、革紐が一本緩んでいた。


締め直す。


車輪を確認する。


そして、ヴァルンが道を直した布切れを見る。


(道は分かった。買い手は、まだ)


カイサは布を畳んだ。


ベストの下へしまう。


そして、残りの樽に入れる水をめぐって、また言い争いに向かった。

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