エピソード77 石の下の水
交易場はオリヤより先に目を覚ましていた。
最初に聞こえたのは車輪の音だった。
荷車ではない。
小さな木製の台車だ。
次に、樽同士がぶつかる音。
そして声。
「端に気をつけろ」
誰かが答えた。
「見えてる」
「前もそう言ってただろ」
オリヤは目を開けた。
数秒、木の天井を見つめる。
それから起き上がった。
部屋では、まだ二人の衛兵が眠っていた。
夜明けになれば、荷車の番をしている残りの二人と交代することになっていた。
ヴァルンはいない。
セイガも。
「素晴らしいわね」
衛兵の一人が片目を開けた。
「何が?」
「外はもう、すっかり動いてる」
「俺たちも、そろそろか」
「少なくとも、今は起きる時間ね」
衛兵はまた目を閉じた。
オリヤが立ち上がる。
「本気で言ってるの」
目がもう一度開いた。
今度は体を起こし、靴を探した。
*
中庭では、すでに仕事が始まっていた。
北側の上屋では、覆いが巻き上げられている。
書記たちは、紙を挟んだ板を運んでいた。
二人のドラゴニドが、別の荷車の革紐を確認している。
門のそばでは三人の商人が言い争っていた。
ラリオンの荷車のそばには、夜の見張りをしていた二人がいた。
オリヤは片手を上げた。
「すぐ交代が来るわ」
一人が頷いた。
反対側の壁沿いでは、四人の作業員が水樽を運んでいる。
オリヤは足を止めた。
樽は井戸から運び出されているのではない。
井戸のそばへ運ばれていた。
作業員たちは、そこに並べた桶へ水を分けている。
セイガは低い石囲いのそばに立っていた。
ヴァルンも一緒だ。
オリヤが近づいた。
「ずっとここにいたの?」
ヴァルンが答えた。
「いや」
セイガが彼を見る。
「夜明け前には出てただろ」
「そんなに前じゃない」
オリヤは井戸へ目を向けた。
井戸の上には横木が渡されている。
そこに淡い色の布切れが掛かっていた。
そばにはヴェルシャインの衛兵が立っている。
「閉鎖されてるの?」
セイガが頷いた。
「三日目だ」
オリヤが彼を見る。
「どうして知ってるの?」
「聞いた」
ヴァルンが付け加えた。
「水の様子が変わったらしい」
「どう変わったの?」
セイガが肩をすくめた。
「金属みたいな臭いがするって」
「『するって』?」
「俺は飲んでない」
(三日目。なら、私たちが来たせいじゃない)
ここ数日の出来事のあとでは、その考えが思いのほか心地よかった。
樽のそばで作業員の一人が悪態をついた。
もう一人が笑った。
二人とも、ラリオンの荷車には目もくれなかった。
オリヤは小さく息を吐いた。
「それで、水はどこから?」
ヴァルンが関所の西側を示した。
「貯水槽から」
「遠い?」
「全員が文句を言うには十分遠い」
「つまり、そんなに遠くないのね」
ヴァルンは少し考えた。
「ああ」
*
昨日の書記が、一台目の荷車のそばで彼らを見つけた。
手に持っている紙は、もう白紙ではない。
すでに数行書き込まれていた。
隣には、取引を担当するという男が立っていた。
こちらも人間族だった。
書記が言った。
「一台目の、一部の検査が終わりました」
オリヤがすぐ近づく。
「それで?」
隣の男が紙を示した。
「検査が済んだもののうち、この分を買い取れます」
ヴァルンが顔を向けた。
セイガは少し離れたところに残った。
男が品目ごとの単価を告げた。
オリヤはすぐには答えなかった。
書記から紙を受け取る。
品目を見る。
数量。
次に、その横の記載を見る。
「この値は、ここに書いてある分だけ?」
男が頷いた。
「今回、買い取る分です」
「こっちは?」
彼女が下の行に触れた。
書記が答えた。
「まだ検査が済んでいない分です。値も決まっていません」
「なら、残りは別に相談するのね」
「そうなります」
オリヤはもう一度、品目ごとの値を確かめた。
運び賃を考えても、損になる額ではなかった。
「代金はいつ?」
「倉に移す時に数量を確かめて、今日中にお支払いします」
(名前を書いてもらうために来たんじゃない。商品を売るために来た)
オリヤは紙を返した。
「その条件ならいいわ」
男が少し眉を上げた。
「もう少し高く、と言われるかと思っていました」
「理由ができたら、そうするわ」
男は数秒、彼女を見た。
それから頷いた。
「話が早いですね」
「誰にも言わないで」
ヴァルンが小さく笑った。
数分後、書記は別の紙を持って戻ってきた。
そこには品目。
数量。
単価と合計額。
支払いの条件。
そして関所の印があった。
オリヤは、今しがた確かめた内容と違いがないことを確認した。
そのあとで、最初の一行に目が戻った。
発送元。
ラリオン。
今度は何も言わなかった。
紙を折る。
そしてしまった。
*
「じゃあ、あなたたちなのね」
横から声がした。
オリヤが振り返った。
目の前には、四十歳ほどの人間族の女が立っていた。
濃い栗色の髪を短い紐でまとめている。
腰のベルトには三つの銅の輪。
そのうち一つを指先で回していた。
「私たち?」
女は彼らの区画の上にある木札を示した。
「ラリオン」
「私たちよ」
「商会の名前だと思ってた」
「町の名前」
女の指が止まった。
「遠い?」
「どこから来るかによるわ」
「そういう答え、大嫌い」
「なら、ここからは遠くない」
女が笑った。
「カイサ・レン」
「オリヤ」
ヴァルンが軽く頭を下げた。
セイガは荷車のそばに残っている。
カイサは三人を見た。
それから振り返った。
そこには彼女の荷車が三台あった。
一台の側板には空の樽が固定されている。
「そっちの道に水場はある?」
オリヤはそんな質問を予想していなかった。
「あるわ」
「この関所に近いのは、どの辺り?」
オリヤがヴァルンを見る。
ヴァルンが答えた。
「乾いた川床よりラリオン寄りに、二か所ある。こっちから行くなら、川床を越えてからだ」
「今も使える?」
「昨日は使えた」
カイサが顔をしかめた。
「『昔はあった』よりは、ずっといいわね」
オリヤが尋ねた。
「そっちへ行くの?」
「まだ決めてない」
彼女は樽を示した。
「まず、これを満たさないと。馬に飲ませる分はもらえるけど、道中の分までは、まだ回ってこないの」
「どれくらい待ってる?」
「二日目」
「井戸はもう閉まってた?」
「ええ」
カイサが作業員たちへ顎を向けた。
「私が着いた時には、もう調べてたわ」
オリヤがそちらを見る。
数人の男が木の枠を外していた。
一人は縄を持っている。
もう一人は小さなランタンで下を照らしていた。
カイサが言った。
「昨日は桶を調べた」
「次に縄」
「その次は上の石」
「今日は、その下の石組みまで見るんだって」
彼女は自分の空の樽へ目を戻した。
「私がここの住人になる前に、終わってくれるといいけど」
セイガが口を挟んだ。
「誰か具合を悪くしたのか?」
カイサが彼を見る。
「井戸を閉める前に、馬が二頭、水を飲まなかったそうよ」
「御者の一人も、飲んだあと気分が悪くなったって」
「その時、ここにいたのか?」
「いいえ。私が着く前の話」
カイサは銅の輪から指を離した。
「その御者は、前の晩に酒を飲みすぎたとも聞いたわ」
「水と酒のどっちのせいか、私に決めろと言われてもね」
オリヤが小さく吹き出した。
セイガは笑わなかった。
「つまり、原因はまだ分からない」
「少なくとも、私にはね」
オリヤが彼を見る。
「エンナなら満足するわね」
「言うな」
*
正午が近づく頃には、交易場はさらに騒がしくなっていた。
もう一台、荷車が到着した。
外壁のそばで待たされている。
二頭の馬が関所の西側へ連れていかれた。
井戸では作業員が交代した。
水は、まだ使えない。
それでも、交易場は止まらなかった。
一人の書記が商品を数えている。
別の書記は、上屋の場所をめぐって言い争っていた。
カイサは、自分の三台の前に別の荷車を置こうとする男と揉めている。
ヴァルンは、売ることが決まったラリオンの荷を倉庫へ運ぶのを手伝っていた。
受け取る側の者が、運び込まれる品を一つずつ数えている。
セイガは低い壁に腰掛けていた。
見ているのは門ではない。
交易場だった。
ラリオンの衛兵の一人が近づいた。
「何を見てる?」
「あそこの男」
衛兵はすぐそちらへ目を向けた。
セイガが続ける。
「縄をどこに置いたか忘れるの、三回目だ」
衛兵が彼を見る。
「怪しい奴でも見つけたのかと思った」
「今のところは、見当たらない」
「からかってるのか?」
「少し」
縄を探していた男が台車の下を覗き込み、ようやく手を伸ばした。
衛兵は小さく息を吐き、荷車のそばへ戻った。
*
きっかけは、一つの樽だった。
作業員の一人が東側の上屋へ樽を運んでいた。
小さな台車の車輪が、二枚の石板の間へはまった。
台車が跳ねた。
樽が傾き、縁を越えて石の上へ倒れた。
箍が一本、乾いた音を立てて割れた。
板の継ぎ目が開く。
水が石の上へ一気に流れ出した。
「起こせ!」
作業員が悪態をつく。
もう一人が駆け寄り、二人で樽を立て直した。
だが、その時にはかなりの水がこぼれていた。
水は石板の間を流れていった。
大半は、通路の端にある排水溝へ。
だが、流れの一部が横へそれた。
荷を運び終えて戻ってきたヴァルンが、足を止めた。
下を見る。
水が二枚の古い石板の間へ消えていた。
地面へゆっくり染み込んでいるのではない。
細い流れを作り、隙間の奥へ吸い込まれていた。
ヴァルンがしゃがんだ。
「オリヤ」
彼女は二台目の荷車の覆いを外していた。
「何?」
「来てくれ」
「また縄の話だったら、一人で帰るわよ」
「縄じゃない」
オリヤが近づいた。
セイガも来る。
ヴァルンが石板の継ぎ目を示した。
残った水が、まだそこへ流れ込んでいく。
オリヤは通路の端の排水溝を見る。
それから継ぎ目へ視線を戻した。
「ここにも流れるようになってるの?」
作業員の一人が聞きつけた。
近づいてくる。
「どこだ?」
ヴァルンが示した。
男が屈み込んだ。
表情がわずかに変わった。
それでも、オリヤにも分かる程度には。
「待っててくれ」
井戸の方へ行く。
年配の作業員を連れて戻ってきた。
人間族の男だった。
背は低い。
短く切った灰色の髪。
腰には小さな金属槌が下がっていた。
男はしゃがんだ。
石板を叩く。
一度。
二度。
位置をずらして、もう一度。
音が変わった。
オリヤにも分かった。
「下が空洞ね」
男が頷いた。
「そうらしい」
セイガが尋ねた。
「何かあるのか?」
年配の作業員は、井戸の方へ一度目を向けた。
「昔、この辺りに排水路が通っていたことは知ってる」
「正確な位置までは、もう分からなかった」
ヴァルンが尋ねる。
「今も使われてるのか?」
「使われていないはずだ。下がどうなってるかは、開けてみないと分からん」
オリヤは、ついさっき水が消えた石板を見た。
カイサが後ろから近づいてきた。
「きれいな水を見つけたら、私を最初に並ばせて」
年配の作業員は振り返りもしなかった。
「それを言ったのは、もうあんたで三人目だ」
「じゃあ、上手く言った人の中では一番にして」
オリヤが彼女を見る。
「今の、上手かった?」
「商売なら十分よ」
年配の作業員が立ち上がった。
そして仲間を二人呼んだ。
二人は短い鉄のてこを持ってきた。
オリヤは自分たちの二台目の荷車へ戻った。
こちらはまだ、本格的な検査が始まっていない。
書記が彼女の視線に気づいた。
「全部を今日中に終えるのは、難しいかもしれません」
「水のせい?」
「それもあります。検査場の者まで、水運びに回っていますから」
彼は順番を待っている荷車を示した。
「ほかの荷も残っています。それに、今の量では東側の水桶にまで十分な量を回せません」
「明日もこのままなら、受け入れる荷車を減らすことになります」
オリヤは古い石板を見た。
それから、自分たちの二台目の荷車を見る。
他人の問題が、もう自分たちの商品にも影響し始めていた。
「ヴァルン」
彼が振り返る。
「何だ?」
「助けを頼まれたら、手伝って」
「手伝うだけでいいのか?」
「まずはね」
セイガが言った。
「俺たちは排水路の中へ入らないぞ」
オリヤが彼を見る。
「そんなこと言ってない」
「まだな」
カイサが手を上げた。
「無口なダークエルフに一票」
セイガがゆっくり顔を向けた。
「誰のことだ?」
「あなた」
「俺は無口じゃない」
ヴァルンが笑った。
「今日はもう違うな」
*
地元の作業員が四人、石板の周りに立った。
年配の作業員がヴァルンを見る。
「手が空いてるなら、そっちを持ってくれ」
ヴァルンは短く頷き、作業員たちの側へ回った。
隙間にてこを差し込む。
年配の作業員が指示を出す。
「一気にやるな」
「左端をもっと上げろ」
「もう少し」
石が軋んだ。
持ち上がった端に、木片が差し込まれる。
下から冷たい空気が流れ出した。
オリヤが半歩近づいた。
セイガが手を上げる。
同時に、年配の作業員が言った。
「下がってろ。縁に体重をかけるな」
男は手を差し出した。
「灯りを」
地元の一人が小さなランタンを持ってきた。
縄へ結びつける。
ゆっくり下へ降ろした。
光が、濡れた石の側面を照らした。
その下には、細い石造りの排水路があった。
人が立って歩けるような広さはない。
底には水が流れている。
かすかに金属の臭いがした。
カイサの指が、銅の輪を回すのを止めた。
「じゃあ、これが井戸の水をおかしくしてるの?」
年配の作業員が首を振った。
「まだ分からん」
「見つけたのは排水路だ。原因じゃない」
彼はランタンの位置を少し動かした。
水は古い基礎の方から流れてきていた。
男は、身を乗り出さないようにして下を確かめた。
それから体を起こした。
「この辺りを囲え。荷車を通すな」
仲間の一人が頷く。
「排水路は?」
「今日は誰も中へ入らない」
「古い図面を出して、石工を呼ぶ。まず、水がどこから来ているか調べる」
彼は井戸を見た。
「井戸は閉めたままだ。使う水は、引き続き西側の貯水槽から運べ」
作業員たちは、開いた石板から人々を遠ざけ始めた。
オリヤは口を出さなかった。
セイガも。
ヴァルンは二台目の荷車へ戻った。
カイサはオリヤのそばに残った。
「まあ、穴が見つかったところで、私の樽が満ちるわけじゃないのね」
「まだ順番待ちね」
「同情してくれる?」
「少しだけ」
「いらないわ」
カイサはまた銅の輪へ指を掛けた。
くるりと回す。
それからラリオンの二台の荷車へ顎を向けた。
「それより、そっちでは何を買ってもらえるの?」
オリヤが彼女を見る。
「何を売りたいの?」
「それを決めるために聞いてるのよ」
オリヤは少し考えた。
「町で荷をまとめてるのはサルマよ。品物と値が分かれば、話は持ち帰れる」
「買うとは言ってくれないのね」
「私の買い物じゃないもの」
カイサが頷いた。
「売る方は?」
「今回持ってきたのは、布と職人の品。全部、いつでも揃うとは言えないけど」
カイサは荷の減った一台目へ目を向けた。
「少なくとも、ここでは買い手がついたわけね」
「最初の分はね」
「なら、残りが見えるうちに見ておこうかしら」
彼女は街道の方へ視線を移した。
「あなたたちが来た道、私の三台でも通れると思う?」
オリヤは彼女の隊商を見る。
「三台全部を橋の上で横並びにしようとしなければね」
「その予定はない」
「昨日の道なら、通れるわ」
カイサが頷いた。
来るとは約束しなかった。
許可を求めもしなかった。
ただもう一度、街道を見た。
それからオリヤを見る。
「道が話の通りなら、次の行き先の候補にはなるわね」
オリヤが眉を上げた。
「町を見てもいないのに?」
「だから、候補よ」
カイサはまた銅の輪を回した。
「少なくとも、その道を昨日通ってきた相手に、話は聞けた」
二人の背後では、地元の者たちが古い石板の周囲に縄を張っていた。
井戸のそばでは、新しい樽から桶へ水が移されている。
書記がヴァルンを二台目の荷車へ呼んでいた。
「次は、こちらを見せてください」
ヴァルンが荷の留め紐へ手を掛ける。
井戸は、まだ閉ざされたままだった。
オリヤは石板の方へ一度目を向けた。
それから荷車へ戻った。
覆いの反対側を持ち、ヴァルンと一緒に持ち上げた。




