エピソード75 六つの空き場所
その翌々日の朝、ラリオンの交易場では、六台分の場所が空けられていた。
偶然ではない。
カイル・メルは出発する前、次は六台の荷車を連れてくると言っていた。
それ以来、一番端の上屋と、その前にある六台分の荷車スペースには、ほかの商品を詰め込まないようにしていた。
その朝も、そこは空いたままだった。
その代わり、南門の前には一人の騎手がいた。
人間族だった。
旗はない。
軍の護衛もいない。
ランゼが迎えた。
盾は背中に掛けている。
ここ数日の出来事のあと、ランゼは見知らぬ使者を付き添いなしで交易場へ通すことはなくなっていた。
「ヴェルシャインからか?」
「はい」
騎手は平たい書状入れを取り出した。
「こちらで、我々との交易を担当している方に」
「差出人は?」
「南部国境を担当する、アルデラ・ヴェイン殿です」
ランゼは受け取らなかった。
交易場の方を示した。
「俺と来い。担当者に直接渡してもらう」
「馬は?」
「ここにつないでおけ」
門をくぐったところで、伝令が六台分の空き場所に目を留めた。
「隊商のために空けた場所ですか?」
「ああ」
「では、先に手紙を読んでください」
サルマは、すでに上屋の下の机で待っていた。
腰には細い鍵の鎖が下がっている。
隣にはエンナが立っていた。
痛めた右手は、まだ思うようには動かなかった。
ショーンゴは少し遅れてやってきた。
伝令は一度だけ彼へ視線を滑らせた。
そして、すぐサルマへ向き直った。
「どなたに?」
サルマが自分を示した。
「私に」
ショーンゴが言った。
「サルマが読めばいい」
伝令は書状入れを渡した。
サルマは差出人の名と宛先を確かめ、封を調べた。
破られた跡はなかった。
ランゼは伝令のそばに残った。
サルマが紙を広げる。
黙って読む。
それから、もう一度。
ランゼが尋ねた。
「悪い知らせか?」
「中止ではないわ」
短い間。
「でも、予定どおりには来ない」
エンナが左手を差し出した。
サルマが手紙を渡した。
エンナは本文へ目を落とす前に、折り目と封の位置を見た。
指先で紙の端を一度なぞる。
伝令がそれに気づいた。
「何か、おかしいですか?」
「いいえ」
エンナは前に受け取ったヴェルシャイン側の文書が置かれている棚へ目を向けた。
「前のものと同じ折り方。封を置く位置も同じ」
伝令は少し驚いた。
「覚えているんですか?」
「形はね」
エンナはようやく本文を読み始めた。
「子供の頃、ドッカルヴの古い記憶法で、書かれた中身だけじゃなく、形も一緒に覚えるよう教えられたの」
ランゼが彼女を見る。
エンナは目を上げなかった。
「今まで言う必要がなかっただけ」
デランの声が上屋の端からした。
「便利なのに?」
「あなたが何をどこに置いたか覚えるためには使ってないわ」
「安心した」
「あなたの場合、覚える前に散らかるから」
伝令が小さく笑いそうになり、すぐ顔を戻した。
エンナは該当する箇所を読み上げた。
「交易は停止しない。ただし、経路と受け入れ先の安全が確認されるまで、発送は延期する」
伝令が頷く。
「その通りです」
ランゼが腕を組んだ。
「受け入れ先の安全?」
「そちらで起きたことを受けて、次の荷を無事に届け、受け取ってもらえるか確認したいとのことです」
デランが上屋のそばまで来た。
伝令が彼に気づいたのは、声が聞こえてからだった。
「もっと短く書けたのに」
伝令が振り返る。
「どう書くんです?」
「六台送れるほど、まだお前たちを信用してない」
サルマがデランを見る。
「そうは書いてない」
「でも、だいたいそんな感じだろ」
ショーンゴが言った。
「用心するのは当然だろう」
全員が彼を見た。
ショーンゴは六つの空き場所へ目を向けた。
「向こうはもう、ここへ来る途中で一人失ってる」
ランゼは答えなかった。
レスはラリオンの人間ではなかった。
だが、ラリオンへ向かう道で死んだ。
伝令の表情がわずかに変わった。
「そのことも、向こうは忘れていません」
エンナが手紙を机に置いた。
サルマは伝令を見る。
「書状は、この一通?」
「はい」
「口頭での伝言は?」
「交易関係は切られていません」
「六台の隊商は、荷をまとめたまま待機しています」
「ラリオンからの返答を受けて、出発を再検討するとのことです」
エンナが顔を上げた。
「警備と荷の受け入れについて、今どう対応しているかを知らせればいいのね」
「はい。決まった書式はありません」
デランが笑った。
「それは手間がかかるな」
エンナは彼を見もしなかった。
「なぜ?」
「決まった欄を埋めるだけじゃ済まない」
サルマは交易場へ視線を向けた。
そこには、すでに住民たちが集まり始めていた。
群衆ではない。
隊商と仕事をするはずだった者たちだ。
人間族の荷運び人が二人。
倉庫で働くダークエルフが三人。
縄や旅用の覆いを売っている年配の女。
南壁近くで小さな工房を営む若いダークハーフエルフ。
ほかにも、さまざまな出自の商人が数人。
誰も手紙を見てはいなかった。
見ていたのは、空いた場所だった。
荷運び人の一人が尋ねた。
「今日は来ないんですか?」
サルマはすぐ答えた。
「来ない」
「明日は?」
「分からない」
今度は、「分からない」という答えに誰も食ってかからなかった。
若いダークハーフエルフが手を上げた。
「隊商の仕事を先に仕上げるために、ほかの注文を二つ待たせてるんだ」
「何を用意したの?」
「荷車用の金具」
「品物は、しばらく置いても大丈夫?」
「品物はな。こっちが困る」
彼は工房を示した。
「その注文のために、場所を半分使ってるんだ」
年配の女が言った。
「私は布が出ていくと思ってたから、別の注文を一つ断ったよ」
デランが小さく言った。
「来ないだけで、これだけ困るのか」
サルマが頷いた。
「そうね」
飢えではない。
混乱でもない。
倉庫が空になったわけでもない。
それでも、たった一つの隊商が来なかっただけで、すでに誰かの一日が変わっていた。
ショーンゴは上屋の端まで歩いた。
交易場にいる住民たちを見た。
「この隊商を待っていた者は、何人いる?」
七人が手を上げた。
少し遅れて、八人目。
さらにもう一人。
ランゼがショーンゴを見る。
「何を知りたい?」
「隊商が一つ止まると、こっちの仕事がどれだけ止まるのか」
サルマが住民たちを見た。
「もう、向こうに頼りすぎてる?」
「そこまでは言ってない」
ショーンゴは首を振った。
「ただ、来ないなら仕方がないでは済まなくなった」
エンナが言った。
「ヴェルシャインも、それを分かってるでしょうね」
伝令は黙っていた。
ショーンゴが彼へ目を向けると、伝令は首を振った。
「その判断までは、聞かされていません」
「そうか」
ショーンゴはサルマへ向き直った。
「今回は、向こうへ何を渡す予定だった?」
サルマはすぐには答えなかった。
「最終的な一覧は、まだ確定してなかった」
「でも、準備していたものはある」
「あるわ」
サルマはいくつかの品目を挙げた。
職人が作った製品。
加工済みの革。
布。
それに、町の備蓄へ負担をかけずに出せる程度の乾燥食品の小口分。
デランが彼女を見る。
「つまり、こっちも手ぶらじゃない」
「そうね」
ショーンゴは空いた場所を見た。
「なら、どうして俺たちは向こうの荷車を待ってるだけなんだ?」
サルマが止まった。
ランゼが顔を向ける。
エンナも机の手紙から目を上げた。
伝令も同じだった。
デランが笑った。
「お」
「これは好きだな」
サルマがゆっくり言った。
「ヴェルシャインへ隊商を出したいの?」
「荷車が両方向へ走るようにしたい」
ランゼがすぐ答えた。
「道が安全になったわけじゃない。襲撃者も見つかってない」
「分かってる」
「東の街道にいた六人も、見えなくなったからって消えたわけじゃないぞ」
ショーンゴは頷いた。
「今日、荷を積んですぐ出せと言ってるんじゃない。道と受け入れ先を確かめてからだ」
ランゼは彼を見た。
「そこまでして、こっちから出すのか?」
ショーンゴが交易場を示した。
「待ってる間にも、ここの仕事は止まる」
サルマが鍵に触れた。
握り締めはしなかった。
「何台?」
「六台じゃない」
ランゼが言った。
「よし」
デランが手を上げた。
「そこだけは、すぐ話がまとまるんだな」
ランゼは彼を見なかった。
ショーンゴが続けた。
「二台」
サルマが彼を見る。
「いきなり向こうと同じ規模にはしない。まず二台で試すのね」
「そうだ」
エンナが言った。
「それで、誰が行くの?」
ショーンゴがランゼを見る。
ランゼはすぐ首を振った。
「俺は行けない」
デランが笑った。
「その返事だけは早いな」
「襲撃者が三人とも見つかってないのに、町は空けられない」
ショーンゴが頷く。
「お前を行かせるつもりじゃない。護衛に誰を回せるか、考えてくれ」
ランゼが黙った。
デランがエンナへ身を寄せる。
「これじゃ、怒る理由もないな」
エンナが小さく答えた。
「見つけるわよ」
サルマが言った。
「道を知っている者が必要ね」
彼女は交易場の奥に置かれた古い街道図へ目を向けた。
そこには、今ではほとんど使われない古い呼び名も残っている。
サルマが、その一つを口にした。
「灰枝の曲がりを越えて、南の関所まで行ったことがある人は?」
何人かが互いの顔を見た。
細身の人間族の女だけが、少し驚いたようにサルマを見る。
「その呼び名、まだ知ってる人がいたんだ」
サルマが彼女を見る。
「古い記録に残ってる」
女は地図へ目を移した。
「モリクウェンディの記録?」
サルマは一瞬だけ眉を上げた。
「分かるの?」
「昔、同じ呼び方をする人に会ったことがある」
サルマは頷いた。
「ええ。私もモリクウェンディよ」
短く答えたあと、古い地図を指で叩いた。
「でも、古い名前を覚えていることと、今の道を知っていることは別」
視線を住民たちへ戻す。
「だから聞いてるの」
デランが小さく言った。
「今日は急に昔話が増えるな」
サルマは彼を見た。
「あなたの昔話は聞いてない」
「助かった」
サルマは改めて尋ねた。
「古い割れ石より先まで行ったことがある人は?」
今度、手を挙げたのは二人だけだった。
一人は、四十歳ほどに見える肩幅の広いダークエルフ。
もう一人は、灰色のベストを着た細身の人間族の女だった。
さきほどサルマへ古い呼び名を尋ねた女だ。
サルマが二人を示す。
「名前は?」
ダークエルフが答えた。
「ヴァルン」
女が答えた。
「オリヤ」
デランが小さく繰り返す。
「ヴァルンとオリヤ」
オリヤが彼を見る。
「何も言わないで」
「まだ何も言ってない」
サルマが尋ねた。
「ヴェルシャインの奥まで行ったの?」
ヴァルンは首を振った。
「向こうの最初の大きな関所までだ。その先は知らない」
オリヤが言った。
「私はもっと先まで行ったことがある」
全員が彼女を見た。
「一度だけ」
「それで?」
「帰ってきた」
デランが指を上げた。
「帰り道も知ってる。大事だな」
オリヤは笑わなかった。
「今のところ、それ以上の話はないよ」
ショーンゴが尋ねた。
「先導してくれるか?」
彼女は六台分の空き場所を見た。
次に伝令を見る。
それからランゼ。
「条件は?」
ショーンゴが少し笑った。
「まず、それを決めよう」
正午になっても、二台の荷車はまだ出発の支度を終えていなかった。
サルマは二人と、報酬や途中で引き返す場合の条件を話し合った。
荷の持ち主たちには、受け入れ先が決まる前の準備だと伝え、積む品物を確かめていった。
エンナは、町自身に必要なものまで外へ出してしまわないよう確認した。
ランゼは、町の持ち場を空けずに何人の護衛を出せるか調べていた。
伝令は、ヴェルシャインが荷を受け入れるとは約束しなかった。
一台目には職人の製品と布を積んだ。
二台目は一部を空けたままにした。
品物が足りないからではない。
ラリオン自身に必要になるかもしれない物を積むことを、サルマが許さなかったからだ。
オリヤは二台の荷車に沿って歩いた。
車輪を確認する。
それからヴァルンを見る。
「行く?」
ダークエルフが頷いた。
「連れていくなら」
サルマがそれを聞いた。
「行くことになったら、二人とも頼みたいわ」
ヴァルンが彼女を見る。
「俺は関所までしか知らないぞ」
「そこまでは、あなたにも道を確かめてもらえる」
サルマはオリヤを見る。
「その先は彼女に。全部を一人に任せるよりいい」
デランが言った。
「ほとんど褒め言葉だな」
サルマが答えた。
「台無しにしないで」
伝令が帰り支度を整える頃には、エンナも短い返書を書き上げていた。
それを左手で持ち上げる。
右手は、長く使うとまだ痛んだ。
「何と伝えればいいか、最後に確かめさせてください」
伝令が言った。
エンナが手紙を渡した。
ラリオン側から交易を停止する意思はない。
二台の荷車による発送を準備している。
受け入れ可能な場所と条件を確認したい。
出発は、返答と経路の安全状況を確かめたうえで判断する。
ヴェルシャインの軍事護衛は要請しない。
伝令が最後まで読んだ。
「襲撃への対応は?」
「こちらに」
エンナが二枚目を見せた。
短い。
言い訳はない。
東門の警備を増員。
区画内の二組による巡回を継続。
旧い印の使用は停止したままとする。
衛兵の本人確認は、顔を知る者同士で直接行う。
証人の移動には、本人たちが顔を知る衛兵を同行させる。
荷の受け入れはサルマとランゼが確認する。
到着した隊商には、門から交易場まで衛兵を同行させる。
証人は生存。
襲撃者は未発見。
ショーンゴが言った。
「何もせずに待ってるわけじゃない。それは伝えてくれ」
ランゼが付け加えた。
「ただ、襲撃者が捕まったとは言うな」
伝令が頷いた。
「このまま持ち帰ります。判断する材料にはなるでしょう」
デランが尋ねた。
「良い方に? 悪い方に?」
「そこまで私に決めさせないでください。届けるのが仕事です」
返書と警備状況の報告を確認し、書状入れに収めたあと、ランゼは伝令を門まで送った。
伝令は馬に乗り、昼過ぎに出発した。
一人で。
来た時と同じように。
交易場には、六つの空き場所が残った。
だが、その隣には今、ラリオンの荷車が二台立っていた。
まだ旗はない。
新しい呼び名もない。
仰々しい出発の儀式もない。
オリヤは一台目の荷台に腰掛け、予備の車輪をめぐってヴァルンと口論していた。
サルマは、町が余計なものを外へ出していないか確認していた。
エンナは、出発が決まった場合に荷車へ持たせる同行書状の草案を、二行だけ書き直していた。
ランゼが数えていたのは品物ではない。
荷車と一緒に町から出さなければならない人員だった。
ショーンゴは少し離れた場所に立っていた。
デランがそばへ来た。
「向こうが拒否するかもしれないって、分かってるよな?」
「ああ」
「入れてくれないかもしれない」
「ああ」
「ずいぶん図々しいと思われるかもしれない」
「それも分かってる」
デランは少し待った。
「それで平気なのか?」
ショーンゴは二台の荷車を見た。
「平気じゃない」
「でも、向こうが自分たちの隊商を止めるかどうか決められるなら、俺たちもそれを待つかどうか決められる」
デランが笑った。
「それ、もう国家っぽいな」
ショーンゴが彼を見る。
「いや」
短い間。
「今のところ、二台の荷車に見えるだけだ」
夕方になっても、二台はそこに立ったままだった。
受け入れ先からの返事も、道と護衛の確認も、まだ済んではいない。
出発できる状態ではなかった。
だが、もう空ではなかった。
そしてオルヴェンがラリオンになってから初めて、道をめぐる問いの形が変わった。
誰が、こちらへ来るのか。
ではなく。
自分たちは、どこへ行くのか。




