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エピソード74 出発しなかった隊商

ラリオンで起きた襲撃から二日後の朝、その報せは交易路を伝ってヴェルシャインの国境都市にも届いていた。


その朝、隊商は夜明けに出発する予定だった。


だが、夜が明けても政庁の門は開かなかった。


馬はすでに荷車につながれていた。


六台の荷車には、旅用の覆いが張られている。


御者たちは革紐を確かめ、そのうち一人は荷目録の袋数をめぐって倉庫番とひと揉めしていた。


そこへ命令が来た。


待機。


荷は下ろさない。


馬も外さない。


出発の許可が出るまで、そのまま待つこと。


ヴェルシャイン王国の南部国境を管轄する政庁の中庭では、理由までは伝えられなかった。


だから、人々は自分たちで理由を作り始めた。


街道で、また襲撃があったらしい。


レヴェンガルドが通行路の一つを封鎖したらしい。


ラリオンが、よその隊商を受け入れなくなったらしい。


三つ目の噂をタケル・ケルが耳にした時には、御者の一人がすでにそれを決まったことのように話していた。


タケルは足を止めた。


深緑の外套を着た長身の男が腕を組むと、手の甲の鱗が朝の光を拾った。


「誰が言った?」


御者は口を閉じた。


「何をです?」


「ラリオンが隊商を入れなくなったという話だ」


「さっき、聞いたんですが」


「誰から?」


御者は荷車の間へ目をやった。


「……そこまでは」


「なら、確かめた話みたいに言うな。ほかの者が信じる」


タケルはそれだけ言って歩き出した。


リエラ・ノルが二台目の荷車のそばで追いついた。


白い髪は、旅の間よりも高い位置でまとめられている。


こめかみの淡い鱗が、今朝はよく見えた。


リエラは黙ってしまった御者を振り返った。


「あら、話が終わっちゃった」


「噂で商いが止まっては困る」


「待たされてる方も、理由くらい欲しいのよ」


彼女は閉じた門を見た。


「アルデラ?」


「ほかに誰が止める」


「面倒なことになってそうね。あの人、説明するより先に止めたんでしょう」


「聞けば分かる」


「だから、今のうちに言ってるの」


二人は本館へ入った。


廊下は中庭より静かだった。


扉の前にいた二人の衛兵は、顔を確かめると、そのまま二人を通した。


大きな窓のそばに、アルデラ・ヴェインが立っていた。


中年の人間族の女だった。


濃い髪は銀の髪留めでまとめられ、左の頬には短い白い傷痕がある。


手の中の小さな指輪を、石が掌の内側を向くようにゆっくり回していた。


机には三枚の紙が置かれていた。


タケルがそれを見る。


「隊商を止めたのは、それか」


「ええ。ラリオンから来た話よ」


リエラが机に近づいた。


「三枚とも?」


「どうやら、同じ襲撃について」


「せめて、一枚くらいはいい報せだとよかったのに」


アルデラは一番上の紙を二人の方へ滑らせた。


「まず読んで」


タケルが取る。


リエラも隣から覗き込んだ。


報告は短かった。


ラリオン市内で証人二名が襲撃を受けた。


うち一名が連れ去られかけたとの情報あり。


襲撃者は三人。


現地衛兵の印に似たものを使用。


衛兵が追跡したが、一人は古い排水路へ入り、残る二人も市内で見失った。


依頼主は不明。


タケルは紙を持ったまま尋ねた。


「誰からだ?」


「街道の交易所。ラリオンから来た商人の話をまとめたものよ」


「書いた者が見たわけじゃないんだな」


「ええ」


リエラは二枚目を取った。


「こっちは別の商人?」


「別の交易路から。負傷した男と、騒ぎのあとの警備は見たそうよ。襲撃そのものは見ていない」


リエラが文章へ目を走らせる。


「証人一名が負傷。三名逃走……本物の印を使った、ですって」


アルデラは下の一行を指した。


「その続き」


「外見が一致していた、と」


リエラは紙を机へ戻した。


「書いてる途中で、本物になっちゃったのね」


「そこは確かめ直させるわ」


タケルが三枚目へ目を向けた。


「これは?」


「戻ってきた小商人が、道中で聞いた話よ」


彼は三枚を見比べた。


「どれも襲撃を直接見た者の報告じゃない。同じ話が別の道を回ってきただけかもしれん」


「その可能性はあるわ」


アルデラは指輪を机に置いた。


「ただ、三人の襲撃者、証人二人、衛兵の印、町の中での追跡。そこは重なってる。何もなかったとして荷を出すには、気になる話が多すぎる」


リエラが机の端に軽く腰を預けた。


「レヴェンガルドなら、邪魔をする理由はあるわね」


タケルが彼女を見る。


「理由だけなら、ほかにもいる」


「分かってる。最初に浮かぶ名前だと言ったの」


アルデラが頷いた。


「調べる相手には入れる。でも、この三枚だけで決めるつもりはないわ」


彼女は窓へ近づいた。


中庭では六台の荷車が同じ場所に並んでいた。


御者の一人が馬の首を撫でている。


「今日は出さない」


タケルも中庭へ目を向けた。


「明日は?」


「まだ約束できない」


リエラが腕を組んだ。


「交易を止めると受け取られるわよ」


「だから、延期の通知を出す。この隊商を待たせる理由も書くわ」


「御者たちには、言い方を変えただけに聞こえるでしょうね」


「あの人たちには気の毒だけど、積んだ荷ごと失うよりはいい」


タケルが尋ねた。


「何が分かれば出す?」


「街道の状況。それから、ラリオンが警備をどう変えたか」


「犯人が見つかるまで待つのか?」


「そこまでは求めていないわ。衛兵を名乗る者に、証人が連れ去られそうになったのでしょう。次の荷を、誰がどこで受け取るのかは確かめたい」


リエラは机から腰を離した。


「向こうが何をしたか、返事をよこすまで荷を止める。圧力にもなるわね」


「なるでしょうね」


アルデラは否定しなかった。


タケルが彼女を見る。


「取引は続けたい、とも伝えるんだな」


「ええ。返事が必要なのに、関係を切ったと思われては困るもの」


「軍を出して助けるつもりは?」


「ないわ。向こうの警備まで引き受ける約束はしていない」


リエラが口を挟んだ。


「ずいぶん気を遣う取引先ね」


「もう荷を送り、人も失っているのよ。気に入らないからといって、雑には扱えないわ」


部屋が少し静かになった。


リエラは窓の外へ目を向けた。


「……そうね」


扉が叩かれた。


国境警備隊の隊長が入ってきた。


彼女も人間族だった。


短く切った濃い髪。


街道の巡回に使う鎧。


左の肩当てには古いへこみがあった。


肩の留め具を確かめてから、口を開いた。


「中庭からです。まだ馬をつないでおくのかと」


「外させて。今日は出さない。水と餌もお願い」


隊長は頷き、机の三枚へ目を向けた。


「ラリオンの件ですか?」


「市内で証人が襲われたそうだ」


タケルが答えた。


「詳しいことは、まだ確かめている」


「では、出発させる時には護衛を増やすべきです」


アルデラは首を振った。


「今は増員を決めないわ。通常の護衛で通せるか、先に確認する」


隊長の眉が寄った。


「足りないと分かった場合は?」


「延期を続ける。出すために必要な人数を、改めてあなたと詰めるわ」


「軍の護送にはしたくない、と」


「ええ。商いのために送り出した兵が、介入の始まりに見えるのは避けたい。でも、そのために足りない護衛で行かせるつもりもない」


隊長は数秒考えた。


「分かりました。まず街道の状況を確かめます」


彼女はもう一度、紙へ目を落とした。


「レヴェンガルド以外の者も考えているのですね」


「まだ絞れていないわ」


「ラリオン内部の者が関わっている可能性も?」


リエラが隊長を見た。


アルデラは二枚目の報告に触れた。


「本物の印だったのかさえ分からない。内部の者が渡したのか、外から似せたものを持ち込んだのか。今はどちらの可能性も残しておく」


タケルが付け加えた。


「排水路を知っていたという話もある。町に詳しい誰かが、外の連中に道を教えた可能性もある」


「それなら、内部か外部かの二つには分けられませんね」


「ええ」


隊長は短く頷いた。


「中庭には、今日は出発せず、次の指示を待つように伝えます」


「明日には出せると、約束はしないで」


「皆、嫌な顔をしますよ」


アルデラは窓の外を見た。


「分かってるわ」


隊長が出ていき、扉が閉まった。


リエラは、アルデラが取り出した白紙を見ていた。


一枚。


その隣に、もう一枚。


「返事を待つ相手は、ラリオンだけじゃなさそうね」


タケルも紙へ目を向けた。


「王宮にも送るのか」


「ええ」


「前の報告の続き?」


「それに、今回は指示を求める」


リエラから笑みが消えた。


「どこまで関わっていいのか、決めてもらうのね」


アルデラはペンを取った。


「今日、隊商を止めるだけなら、私の権限で足りるわ」


タケルは椅子を引いた。


この部屋に入ってから初めて腰を下ろす。


「その先は?」


「だから書くのよ」


アルデラは紙に目を落とした。


ラリオン。


旧称オルヴェン。


旧レヴェンガルド領。


当管区の交易相手。


独立国家としての正式承認は行っていない。


今後の公式な扱いについて、王宮の判断を求める。


リエラは最初の数行を読んだ。


「取引先として扱うことと、国として扱うことを分けたのね」


「そこは私だけでは決められないもの」


アルデラは続けた。


市内で証人への襲撃があったとの報告あり。


所属不明の集団が、現地衛兵の印、または外見の似た印を使用したとされる。


襲撃者の一人は、古い排水路へ入って追跡を逃れたという。


いずれも、当方による現地確認は未了。


集団の所属、およびレヴェンガルドとの関連は確認されていない。


タケルは黙って読んでいた。


次の部分には、少し間を空けて別の見出しが置かれた。


当管区の暫定措置、および今後の対応に関する提言。


今回の隊商は、安全状況の確認が済むまで出発を延期する。


ラリオンとの交易関係は維持する。


軍事支援および新たな政治的約束は、王宮の指示なく行わない。


現地当局による治安維持と、交易の継続が可能かどうかを引き続き確認する。


タケルは最後の一行をもう一度読んだ。


「今までの方針は変えずに、その先を聞くんだな」


「勝手に変えられる話ではないでしょう」


「確認しただけだ」


リエラが小さく笑った。


「二人とも、相手が何を分かってるか知ってるくせに」


アルデラはペンを止め、タケルを見た。


「なら、先を読んでもらっていいかしら」


「書けば読む」


リエラは声を立てずに笑った。


それから、窓の外へ目をやった。


中庭では御者たちが動き始めていた。


出発のためではない。


一頭ずつ、馬を荷車から外している。


「ラリオンが残ったら、ずっとこんなふうに、一台出すたびに考えるの?」


アルデラも中庭を見た。


「そうならないように、今のうちに扱いを決めてもらいたいのよ」


「残ると思ってるのね」


アルデラは机の指輪へ手を伸ばした。


すぐには答えなかった。


「消えるのを待っていれば済む相手なら、こんなに何度も報告を書いていないでしょうね」


窓の外で、一頭の馬が蹄を鳴らした。


アルデラは二枚目の白紙を手前へ引いた。


今度はラリオンへ送る通知だった。


国家間の関係を定める文書ではない。


差出人として書かれたのも、国王ではなく、国境を預かる彼女の名だった。


タケルが最初の一行を読む。


「ラリオンとの交易は継続する」


「ええ。まずそれを伝える」


続いて、延期の理由が書かれた。


今回の隊商の出発は、街道および受け入れ先の安全状況を確認するまで延期する。


衛兵の本人確認と、荷の受け入れ場所の警備について、現在の対応を知らせてほしい。


リエラが言った。


「催促に聞こえるわね」


「返事が欲しいのだから、それでいいわ」


タケルが尋ねた。


「誰に運ばせる?」


「騎馬の伝令を一人」


ちょうど扉が叩かれた。


戻ってきた警備隊長が、中庭へ指示を伝え終えたことを報告する。


アルデラはラリオン宛ての紙を示した。


「これを先に届けたいの」


隊長は文面を読み、顔を上げた。


「護衛はつけますか?」


「大げさな一行にはしない。いつもの伝令を一人出したいけれど、今の街道で通せるかしら」


「出発前に巡回の報告を確かめます。危険があれば、無理に進ませません」


「そうして。途中でも様子がおかしければ引き返すように」


タケルが立ち上がった。


「俺が行く。道も、受け取る相手も知ってる」


「あなたは残って」


即答だった。


リエラがタケルを見上げた。


「早かったわね」


タケルは彼女を見ずに尋ねた。


「なぜだ?」


「あなたはもう、向こうで交易の交渉相手として知られている。今度はあなたが延期の通知まで持っていけば、条件を変える交渉に来たと思われるかもしれない」


アルデラは紙を軽く持ち上げた。


「今日は、これを届けて返事をもらうだけでいい」


「分かった」


タケルは座り直した。


リエラが身を寄せる。


「行かせてもらえなくて残念ね」


「お前が代わりに行くか?」


彼女はアルデラを見た。


アルデラは首を振った。


「あなたも同じよ」


「まだ何も言ってないわ」


隊長が小さく咳払いをした。


「では、使者は誰を?」


「ラリオンとの交渉に関わっていない者を」


隊長はタケルとリエラへ目を向けた。


「竜の血を引く者は避けますか?」


アルデラは少し考えた。


「今回は、人間族の伝令を」


「旅装で?」


「普通の旅装でいいわ。旗も持たせない。伝令であること自体は隠さなくていい」


「武器は、通常の携行品でよろしいですね」


「ええ。帰着の予定も、出発前に知らせて」


隊長が頷いた。


「予定を過ぎても戻らなければ?」


「まず街道の状況を確かめる。その間、次の隊商も出さない」


隊長が退出すると、リエラは閉じた扉を見た。


「手紙を届けるだけでも、そこまで気にするのね」


タケルが答えた。


「受け取る側が気にするかもしれん」


彼女は彼の手の甲を指した。


「あなたは隠す気もないし」


タケルは鱗へ目を落とした。


「手袋なら持ってる」


「そういう話じゃないでしょう」


「分かってる」


アルデラはラリオン宛ての通知に署名し、折り畳んだ。


王宮へ送る方は、まだ机に残っていた。


彼女はそちらの末尾に、判断を求める項目を一つ書き足した。


二通は、それぞれの宛先に応じた印で封じられた。


一通は、今日止めた荷を再び動かすため。


もう一通は、その先の関係を決めるためだった。


正午までに、政庁の門は開いた。


街道の直近の巡回報告を確かめたあと、出発を認められたのは騎手一人だった。


簡素な旅用外套を着た人間族。


旗はない。


護衛もいない。


彼は封じられた通知を携え、ラリオンへ向かった。


六台の荷車は中庭に残った。


馬はすでに荷車から外されていた。


朝、倉庫番と揉めていた御者が、今度は荷台の覆いを留め直している。


取引がなくなったわけではない。


だが、この日の荷は動かなかった。


王宮へ送る報告は、もう少し遅れて送り出された。


ショーンゴの手にも、ランゼの手にも渡らない。


ヴェルシャインのさらに奥へ。


王国としてラリオンをどう扱うかを決める者たちのもとへ。


そこには、まだ国家として承認していないと記されていた。


しかし今回は、観察を続けるという報告だけでは終わっていなかった。


その下に、王宮へ答えを求める問いが一つ添えられていた。


もし、ラリオンが消えなかったら。


どうするのか。

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