第35話 立場と責任
全ての投票用紙と票数を記録した紙を集めた桐谷の肩に手を置いたのは、にこやかに笑う瑞希だった。
桐谷は瑞希の意図を解せずに、きょとんとするばかりで、手にしていた投票用紙と紙が落ちかけたところを瑞希が支える。
「これから先は桐谷副会長に任せるけど、やっていける?」
「え、私にですか?」
「もちろん。最終判決は来年もこの学園にいる桐谷副会長がするべきだよ」
「……わかりました。最後まで務めさせていただきます!」
桐谷は一層気を引き締めて、間違いのないように票数を足していく。
十数秒手を動かした桐谷は手を止めると、「終わりました」と学園長に告げた。
「それなら、結果を聞かせてもらおう」
「票数は314。内、有効票は306で、無効票が7、白票が1です。学園生徒会選挙規則に則り、今回の投票は有効であることを確認しました」
学園長と糸魚川先生にその旨を伝えると、桐谷は改めて息を吸った。
これからの生徒会会長への期待と自身の不安を籠めた、長くて短いその間を取り、桐谷は口を開いた。
「有効票の内訳は、南谷美琴さんに92票、九条雪乃さんに214票で、第25回生徒会会長は九条雪乃さんに決まりました」
雪乃に向けて「おめでとうございます」と言った桐谷は、少なくとも千秋からは喜んでいるように見えた。
「九条雪乃君」
「はいっ」
学園長からの指名に元気よく返す雪乃。
雪乃は今まで立っていたところから動き、学園長と机を挟んで向かい合う。
「第25回生徒会会長として、活躍を期待する。これから半年、その立場を努々忘れないように」
「はいっ!」
その心地よく清々しい返事に続いて、学園長室は拍手の音に包まれた。
しかし、学園長は数秒の間を設けてから、拍手を終えるように合図をする。
すぐに拍手を中断した糸魚川先生は腕時計を確認すると、学園長の合図に同調する。
「もうすぐ始業時間になるから、間に合うように移動するように。1限に間に合わなかったら遅刻扱いにするからな」
「それは大変ですね」
授業のない3年生は急ぎもせずに言う。
一人気ままに振る舞える生徒がいたことをすっかり忘れていた糸魚川先生は小さくため息をついていた。
「七瀬、解散の挨拶を」
「わかりました。皆、1限には遅れないようにね。それじゃあ、今日は解散!」
手短な挨拶を終え、扉に近い人から学園長室を出ていく流れになり、学園長と糸魚川先生、瑞希以外は扉へ向かう。
先頭にいた識宮が学園長室から出たくらいに、糸魚川先生の呼び止める声が響いた。
「待った。九条と八前は今から生徒会室に来るように。お前らには私個人として言うことがある」
桐谷や一ノ瀬から心配したような視線が送られてくるが、話すことが分からない以上、大丈夫なのかも分からない。
「二人は特別に1限を公欠を認めるが、他は違うからな」
糸魚川先生の言葉で、雪乃と千秋、瑞希以外は止めていた足を動かして、そそくさと学園長室を後にした。
「では学園長。私はこのあたりで失礼します」
「協力ありがとう糸魚川先生」
糸魚川先生に続いて、雪乃、千秋、瑞希の順に学園長室を出て、その足で生徒会室へ向かう。
「七瀬、なぜお前がついてくる」
「ダメなんですか?」
「ダメというわけではないが……」
「じゃあついていきます」
自由すぎる瑞希に諦めが先にきた糸魚川先生は、再度ため息をついてから瑞希が来ることを許可した。
糸魚川先生に連れられて、千秋たちは生徒会室の前にいた。
生徒会室は選挙期間が終わったために、誰もいないときは鍵がかけられている。
元々連れ出す気でいた糸魚川先生は既に鍵を確保しており、その鍵でロックを外す。
「全く。本当にお前らは私の予定を崩すのが上手いな」
「あはは、それはどうも」
「……まあいい。私がお前らにしたことに比べれば、可愛いものだからな。そこは受け入れてやる」
生徒会室の扉を引いて開けると、他3名に先に入るように手振りをする糸魚川先生。
3人はそれに従って生徒会室へ入り、糸魚川先生は遅れて入って鍵は掛けずに扉だけを閉めた。
「ふう。とりあえず座れ。長話をするつもりはないが、何があるか分からないからな」
そう言って瑞希を睨む糸魚川先生。
彼女らの間で何があったのかは想像することしか出来ないけれど、それなりのことがあったのは間違いない。
生徒会長の椅子には誰にも座らず、三つずつ机を挟むように並べられた椅子の片側に糸魚川先生が、反対側に雪乃を挟んで左右に千秋、瑞希と座った。
全員着席したところで雪乃の正面に座る糸魚川先生が口を開いた。
「まずは九条。生徒会長就任おめでとう」
「ありがとうございます」
「まさか1年生が生徒会長になるとは、私も想定外だったよ」
七原学園として運営されてから今回を含めて25回の生徒会役員の中で、1年生が生徒会長になるのは雪乃が初めてだった。
「イレギュラーが起こる可能性は高いからな。気を抜くとすぐに足を掬われるぞ」
雪乃の緊張が強くなるのが千秋にはよく分かる。座ってからずっと千秋の右手を占領しているこの手が震えているのを感じたから。
「他の生徒会役員が補佐しますから」
「八前の言う通り、周りを頼るのは構わん。ただ、周りも全て1年生だということは忘れるなよ。八前は前生徒会庶務をしていたから、聞くなら八前にだ。私に聞かれても困る」
面倒事を増やすのは許さない、という強い意思を前向きに発する糸魚川先生に雪乃は手を震わせながらも肯定の意を示した。
そして流れる無言の間。
話を聞く専門になっていた瑞希は誰も話す様子ではないことを確認してから口を開いた。
「……糸魚川先生、まさかこれだけのために呼び出したわけじゃないですよね?」
「当たり前だ。だが七瀬、お前がいると話せない内容でな」
「話せない内容?」
「だからお前は席を外――」
コンコンコン。
突如として三打のノックをされた扉に瑞希以外の3人の視線が集まる。
すぐに誰が来たのか予想のついた糸魚川先生は瑞希を見て言う。
「はぁ。お前の仕業か。七瀬」
「どうだろうね?」
「惚けなくてもいい。……入れ」
「来ちゃった♪」
扉を開けて上機嫌で立ち入った千春を、糸魚川先生は特大のため息で迎えた。
「久しぶりだね。糸魚川先生」
「私は再開を望んではいなかったがな」
「そう言わないでよ。折角の客人だよ?」
「……はぁ。全く、お前らは」
本日2度目の諦めを表したため息の後、糸魚川先生は千春に座るように促したが、千春は言うことを聞かずに雪乃が座る椅子の背もたれに手を置いて動かなくなった。
「今は瑞希がいて話したいことを話せないって感じかな?」
「お前、まさか盗み聞きか」
「人聞きの悪いこと言わないでよ。予想しただけじゃん」
「……いまいち信用できないが、そうだとは言っておく」
「じゃ、話しても良いよ」
千春の言動に理解できない糸魚川先生の心からの一言は「…は?」だった。
「お、おい。お前が困るからと私は広めないようにしてきたのに、なぜ今になって良いんだ」
「だって瑞希は昨日、私の家に来てもらったし。ね、瑞希?」
「はい。千春のこと、ちょっとだけ知りました」
「そういうことは早く言え!」
千春は反省の色が見えない雑な謝り方をして、怒られたとは思えない態度で糸魚川先生に話題を進めるように急かす。
やりたい放題な千春に糸魚川先生の怒りのボルテージが上がっているのがよく分かる。
「……わかった。お前が言っていいと言うなら話す。だから少し静かにしろ」
糸魚川先生が言いきる前に千春と瑞希が黙ったことにより、生徒会室に静寂が訪れる。
できるなら最初からやれ、とでも言いたげな顔で、雪乃の後ろに陣取る千春を見る。
「九条、そして八前。分かっているだろうが、人前でくっつくのは禁止、個人が有利になるルールの作成は禁止。八前は2期連続での当選だから、九条と関係を深めすぎると手引きしたと思われて周りからの信頼を無くすだろうから気を付けろ」
他にも生徒会室の開けられる時間帯や行事のある日には他生徒より早く学園に来て準備することなどを糸魚川先生からは伝えられた。
「当分は八前と動きを合わせるといい。八前ならやることは知っているだろうしな」
「はい。問題ないです」
「よし。最後に、一緒に住んでいることには私からは口出ししないが、誰かに見つかる可能性は大いにあると思え」
粗方言いたいことを伝えられた糸魚川先生は椅子に背を預けて楽な体勢になる。
「後は好きに話せ。私がいると不安なら私は席を外すが」
「いいえ、大丈夫です」
「そうか? それにしては九条と机で隠してまで手を繋いでいるようだが」
雪乃の手がビクッと反応し、直後に千秋の手を強く握る。
千秋は雪乃の手を握り返しながら、落ち着いて糸魚川先生に問う。
「どこで分かりました?」
「八前は隠すのが上手かったが、九条はそうでもなかったな。特に肩付近を見れば分かる。右と左とで力の籠り方が違えば気付くさ」
「なるほど。参考になります」
「はっきり言うと、私はお前らがそれを隠し通せるか不安だ」
一段と雪乃の手が強く握ってくる。目敏く雪乃の動きを見ている糸魚川先生はこれも指摘する。
雪乃のテンションが下がってきたところで、糸魚川先生は追い撃ちをかけるように、言い忘れていたことを口にする。
「お前ら、分かっているだろうが、歳に見合った行動をするように。やることやって退学になるのはお前らも私も困る」
「糸魚川先生も、ですか?」
「優秀な駒が二つも減ると私のキャリアが下がるからな」
要するに給料が減るからだ、と言っていいのか分からないラインで理由を補足した糸魚川先生に、雪乃の頭上から千春がツッコミを入れる。
「本心では心配なんだよ」
「黙れ。追い出すぞ」
「糸魚川先生はツンデレ属性を持ってるからね。根は優しいけど態度と口調がちょっと怖いんだよ」
「七瀬、冷静に分析するな。二人まとめて後で生徒指導行きだ」
千春と瑞希は不満を露にするも、糸魚川先生は聞く耳を持たない。
「どうせならここでやるか」
「千秋と雪乃ちゃんがいるときは嫌だなぁ」
「それは私も同意です」
「わかった。なら、二人が2限に行った後でお前らをみっちり指導してやる」
生徒指導のことを言われているのに二人は特に怯えた様子もなく、どちらかというと楽しみにしているようだった。
なぜ二人がそこまで生徒指導を嫌がらないのかは、まだ千秋と雪乃には分からなかった。
「はぁ。じゃあ、八前と九条は時間になったら教室に行け。それと、問題児どもはここで待機していろ。私は一度職員室に行く」
席を立った糸魚川先生を誰も止めることなく、糸魚川先生は鍵を置いて生徒会室を出ていった。
「雪乃ちゃん。糸魚川先生は結構厳しいことを言ってたけど、あれは優しさあってのものだから。先生は『駒が減るから』とか言ってたけど、やっぱり二人のことを守りたいって気持ちの方が強いと思うな」
「どうしてそう思うんですか?」
「1年以上あの人に監視されてたからね。大体のことは分かるよ」
どこか懐かしむような表情が千春の顔には現れていた。
自分のためではない行動でどれだけ身体に無理をさせていたのかは今ではもう分からないけれど、それに見合うだけの結果は得られたらしい。
「だから、雪乃ちゃんは安心して。私も千秋も、雪乃ちゃんを守るから」
千春の宣言に千秋も頷き、雪乃は気恥ずかしくなったのか、そっと千秋の手を2回握ってから離した。
「そろそろ1限も終わるし、私たちは行こっか」
「そうするか。千春姉も七瀬先輩も、同席していただいてありがとうございました。心強かったです」
「これだけのこと、お礼を言われることでもないよ」
「私は雪乃ちゃんのためだから。そこのところ誤解のないように」
「はいはい」
「あー、その反応はダメでしょ。可愛い婚約者のことを思ってくれる行動なのに」
拗ねたふりをする千春に千秋は言葉を返すことなく、雪乃と共に椅子から離れる。
歩幅を合わせて歩き、扉の前で千秋はポツリと言葉を残した。
「……感謝してる」
「ふふっ」
隣に立つ雪乃が笑うのに小さく微笑み返して、千秋と雪乃は生徒会室を出た。
ゆっくりと閉められた扉を見送った千春と瑞希は、二人顔を見合わせて小さく笑った。
「私の家族、可愛いやつばっかりでしょ?」
「そうだね。こっちまで笑顔になっちゃうくらいには」
「よければ瑞希も可愛がってあげて」
「それは無理だよ。私が入っていったら邪魔者になっちゃうから」
瑞希にはもう少し二人と話してみたいという気持ちがあることを千春は気付いていた。
相変わらずな現状維持を好む瑞希に千春は苦笑する。
「まあでも、今から環境が変わっていくから雪乃ちゃんは忙しくなるだろうし、無理に話しにいかない方が良いかもね」
「生徒会長だもん。色々気になっちゃうだろうからね」
自身の経験を振り返ってみても、生徒会長になって初めの頃はとても忙しく感じたし、周りからの評価をいつも気にしてしまっていた。
「あれからもう1年かぁ」
「時間の流れは早いね」
あと一週間と少し経てば、千春と瑞希は卒業する。
タイムリミットが近づいていることを理解しながらも、今は今したいことをする。
一時間を終えたと伝えるチャイムが生徒会室にも響く中で、二人は四方山話で盛り上がる。
今はただ楽しいことをすることに決めたから。
チャイムが鳴ってから5分もしないうちに、糸魚川先生は生徒会室へ戻ってきた。
席は雪乃がいた位置に千春が座り、千秋のいた位置は空席になっている。その他は変わらず、糸魚川先生はニヤッとして頬杖をついた。
「さて、生徒指導を始めよう」
「そうは言うけど、実際側だけじゃん」
「そこ。静かに」
注意を受けた千春は大人しく引き下がり、背もたれにもたれかかる。
「そう不貞腐れるな。お前には聞きたいことが山ほどあるからな。全て聞くまで帰らせる気はないぞ」
「えー。ひどーい」
「気持ちが籠って無さすぎるよ千春……」
隣からのツッコミに頬が緩んでしまい、仕方なく気持ちを切り替える。
視線を前に向けると、千春の動きを何一つ見落とさないように、熱心に千春を観察する糸魚川先生と目が合う。
「それで、何が聞きたいの?」
「まあ、これは確認みたいなものだが、お前、九条の演説に手を加えたな?」
「うん。中々上出来だと思ったけど、何か変だった?」
「全く。完璧に近い演説だった」
「じゃあ何だって言うの?」
糸魚川先生が何にこだわっているのかが分からず、千春は少しだけ疑心暗鬼になって訊く。
「分かっていないようだが、1年生があれほどの文章構成と内容を考えて、余裕のある演説ができると思うか? ましてや、過去の文化祭のことまで挙げて、一度しかしたことのない行事を調整して期間を延ばすとまで宣言した。いくらなんでも強気すぎる。お前か七瀬が手を加えた以外あり得ないだろう?」
糸魚川先生から注目された瑞希は首を横に振り、自分が関与していないことを表明すると、今度は千春へ視線が移動する。
「私は内容には一切口出ししてないから。私がしたのは文章の下書きを見ただけ。手直しも必要のないくらい、最初から上手くできてたから」
あの演説は間違いなく雪乃自身で作り出したものであるのは、千春もよく知っている。
睡眠時間を少しだけ削って文章と向き合っていた雪乃の姿をずっと見てきたから。
「ねぇ。千春、今『私は』って言ったよね?」
「うん。確かにそう言ったよ」
千春は手を加えなかったが、もう一人、八前の家には生徒会役員がいる。
「なるほど、お前ではなく彼が……いや待て。お前の弟はまだ――」
「そうだよ。千秋も1年生だよ。雪乃ちゃんと同じように」
「はは……まさか私が目を付けていた奴の他にも優秀な人材がいたとはな」
文章は雪乃が、内容の手助けは千秋が。糸魚川先生が疑ったものは全て嘘偽りなかった。
「これについてはもういい?」
「ああ。一度に二人も優秀な人材を見つけられるとは思いもしなかったが」
半分冗談で言っているのは分かるが、千春は念のため釘を刺すことにしておく。
「あの子たちに手を出したら私が許さないけどね」
「おお怖い怖い」
冗談だろうと反応を返してみせたが、千春はどうやら冗談で話していたわけではなく、笑顔を崩さないまま、強い視線を向けていた。
「夜道では背後に気を付けるようにね?」
「……お前、まさか本気で…?」
「冗談でこんなこと言わないよ。私はそういうタイプの人間じゃないことくらい知ってると思うけど」
「わかった。わかったからその笑みはやめろ」
横目で千春の様子を伺った瑞希が震え上がるほどの強烈なオーラに、糸魚川先生も物怖じして話題を変えた。
千春の機嫌を直らせるために糸魚川先生が選んだ話題は、演説中に起きた事件のこと。
幸い、事前からの対策により被害が大きくなることはなかったが、怪我をした人物が千秋の友人であったことから、糸魚川先生はまた何か企んでいたのではないか、と予想を立てていた。
「それに関しては私が助言をしたよ」
「お前の弟にか?」
「千秋にも、雪乃ちゃんにもかな。表に普通に出られない私がした少しばかりの抵抗だと思ってくれればいいよ」
この口頭の矛先は糸魚川先生に完全に向いていた。
千春を生徒会役員にしたのは紛れもなく糸魚川先生であった。一年前のあの日、千春は拒否権もなく、ただ言われるがまま生徒会長に立候補した。どういうわけか、決戦投票を行うはずだった相手がいきなり辞退して信任投票になった。
当時の千春にとって、それは嬉しくない事実だった。瑞希に話した通り、千春は目立ちたくなかったからだ。
この学園では、信任投票は余程のことをした学生でなければ信任される。問題行動を起こさないように仕向けていた先生陣により千春の行動は全くと言っていいほど問題なく、千春も自分までもが辞退して生徒会長の座を空席にすることは考えられても行動に移すことはできなかった。
「千春……」
昨日話を聞いた瑞希にとって彼女の叫びは理解のできるもので、彼女を地獄から引きずり出した身としてはあの時の行動が正しかったと感じられる証拠でもあった。
「先生たちはいつも私に『見本になるような行動を心掛けるように』なんて言ってたっけ。私、あの言葉が嫌いだったんだ」
「……お前には悪いことをした」
何かを言える立場ではないと感じたのか、糸魚川先生はただその言葉と共に頭を下げた。
千春は慌てて糸魚川先生に顔を上げるように頼み、糸魚川先生はそれに従う。
「実を言うと、糸魚川先生だけは好印象だったんだよ」
「は…? なぜ私が…?」
「教師陣は『自分が見てきた~』って誇らしくしてるだけで何もしなかったけど、先生は違った。ちょっと口煩いときはあったけど、ちゃんと私のことを考えてる言葉ばっかりだったから。それと、人を使って優越感に浸るような人じゃなかったからさ」
千春は苦笑してそう言うと、「それとね」と言葉を繋げる。
「先生のおかげで瑞希と会えたから」
今という時間は過去の時間によって成り立っている。もし、あの時あの場所で誰かと会わずにいたら、今というものは存在しないだろう。
「私は、お前にあれだけの仕打ちをしたんだぞ…?」
「それでも、先生が厳しくしてくれなければ、私は瑞希に会えなかったかもしれないんだ」
朗らかに笑う千春とは異なり、糸魚川先生はまだ少し苦しそうな表情をしていた。
「私は正しいことをできなかったと今でも思うときがある」
「やり方次第ではもっといい方法があったかもね。でも、私は今幸せだから、そのやり方も正解だったと思う」
ありがとう、と言い慣れない相手に呟いて、千春は椅子に今一度座り直す。
前のめりになっていた自覚はあったけれど、これほど話に熱が入っていたとは思わなかった。
「幸せ、か。私の心を締め上げてきたものがお前にとって幸せに繋がっているとはな」
小さく笑った糸魚川先生は改めてため息をついて普段通りの振る舞いへ戻そうとする。
千春もリフレッシュしようと、今度は自ら話題を提供することにした。
「過去の清算とでも思ってさ、私と瑞希が初めて会ったときの話をしても良いかな?」
「えぇ~。恥ずかしいよ」
自分の過去を知られるとわかった瑞希は、恥じらいを見せるも完全に断ろうとはしていない。
「良いじゃん良いじゃん。普段恥ずかしがるところを見せない瑞希がこうなるくらいの話だよ?」
「確かに気になるな」
「もう。糸魚川先生まで……」
「ね、良いでしょ?」
渋々頷いた瑞希にお礼を言ってから、千春は過去を振り返る。




