第36話 立場と責任+1
時は一年前の1月。春休みが終わり、課題テストが行われていた頃の話だ。
七瀬瑞希はテストの点数で勝ちたいと思っていた相手がいた。
その相手こそ、八前千春。
このときはまともに顔を合わせたこともなく、ただ一方的に敵視していたと言っても過言ではなかったが。
(今回こそ越えてみせる…!)
各教科の勉強を徹底的に行った瑞希は、今回のテストは非常に手応えを感じていた。
今回の課題テストの最終教科は数学だった。
数学は毎度お馴染みの難しい最終問題があるのだが、それも手に取るように分かり、検算結果も正しいことを示していた。
チャイムの音と共に会場監督の先生が気だるそうに「止め」と指示して、解答用紙を回収される。
枚数を確認すると、何度か机に解答用紙の束を打ち付けて整えると、小脇に挟んで出ていく用意を終えた。
「それじゃあ、解散していいぞ~」
先生はそれだけ言うと解答用紙を持って教室を出ていった。
先生がいなくなった教室ではテストに関係ない雑談やテストの存在に対する愚痴が飛び交っていた。
「ようやく終わったぁ!」
「マジでテストとかいらねぇわ! な、そう思うだろ!?」
「ちょいちょい。七瀬さんがいる前でそんなこと言うなって」
男子生徒三人が瑞希のことを意識して、すぐに話題を転換する。
別に気にしなくていいのに、なんて思う瑞希の気持ちが届くことはなく、既に男子生徒たちは瑞希には到底分からない話に夢中になっていた。
他のところに耳を傾けてみると、今度は女子生徒二人がテストの話をしているのが聞こえてくる。
「七瀬さん、今回は八前さんを越すかな?」
「どうだろうね。八前さん、来てないみたいなこと、Aクラスの友達が言ってたけど」
その女子生徒の言葉を聞いて、瑞希がじっとしていられるわけがなかった。
勝手ではあるが、勝負をしている相手がいないなんて思いもしなかったからだ。
瑞希は今すぐにでも事情を知っていそうな人に聞きに行きたかったが、瑞希もまた優等生のレッテルを貼られていたことで、終礼前に抜け出すことはできなかった。
終礼が終わるや否や、瑞希は千春のことを知っていそうな人に何があったかを聞きに行ったが、わかったことは千春という人物を十分に知っている人はこの学園にはまだいなかったことだけだった。
少しだけ頭の回る瑞希は、事故に遭ったことによる公欠か、考えられないことではあるがズル休みの欠席連絡があったのではないかと考えた。
他人のプライベートなことを聞きに職員室に行くのは気後れしたという理由もあるが、採点中にわざわざ個人的な疑問を聞きに行くのも間違っているように感じ、瑞希は第一に保健室に向かった。
保健室には河瀬先生という保健室担当の先生がいる。
とても若く見える先生ではあるが、教頭をしていた時期があるというのには驚いたものだった。
「あら? ええと、あなたは確か……」
「2年B組の七瀬瑞希です」
「やっぱり。可愛い子がいるなぁって目星をつけてたんだよ」
「えっ」
冗談だと話をなかったことにする気があればどれほど良かっただろうか。河瀬先生はニコニコと笑うだけで、自身の発言を取り消す素振りがない。
瑞希はちょっと河瀬先生のことが不安……というか怖かったけれど、今回保健室に訪れたわけを話してみることにした。
「あの、八前さんって……」
「千春ちゃんから連絡があったの!?」
名前を出しただけで予想だにしない反応を示した河瀬先生は、瑞希が驚いているのを見てハッとする。
「ごめんなさい。大きな声を出すつもりはなかったの」
「い、いえ。大丈夫です。それより、八前さんが今日学園に来ていないと聞いたのですが、本当なんですか?」
「あまりプライベートなことを言うのは良くないけれど、実は千春ちゃんからの休む連絡がなくて、何かあったのか心配した先生が確認の電話をしても出ないんだって。私も心配して保健室の電話と私のスマホから掛けてみたけれど、どちらも応答なしだったわ」
「そうですか……」
落ち込む瑞希に、河瀬先生は保健室の先生らしく、「何かあったの?」と問いかける。
「えっと、実は私は勝手に八前さんと点数を競っていて、今回こそ勝てそうだと自信があったんです。でも、クラスメイトから八前さんが来ていないって聞いて。だからここに来てみたんです」
なぜかさらっと口にできてしまったことに、瑞希自身も驚いた。毒気を抜かれたからか、体が少し軽くなったようにも感じる。
流石は保健室の先生と言う他なく、河瀬先生にはちょっとだけ心を開けるような気がした。
「いいライバルを見つけたってことね」
「一方的に、ですよ」
「尚更、千春ちゃんからもライバルだと思われないといけないわね。きっとあなたたちは良い関係になれるわ」
瑞希は内心その言葉が嬉しかった。
自分も彼女と同じになれるかもしれないという現実が、入学当初の瑞希の希望を叶えると思ったからだ。
これまで瑞希が見てきた千春のイメージは、何もかもを完璧にこなす、生徒たちからも先生方からも期待されている存在だった。
自分よりも優れた人と競って、最後に勝つことができるのならそれでいい。そう思っていたのに、後味の悪さが残る瑞希は自分の思いに疑念を抱いた。
「さてと。もう保健室に用がないなら閉めちゃうけど、いいかしら?」
「はい。突然すみませんでした」
「良いのよ、そのくらい。よかったら明日もここに来てみて。何か進展があれば、話せる範囲で教えてあげるから」
「ありがとうございます。では、明日も来ます」
河瀬先生は小さく頷いて、施錠の準備を始める。
瑞希はそれの邪魔にならないよう、てきぱきと帰宅する支度をして、保健室を後にした。
瑞希が放課後に保健室に通うようになってから約3週間。課題テストの日を含めて、千春は11日連続で学校を休み、学園の誰にも姿を見せなかった。
「……今日も来ませんね」
「そうねぇ。でも、事故とか入院とかそういうのは連絡がされるはずだから、絶対にどこかにはいると思うのだけど」
登校日はかなり大切だ。特に重要になってくるのは、3年生の終わり頃。大学入試の際、登校日が3年間で15日を越えると、学園長からの推薦書が貰えず、学校推薦が使えなくなってしまう。
つまり、合格しやすい試験方法をなくしてしまうのだ。
そのため、千春がこれ以上休んでしまうと、推薦が受けられなくなる。
二人が様々なことを心配していると、ふと保健室のドアをノックする人がいた。
首から上がガラス越しに見えたその人は、中に人がいることを確かめてから自分でドアを開けた。
「失礼する」
「糸魚川先生? どうしてこちらに?」
「用のある生徒がいてな」
河瀬先生の問いに糸魚川先生は機嫌が悪いのか短く返し、瑞希を見つめる。
「七瀬瑞希、お前を強化生徒に任命した。これからは全校生徒の見本となるような行動を心掛けるように」
「え、あ……は、はい!」
それを見ていた河瀬先生は作り笑顔で瑞希を見ていただけだった。
「最近保健室に顔を出しているようだが、使いすぎると周りから心配されるぞ。用がなければ使わないように」
「あ……はい」
糸魚川先生から注意を受け、瑞希は樺を持って保健室から追い出された。
残った先生二人は、真剣な面持ちで対面する。
「なにも追い出す必要はないんじゃないの?」
「いや、彼女には聞かせられない内容だからな」
「まさか」
「八前千春の処理が決まった」
河瀬先生はビクリと肩を震わせ、その決断を批判する。
それでも糸魚川先生の断固とした態度は覆らず、糸魚川先生はため息をつく。
「河瀬先生。勘違いしないでほしいが、千春には期待を持てなくなっただけだ。この現状もアレが招いた結果だろう?」
「でも、千春ちゃんは――」
「もういい。その名前を出すな。私がアレに目を付けたのが馬鹿馬鹿しくなる」
厄介事に関係してしまったことを後悔する糸魚川先生に、河瀬先生は冷静ではいられなかった。
「糸魚川先生は知らないかもしれないですけど、千春ちゃんは学園の管理に耐えきれなくて、私の元に足を運んだんです。それなのに、原因を作ったあなたがそんな事を言うのは間違っています」
「私は学園に能力として優秀だと知らしめただけだ。出来を見て買って強化生徒に選びはしたが、輝けない者に意味はない。私たちの期待に応えられない時点で、アレに用はない」
「そんな勝手な…!」
「勝手なのはアレのしたことだろう? 課題テストも受けず、今日で11日連続の無断欠席。こちらからの連絡も受け付けない時点で、見本となるような生徒ではない」
「それはっ……」
言葉が続かなかった河瀬先生に、糸魚川先生は話をする時間ももったいないとでも言いたげなため息をつき、その身を翻す。
「もし、アレが戻ってきたときは、強化生徒からは外れていると伝えておいてくれ。私はもう関わるつもりはない」
何も言い返すことなどできず、去っていく糸魚川先生の背中を見ることしかできなかった。
自分が一生徒を庇えなかったことに無力感と気だるさを感じてしまい、保健室に備えられたソファーに背中を預けて、しばらくの間一人の生徒について考え込んでしまった。
もう生徒たちは帰ったであろう頃、河瀬先生はまだ立ち直れずにいると、視界の端を黒紫色のロングヘアの生徒が通っていったのが見えた。
こんな時間まで学園にいるなんて珍しいなんて思っていたが、その生徒は河瀬先生に用があったのか保健室の前に戻ってきて、開けっ放しの扉の先で待っていた。
「やほ。河瀬先生」
久しく聞きたかった声を発するその生徒は、確かに河瀬先生が会いたかった人物であり、伝えないといけないことがある生徒であった。
「え…?」
顔を上げて顔を合わせてみれば、会わなかった間に少し髪の伸びた千春がいた。
「千春……ちゃん?」
「わわ。どうしたの。そんなに会えなかったのが寂しかったの?」
「千春ちゃんっ!」
「お、え? 本当にどうしたの…?」
先生に泣きつかれるという体験をした千春は何をすべきなのか分からず、ハンカチを渡して距離を取った。
「話聞いてあげるから、まずは落ち着こう?」
「千春ちゃんが帰ってきてくれて嬉しいよぉ…!」
「嬉しいのはわかったから、とりあえず落ち着いて。落ち着いたら、何があったのか教えてほしいな」
今はこうしておくのがベストだと、そう思った千春は河瀬先生が泣き止むまで背中をさすってあげるのだった。
時は同じ頃、瑞希は糸魚川先生から電話を受けて、帰り道を引き返して学園に戻ってきていた。
今いる場所は職員室で、多くの先生が空席になっていた。
「呼び戻して悪かったな。来てすぐなところ申し訳ないが、この書類に署名をしてくれ」
糸魚川先生が瑞希に渡したものは一枚の紙で、文字量が少なく、余白が多い紙だった。
「これに署名すれば、お前も強化生徒の一人だ。お前も気にしていたであろう八前千春と同じ立場になれるぞ」
瑞希は逸る気持ちのまま、少ない文章に一応目を通してから、署名欄に署名した。
「よし。これで今からお前は強化生徒だ。私の期待を裏切らないような働きを期待する」
今はまだ、糸魚川先生の発言の本質を理解できぬまま、瑞希は純粋に喜んだ。
「聡い七瀬には分かっているだろうが、同じ土俵に立つということは、いつかどちらか一方が優遇されるようになる。今回の課題テストを受けない奴が自分よりも優遇されていては、お前も納得しないだろう?」
「今は認められなくても、努力でその考えも見直させてみますよ。私だって負ける気はありませんから」
「心強いな。お前には期待できそうだ」
楽しそうな笑みを浮かべる糸魚川先生に、瑞希は未だ疑問の一つも持たなかった。
主な原因は、この先生は自分に有利に働いていると感じていることだ。
「そうだ、七瀬。お前、生徒会に興味はないか?」
「私が生徒会ですか?」
「ああ。まだ立候補期間は終わっていないからな。生徒会長の枠は空いているから、良い機会だと思うぞ」
興味はあった。だが、それをするにも不安はつきものだった。このときはまだ、生徒会長と勉学、部活動を全て成立させることができるのか、という不安だけがあった。
「少し考えさせてくれませんか」
「できれば早くしてほしい。来週の金曜日までは待てるが、それ以降は無理だ」
「ありがとうございます。今週末には決めますから」
「それは助かる。十分考えてから答えを出すといい」
瑞希の中ではおおよそ答えは決まっていて、不安さえなくなれば今すぐにでも立候補した。
生徒会長として勉学と部活動を両立させるのが難しいかどうかは、やはり困ったと感じた人が過去にいなければいい。
その考えのもと、瑞希は保健室へと向かったのだった。
だからこそ、二人が邂逅するのは必然だった。
遂に二人は保健室で双方が完全に認識した。
「おっと、来客だ。あなたは保健室に用がある生徒さん?」
「え、え…?」
瑞希は正直なところ、千春に会いたくなかった。
課題テストの順位は堂々の1位を取り、いろんな人から褒められ、糸魚川先生からは生徒会長を推薦された。
ただ、それは千春がいなかったことで得られた結果であることくらい、瑞希は分かっていた。
(どうして、今さら――)
瑞希は嘆きは声になることはなかった。
瑞希の気持ちを知る由もない千春は、驚く瑞希の理由を探すために周りを見渡してみる。
すると、分かりやすく河瀬先生が泣き腫らしていた後であるところを捉えた。
端から見れば、現在、ソファーに座る河瀬先生に、問い詰めるように立つ千春という構図になっていた。
「あー。これはぁ……」
千春は河瀬先生が突然泣きついてきた理由を知らないため、瑞希との話し合いを無理にでも行うのは意味がないと考えて口を噤んだ。
「千春ちゃんは悪くないわ。悪いのは私」
「河瀬先生?」
河瀬先生は平気を装って笑うが、連日付き合いのある瑞希と、前から関わっていた千春に見抜けないはずがなかった。
「ちゃんと、伝えるべきだと思うから、少しだけ時間を頂戴」
「もう話せるの?」
「皆と同じように、私も頑張ってみる」
「そっか。その意気があるなら、私は聞こうかな」
千春が出した理由に、何故その条件を付けたのかを考えていた瑞希はワンテンポ遅れて首を縦に振る。
二人の同意を得たことで緊張したのか、あるいは自分が話せずに伝わらないか心配なのか、河瀬先生は深呼吸をして覚悟を決める。
「千春ちゃんに言っておかないといけないことがあって。まず、こちらの生徒さんは七瀬瑞希さん。今日、糸魚川先生から強化生徒に選ばれたの」
千春の眼はすぐに千春へと向けられた。酷く冷たい視線で射貫かれた千春は金縛りのようにいきなり身動きが取れなくなり、息を止めてしまっていた。
「それで、糸魚川先生がさっき訪ねてきて、千春ちゃんは強化生徒から外すって言ったの。私はどうにかして形だけでも置いておきたかったけど、私じゃ力になれなくて」
「それで、私の代わりに強化生徒になったってことか」
千春はようやく視線を瑞希から離し、作り笑顔を河瀬先生に向けて言う。
「河瀬先生はそう責任を負わないで。今回の件については私の方が悪いんだし。それに、自分のミスは自分でなんとかしてみせるから。えーと、七瀬さんだっけ?」
瑞希は千春のことをライバル視していたが、千春からは目星すらつけられていなかったことをありありと感じてしまう。
まだ今回のテストの結果が出ていないとはいえ、前から二番目に輝き続けた人物であることくらいは覚えていると思っていたために、ショックも大きかった。
「あまり言うべきじゃないけど、そろそろ疑うことくらい覚えておくといいよ。多分、気付いてないと思うからさ」
「どういうことですか…?」
「騙されてるんだよ。心情に付け込まれて良いように使わされてるってこと」
最初期は相手が良い人だと認識していて、騙されているとは微塵も思わないのだが、時間が経って振り返ってみると、その相手が一概に良い人だったとは言えない。
糸魚川先生は千春からすればそれに当てはまる人物であった。
「とやかく言うつもりはないけど、いつか自分を見失うよ」
「……。」
「千春ちゃん、流石に言い過ぎだよ」
「私のような人がもう一人生まれる前に対策はしておくべきでしょ?」
千春の言葉に言い返すことはできず、河瀬先生は弱々しく頷いた。
瑞希は千春に何があったのか想像し難く、ただその場にいることしかできなかった。




