第25話 選ばない自由は、もう無害ではなかった
相園の対応が数日続いているからといって、異世界転生審査課が混乱しているわけではなかった。
怒号が飛ぶこともなく、警備課が動くこともない。
ただ、ほんのわずかに――流れが滞っている。
午前の業務が進む中、俺は端末を見ながら、予定表を一つ修正した。
相園の欄に、今日も「保留」の文字が残る。
保留。
決定ではない。拒否でもない。
ただ、先送り。
「……中島君」
静かな声に顔を上げると、坂本さんが立っていた。
いつも通りの表情、いつも通りの声色。
「相園さんを、もう一度お願いします」
「分かりました」
理由を聞かなくても察しはつく。
彼女は今日も、決めていない。
面接室に入ると、相園は椅子に浅く腰掛けていた。
腕は組んでいない。
だが、どこか投げやりな姿勢だ。
「また?」
開口一番、それだった。
「何度も同じ話する意味ある?」
「確認です」
「確認、確認って……」
相園は天井を仰ぎ、短く息を吐いた。
「アタシはまだ決めない。それだけでしょ」
「現時点では、そうですね」
俺が淡々と答えると、相園は一瞬だけこちらを睨み、それから視線を逸らした。
「じゃあ終わりでいいじゃん」
その言葉に、坂本さんが静かに口を開いた。
「相園さん。少しだけ、事実を共有します」
「……なに」
坂本さんは机の上に、一枚の書類を置いた。
見慣れた予定表の写しだ。
「本日、相園さんの対応に時間を割いたため、予定していた転生者を一名、明日に回しました」
「それが?」
相園は即座に返す。
苛立ちよりも、理解していない声音だった。
「明日で、その方は期限満了です」
相園の口が、わずかに開いた。
「……は?」
「本来であれば、本日中に三つの願いを確定し、転生処理に入る予定でした」
坂本さんの声には、責める色が一切ない。
ただ、読み上げるような事実。
「制度上、順番が一つずれただけです。特例でも、例外でもありません」
「……それ、アタシのせいって言いたいの?」
「いいえ」
坂本さんは、すぐに否定した。
「制度です」
「だったら――」
「ですが、選択の順番は、変わりました」
相園の言葉を遮るように、坂本さんは続ける。
坂本さんは、相園を見ずに、予定表だけを見ていた。
その瞬間、相園の表情が止まった。
怒りでもない。
反発でもない。
ただ、理解が追いつかない顔。
「……アタシ、選んでないだけだよ。何もしてない」
呟くような声だった。
その言葉に、俺は一歩だけ前に出た。
「相園さん」
「なに」
「選んでいない、という選択もあります」
「それ、前も言ったじゃん」
「ええ」
だが、今日はそれだけでは終われなかった。
「選ばないことで、もう――〝誰かの時間を使っています〟」
相園の視線が、ゆっくりとこちらに戻る。
「……意味、分かんない」
「相園さんが悪い、という話ではありません」
「じゃあ何?」
問い詰める声なのに、力がない。
「制度は、誰かが止まっても回ります。ただ、順番がずれるだけです」
「そのずれを、誰かが引き受ける」
俺の指先が、無意識に机の縁を掴んでいた。
相園は何か言い返そうとした。
だが、言葉が出てこなかった。
椅子に深く腰を沈め、天井ではなく、床を見つめる。
「……アタシは、まだ選びたくないだけなのに」
その声は、初めて弱さを含んでいた。
「可能性を残したいだけ」
「分かります。でも、可能性を残す時間は、〝誰かの期限の上に乗ることもある〟」
相園の肩が、目に見えて落ちた。
怒りでも、泣きでもない。
糸が切れたみたいに、力だけが抜けた。
「……そんなつもりじゃなかった」
ぽつりと漏れた声は、誰に向けたものでもなかった。
「今すぐ決めろとは言いません。ただ、現状は共有しておきます」
それ以上、何も言わなかった。
面接は、そこで終わった。
相園は立ち上がらず、ただ椅子に座ったままだった。
廊下に出ると、いつもの音が戻ってくる。
紙の擦れる音、足音、遠くの呼び出し。
制度は変わらない。
相園も、まだ選ばない。
だが――選ばない自由は、もう〝無害ではなかった〟。
(……これは俺にも、起こることだ)
俺は、心の中で呟く。
期限は、誰にも聞かれず進む。
止まらない。
次に崩れるのが誰なのか――それは、もう分かっていた。
相園の様子が、明らかに変わったのは翌日だった。
騒ぎを起こしたわけではない。
声を荒げたわけでも、誰かに食ってかかったわけでもない。
ただ――静かだった。
面接室の前で名前を呼ばれても、返事は小さく。
椅子に座っても、背筋を伸ばすことはなく、視線は机の一点に落ちている。
以前の相園なら、こうではなかった。
苛立ち、反発し、制度に噛みつき、自分が特別であると主張していた。
今日は――それがない。
「相園さん」
「……なに」
目が合った。
だが、そこにはもう挑むような色はなかった。
「本日の確認です」
「……まだ、決めてない」
「承知しています」
事務的なやり取り。
だが、その「決めていない」という言葉が、昨日までとは違う重さを持っていた。
相園は、腕を組もうとして――途中でやめた。
行き場を失った手が、膝の上に落ちる。
「ねえ、中島」
「はい」
「アタシさ……」
一度、言葉を切る。
まるで、どこから話せばいいのか分からないように。
「アタシ、悪いことした?」
唐突だった。
だが、冗談でも、挑発でもない。
「……何を指しているのかによります」
「選ばないこと。選ばないって、そんなに罪?」
俺はすぐに答えられなかった。
制度上の回答なら、簡単だ。
だが、これは制度の話ではなかった。
「罪ではありません。ただ、影響はあります」
「影響……」
「昨日、お伝えした通りです」
相園は小さく頷いた。
「……誰かの順番が、ずれる」
「はい」
「誰かの期限が、削れる」
「はい」
それ以上、否定もしなかった。
相園は、椅子の背に体を預ける。
天井を見上げ、しばらく黙っていた。
「アタシね」
ぽつりと、呟く。
「特別でいたかった」
それは……初めて聞く正直な言葉だった。
「死んだあとまで、普通なんて嫌だった」
「……」
「選ばなきゃいけないって言われるのも、嫌だったけど。選んだ結果、何者にもなれないのも……怖かった」
声が震えているわけではない。
泣いてもいない。
ただ、言葉が少しずつ、剥がれていく。
「選ばなかったらさ……まだ、何にでもなれる気がしてた」
その視線に、俺は何も返せなかった。
否定できない。
共感してしまう部分が、確かにあった。
「でも……それって……誰か犠牲の上に立ってるってことだったんだね」
その言葉が、静かに落ちた。
誰も責めていない。
誰も怒っていない。
だが、逃げ道もない。
「中島」
「はい」
「アンタはさ……それでも、決めるんでしょ」
問いではなかった。
確認だった。
「……はい。全部は、持っていけないですから」
「ずるい」
「かもしれません」
「でも……羨ましい」
そう言った。
その言葉に、胸の奥が僅かに痛んだ。
「アタシ、今さら選べない」
「……」
「何かを選んだら、今までのアタシが全部、嘘になる気がして。特別じゃなかったって、認めることになる」
それは――崩壊だった。
音を立てない、呆然とした崩れ方。
俺は、職員として言うべき言葉を探した。
だが、見つからなかった。
だから、正直に言った。
「相園さん」
「なに」
「俺も、怖いです」
相園が、顔を上げる。
「選ぶのも、捨てるのも」
「……」
「でも、選ばないまま終わるのは……もっと怖い」
その瞬間、相園の表情が完全に崩れた。
泣き顔ではない。
怒りでもない。
ただ、理解してしまった顔。
「……そっか」
小さく、息を吐く。
「アタシは、もう……遅いのかな」
「遅いとは言っていません」
「でも。決められないってことは……決めないってことだもんね」
それは、自分で出した結論だった。
俺は何も言わなかった。
否定も、肯定もできなかった。
面接は、そこで終わった。
相園は立ち上がり、扉の前で一度だけ振り返る。
「中島」
「はい」
「アンタは……ちゃんと、選びなさい」
それは、初めての助言だった。
「アタシみたいに、ならないで」
そう言って、扉を閉めた。
廊下に戻ると、いつもの音が流れてくる。
制度は変わらない。
時間も、止まらない。
相園は〝転生を選ばなかった〟。
相園そのままの死を受け入れた形になった……。
そして俺は――もう、選ばなければならない。
同じ期限が、同じ速度で迫っている。
だが、立っている場所は、もう違っていた。
俺は、深く息を吸い、前を向いた。
次に開くのは――俺自身の、選択の扉だ。
ブックマーク、評価、感想、誤字脱字報告ありがとうございます。




