第18話 【平穏な人生。問題なし】
異世界転生審査課は、今日も忙しかった。
ファイルの山は減るどころか、むしろ増えているように見える。
棚に並ぶ背表紙を一つずつ確認しながら、俺は黙々と書類を整理していた。
時間帯はもう午後に差し掛かっている筈なのに、窓のないこの執務室では、それを実感する術がない。
壁にかけられた時計を見ても、針が進んでいる事しか分からず、「今がいつなのか」という感覚は、ここでは曖昧になっていく。
それでも手は止まらない。
指は書類の厚みや背表紙の感覚、確認すべき項目を、意識しなくてもなぞれるようになってきた。
この棚に並ぶ背表紙の数だけ……転生していったという証。
言い方は可笑しいかも知れないけれど、〝誰かが生きていた証〟だと俺は思う。
そんな中聞こえるのは――紙が擦れる音。
ペンを置く音。
どれも、すっかり聞き慣れた音だ。
前は、その一つ一つに意識を取られていた。
書類の重さ、内容、記された人生の断片。
だが今は、必要以上考えないようになっている。
考えすぎるとこの仕事は続けられない。
そう理解してしまった自分が、少しだけ怖かった。
そんな中――ふと、指が止まった。
【山本】
見覚えのある名前だった。
一瞬、視線が背表紙から離れない。
記憶を辿るまでもなく、顔が浮かんでしまう。
炭酸飲料の缶を開ける音。
ロビーの天井に反射する光。
そして、穏やかな声。
ファイルを手に取り中を開くと、彼の写真が目に入った。
あのマンションのロビーで、炭酸飲料を飲みながら、静かな夢を語っていた青年。
短い期間だったけれど、この世界で『友人』とも取れる……そんな仲だった。
「……あ」
思わず、小さく声が漏れる。
誰に聞かせるつもりもない独り言だったが、それでも喉が勝手に動いた。
ファイルの担当欄を見ると、俺の名前はなかった。
別チームの文字が、事務的に記されている。
――そうか。
結局、俺は担当しなかったのか。
それは、安堵なのか、それとも――。
自分でも分からないまま、胸の奥が少しだけざわついた。
ファイルを震える手で開く。
中身は……驚くほどあっさりしていた。
転生先。
付与条件。
簡潔な備考。
そして――〝結果欄〟。
「平穏な人生。問題なし」
一文だけ。
たったの、それだけだった。
ページをめくる指が、止まる。
文字は冷静で、整っていて、余計な感情を含まない。
審査課として、これ以上ないほど「良い結果」だ。
あれほど語っていた夢が。
あんなに丁寧に、楽しそうに語っていた未来が――。
この一文に、すべて収まっている。
悪くない結果だ。
むしろ、理想的と言っていい。
それなのに、胸の奥に、言いようのない違和感が残った。
評価としては完璧。
だが、人の人生として見た時に、この軽さは何だろう。
言葉にできない感覚が、じわりと広がっていく。
「……」
ファイルを閉じ、棚に戻す。
紙はあまりにも軽い。
そう、あまりにも、軽すぎる気がした。
棚に戻されたその一冊は、他のファイルと同じように整然と並び、もう特別扱いされることはない。
それが、仕事として正しいのだと、分かってはいるのに。
「中島君?」
背後から声がして、振り返る。
声の主は坂本さんだった。
いつも通り、落ち着いた表情で、書類を抱えている。
「山本さん……転生、無事に終わったんですね」
「ええ。問題なく」
淡々とした返事。
感情を挟む余地のない、いつもの口調だ。
そのまま坂本さんは、事務的な口調で続ける。
「田舎の平民。職業はパン屋。生活基盤も安定。大きな事件もなく……平穏な人生です」
「……そうですか」
俺は、頷いた。
理解はできる。
納得も、理屈の上ではできる。
それ以上、言葉が出てこない。
あんなに願った、映画の世界に……きっと行けたんだろう。
そう心の中で安堵していた。
あれだけ好きだと語っていた、映画の世界。
そこでパン屋を開くのだという夢。
その夢がきっと――。
すると、坂本さんはファイルの端を指で軽く叩き、付け加えるように言った。
「なお、条件として――〝記憶の一部は削除〟されています」
「記憶、ですか?」
「はい。具体的には、映画を〝映画として認識する記憶〟ですね」
――俺は、一瞬、言葉を失った。
目を見開き、持っていたファイルを落としそうになる……。
「映画……を?」
「ええ。元の世界で見た作品は、あくまで〝既視感のある風景〟として処理されます。創作物としての認識は不可」
「……それは」
「規定通りです。特定の作品世界への過度な執着は、転生後の精神安定を損なう可能性がありますから」
「……それは、本人には?」
「通知されません」
……淡々と。
本当に、淡々と……。
それは説明であり、報告であり、判断ではない。
だが、その淡々さが――余計に胸に刺さった。
俺は、言葉にできない感情を、どこに出せばいいのか分からない。
――山本は、あれ程あの映画の世界を楽しみにしていて。
そこの住民として、パン屋を開くのを、とても楽しみにしていて。
それが夢だと、俺もその夢を応援すると言っていたのに……。
待っていたのは、夢としては叶っているかも知れない。
でも〝本当の夢〟としては、叶っていない世界でもあった――。
「ですが、パン屋として生きること自体に支障はありません。夢は叶っていますよ」
「……そう、ですけど」
夢は叶っている。
確かに、その通りだ。
ただ、最も叶えたかった部分は……〝記憶の削除〟として。
削ぎ落とされ、なかったことにされた。
規定ならば仕方ない。
規則ならば仕方ない。
転生後の精神安定を損なう可能性を考えたら、そうせざるを得ないのも。
そうは思っても、納得できない心はどうもできない。
聞いてはいけない質問がある。
問いただす権利がないことも、職員として分かっている。
だから、俺は何も言わなかった。
坂本さんはそれ以上何も言わず、次の書類に目を落とした。
――それで、この話は終わりだ。
俺は、棚に並ぶファイルを見つめながら、静かに息を吐いた。
【平穏な人生。問題なし】
それが、幸せかどうかを判断するのは――もう、俺たちの仕事ではない。
ただ。
あのロビーで語られた夢が、この一文に収まってしまうことに――。
俺は、どうしても慣れそうになかった。
〝幸せを保証する仕事〟。
その〝限界〟が、少しだけ、はっきりと見えた気がした。
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