『弟』前編
「エドワード坊っちゃま、お手紙の返事が来ましたよ」
日の殆どを執務室で過ごす僕の、数少ない楽しみがこの手紙である事を知っている爺やは、僕が手紙を読んでいる間は決して邪魔はしない。
手紙……姉上からのそれを、にこにこと僕に渡した爺やの、随分小さくなった背中を見送り、僕は手紙の封を切った。
思い返せば僕の今までの人生の中で一番幸せだった時期は、姉上がいて母上が生きていた幼少期だ。所謂思い出補正もあるだろう、幼少期が一番輝いている。
そんな事を言うと姉上はきっと「この先の人生でもっと幸せなことがあるわ」と言うだろう。けれどやはり、あの頃の思い出は特別なものだ。
父上と呼ぶ事も憚られるあの屑に、僕は名を呼ばれた事が無い。恐らく覚えてもいないのではないかと思う。母上の前では愛情の無さ、無関心さを誤魔化しているつもりだったようだが、勿論ばれていた。
『エド。あの人は生まれてきた時にきっと、お腹の中に良心を忘れてきちゃったの。だからね、お母様がもしお星様になって、戻って来られなくなったら……代わりにアンジュを守ってあげてね』
僕は当時、母上をお母様と呼んでいたのだった。今思い返すと、儚げに笑っていた母上は、中々強烈な事を仰っていたように思う。あるいは、病弱だった母上は、自分の死期を悟っていたのかもしれない。そうでなければ、自らの死後の話など、子にしはしないだろう。
というか、屑に良心が欠けている事が分かっていたのなら、何故結婚へと踏み切ったのか。どう考えても茨の道なのに。母上の生家もそう思ったらしく、母上は大喧嘩の挙句に縁を切ったも同然に家を出て、屑と結ばれたらしい。
お陰で随分と苦労させられたが……いや、この話は後でする事にしよう。
母上がご存命の時には、姉上はいつも笑っておられた。
屑のへそくりを見つけるのだけはとても上手かった姉上だが、実は要領は僕の方が良かったくらいだった。まだ家庭教師がつけられていた頃、勉強で僕に負けて、散々泣いた後はいつも教科書とにらめっこしている、努力の人だった。擦り切れ、開き癖がついた教科書は、姉上の努力の証だ。
それから……姉上はとにかくじっとしていなくて、盤上遊戯で僕に負けては、お得意の『よく分からない理屈』でいつの間にか僕を丸め込んで、何故か勝った筈の僕が女装させられていたり、木の上に登った太った猫を「あの体格じゃ降りられないわ」と心配して、助けに登って降りられなくなり、猫はいつの間にか降りていたり。
当時は姉上に振り回される事にうんざりもしていたが、今では全て、大切な思い出である。
母上が亡くなって幾らも経たない内に、屑の金遣いは目に見えて荒くなった。母上がいない喪失感に耐えられなかったのだろうが、同情の余地など無い。我が家は坂道を転がり落ちるように、落ちぶれていった。
……それでも僕は、我慢していたのだ。顔馴染みの使用人がひとり、またひとりと解雇されて、別れに姉上が悲しんでいても。僕が成人すれば、当主の座は僕のものになるのだから。父親から地位を奪い取ってしまっては、我が家の評判はどうしても悪くなるし、姉上の婚約に差し障るだろうと。
今考えれば馬鹿馬鹿しい考えだ。我が家の評判など、とっくに地の底へ堕ちていたというのに。姉上がいなくなってしまうのなら、意味の無い事だったのに。
屑は、僕の妨害を恐れてか、僕がいない瞬間を狙って姉上を売った。
あの日の絶望は忘れられそうにない。随分物が減ってしまったけれど、思い出だけは沢山詰まった姉上の部屋が、ただの箱に成り下がった日。
妾などになるべき人では決してなかった。
家格は高くなくても、優しい人に愛されて幸せになるべきだと思っていた。
僕は、もう遅すぎたけれど、屑を追い落とす事に決めたのだ。
ただの八つ当たりだったのかもしれないが、最早屑が当主の座を追われても、喜ぶ者こそいても悲しむ者などいなかったのだから、これで良かったのだ。
僕はまず、ほぼ絶縁状態だった母上の兄に連絡を取ろうと試みた。何しろ縁を切られているという話だったので、駄目で元々と思って爺やに手紙を託した。僕だけの力でどうにかするには僕は幼過ぎたのは分かっていたから、大人の手を借りようと手紙を出した。
しかし驚いた事に、すぐに返信が来た。詳しい話を聞きたい、ぜひ訪ねて来てほしいという好意的な言葉は胡散臭くすらあったが、彼に協力を仰がなければ屑を追い落とす事は不可能なのだから、と、僕は単身母上の兄の元へ向かった。
母の兄、否、伯父上は、大層僕を心配し、姉上の件で憤り、と、とても忙しい反応を見せてくれた。母上との血縁関係がすぐに分かる、明るく騒がしい人だった。何故こんなに情の深そうな人が僕達に関わらずにいたのかというと、意地になって我が家の情報を絶っていたらしかった。母上の死すら知らなかった伯父上は項垂れていたが、僕は懐かしさを感じていた。母上も意地になると引き摺る人だった。
「エドワード、君は父親をどうしたい?」
伯父上に尋ねられ、僕は迷わず答えた。
「当主の座を退かせた後、生涯離れに幽閉しようと思っています」
伯父上は絶句していたが、僕は今でも間違った対応だと思っていない。あの父は放置しておいても災いしかもたらさないし、僕を侮る者達も多いだろう。とても効率の良い処置だと思っている。
「……君がそれで良いのなら」
伯父上は複雑そうに僕を見ていた。
2話投稿しているので、もう1話弟視点続きます。




