第七話
藤神家の屋敷から少し離れた森にある、とある建物。
「……ここ?」
その大きな建物の手前で、色葉は呆然と呟いた。
お世辞にも綺麗とは言えない真っ黒な外壁。その壁を伝う草木は、手入れされる事なく伸び放題となっている。そして中からは、かーん、かーんと金属を叩く音がひっきりなしに響いてくる。深い森の中に佇むその雰囲気は、怪しい事この上なかった。僅かな恐怖すら感じさせる。
色葉は息を呑んだ。
「……何か、出そう……」
この手の怖いものは、苦手だ。
だがこれは、正真正銘、藤神家が所有する建物なのだ。
立ち尽くしていた色葉は大きく息を吸い込んで、剥き出しの地面を踏みつけた。もはや躊躇いは無用だ。
「あのー……」
とは言いつつも、正体不明の恐怖を打ち負かす事ができず、色葉は開け放たれた入り口から恐る恐る顔を覗き込んだ。遠慮がちにかけられた声は、連続して響く金属音とともに建物内に響いた。
だが、誰も出てくる様子は無い。
「あのー!」
中に人がいる事は確かだとは思うので、先程よりも大きな声で呼びかける。それでもやはり返答は返ってこない。
もしかして、勝手に入ってもいいのだろうか。そう思って暗闇に足を踏み入れた。
その瞬間。
「──おい!」
「わっ?」
野太い、叱責するような声が背中に突き刺さった。突然の声に体を震わせ、色葉は声の方向を振り返った。
「ここは子供が来る場所でねえぞ! ほら、けえったけえった!」
「え? ちょっ、俺」
独特の訛りを含んだ声の主は、色葉の肩を掴んで無理やりに外へと押しやろうとする。見知らぬ他人に触れられた事で萎縮してしまった色葉は、足をもつれさせてしまった。
「いっ……!」
尻餅をついた色葉を、その男性は仕方ないといった風に見やった。溜め息を吐き、少年を抱き起こそうと手を伸ばす。その手が色葉の眼前に迫った。
刹那。
「──触るなっ!」
色葉はその手を即座に払い除けた。乾いた音が辺りに響く。
その時、色葉の瞳の奥に垣間見えたのは、血を思わせる紅い色。だがそれは、一瞬にして元の漆黒に戻った。
「……え?」
振り上げられた自分の手と痛みに顔を顰める男の人を見比べて、色葉は首を傾げた。
「いってで……いきなり何すんでぇ」
「ご、ごめんなさい!」
ようやく状況を理解した色葉は、男性に慌てて頭を下げる。そして何かに気付いたように胸に手を差し入れた。
すると男性は、そのまさぐるような手の動きから慌てふためいて視線を逸らした。
「お、おめぇ、はしたねえで! おなごがそんな事した駄目だぁ!」
「…………は?」
再び首を傾げた色葉の手には、小さな布袋が握られていた。
そして次の瞬間、顔を真っ赤にした色葉の左こぶしが、男性の腹に炸裂した。
「すまねぇ。おらが変な考えしちまってよう」
建物から少し離れた場所に二人は腰を落ち着けた。ここは木々が開けており、橙に染まり始めた空が隙間から顔を覗かせている。
思わず繰り出してしまった一撃が思いのほか強かったようで、あの後男性は見事に撃沈してしまった。そして彼を何とかここに運んだ色葉は、すかさず治癒魔法を施したのだ。
「いえ、俺もいきなり殴ってしまって……ごめんなさい」
男性から少し距離を置いて色葉は地面に座り込んでいる。危害を加えてしまった事もあるが、この年齢の他人とは喋った事が無いのも、その理由の一つだ。
「おめ、年いくつでぇ?」
「十です」
その言葉を聞いた途端、男性はそのどこか山賊じみた雰囲気の目を見開いた。不自然な沈黙の後、何事も無かったかのように言葉を返す。
「……かわいい盛りじゃねぇか……いや、子供としてだで」
「分かりますよそれくらい。意識してるんならまた殴りますよ」
額に青筋を浮かべた色葉は、その可憐な顔に鋭さを含ませて男性を睨んだ。彼はもう勘弁とでも言いたげに首を左右に振る。
「……あなたは?」
「おらは三十六だ。あっこの鍛冶場の主任をしてるでさぁ」
だからいきなり声をかけられたのか。というより、やはりあそこは鍛冶場だったのか。つまりは目的地としては正しかった事になる。勘に頼って森を歩いただけでよく辿り着いたものだと、心から自分を褒めてやりたい。
その時、ふと何かを思い出したように男性が手を叩いた。
「そういや、自己紹介がまだだで。おらは権兵衛っつうもんでさ。八年ほど前にこの辺りに越してきたんでえ」
彫りの深い顔をくしゃくしゃにした男性──権兵衛は「よろしくな」と言いながら手を差し伸べてきた。色葉は戸惑いながらも、彼の大きな手に向かって自らも手を伸ばそうとした。
だがそれらが触れ合う寸前に、色葉は手を下ろした。今は、とても他人と触れ合う気になれない。最近、他人を前にして拒絶してしまう事が顕著になってきた。過去を掘り返そうとしている事が原因かもしれない。
色葉はついと視線を逸らし、相変わらずの無感情な声で名乗った。
「……藤神、色葉です。多分妹が世話になってると思います」
「妹ぉ? おらそんな年下に手ぇ出したりしねえでさぁ!」
握手を断った事に対する罪悪感が、遥か彼方へと逃げていった。おかしな事ばかりを口走る権兵衛を、色葉はじっと睨みつける。
「……姓、聞き取れましたか」
「おめ、藤神つったけ? ……って、藤神ぃ?」
素っ頓狂な声を上げる権兵衛にこくんと頷く。すると途端に彼は青ざめた。
「こ、こりゃ失礼しやした! つまり妹っつうのはお頭の事ですかえ?」
「お頭……? 多分そうだと思います」
妹にはいつの間にそんな呼び名をつけられたのだろう。だが、不思議とそう呼ばれている事に違和感はなかった。妙にしっくりとくるのは、生来の明るさのおかげか。
「んだら、おめは最後の調整に来たって訳か」
どうやら彼には、敬語を使うという気が無いらしい。無論そんな事を気にしているのではなく、独特の訛りのせいで会話が聞き取りづらいだけだ。
「はい。今なら大丈夫ですか?」
そう尋ねると、見る見るうちに権兵衛の表情が暗くなった。
「あー……言いにくいんだげよ、まだその段階までいってねえべさ。お頭には後ちょっとつったんだが、ちいとばかし手違いがよぉ。今日はできねえべ」
「そうですか。いつ頃ならできますか?」
「……当分は、無理だわ」
心底申し訳なさそうな権兵衛の態度に、色葉もそれ以上聞く事はしなかった。その代わり、再びそうですかと呟いて立ち上がった。
「鍛冶屋の名にかけてあいつはちゃんと造るでさ! 心配せんと待っとくだで!」
「はい、期待しています。頑張ってください」
最後ににこやかな笑みを浮かべて色葉は頭を下げた。権兵衛も律儀に立ち上がって礼をする。
「では失礼します」
かなり高い位置にある権兵衛の眼を、色葉は何気なしに振り返りながら見やった。本当に、ほぼ無意識にといってもよいほどのものだった。
だがその瞬間、色葉は驚愕に目を瞠った。
それを悟られないよう権兵衛に背を向け、暗くなりかけている森へと視線を向ける。
これは思いがけない拾い物をした。
探しているものに、一歩近づいたのだ。
「おいそこ! ぼさっとするな!」
兵を叱咤する声が茜色の空に響き渡った。叱られた兵もそれに負けじと大きな返事を返す。
ここは屋敷から程近い森に新設された兵舎だ。開けた場所には、兵士の訓練場や下級兵士の宿舎も併設されている。敷地だけは広大な藤神家なので、質素な建物ながらも設備は整っているのだ。
その時、剥き出しの砂地を踏みしめる音が、屹立する陸の背後から届いた。
「山村様、そろそろ時間です」
「分かった。──よし! 本日はここまで! 各自解散!」
大声でその場にいる全員に呼びかける。
『ありがとうございましたっ!』
すると、そんな一糸乱れない轟きが返ってきた。その威勢に陸は会心の笑みを小さく広げた。
藤神家に降り、早くも一ヶ月が過ぎた。以前も山村家の当主として兵をまとめていた陸だったが、その一ヶ月の間にひとつ感じた事がある。
藤神軍は統率がとれている。
西は三好、東は六角、南は筒井、そして北は足利将軍家という強大な大名家に囲まれている藤神家。そんな弱小大名が、今まで血を絶やす事なくこの地を治めてきた理由は、この見事なほどのまとまりだろう。さすがは代々続く魔導師の血統だ。当主が背負っている覚悟が違う。
そしてもう一つ、この統率を生み出しているものがある。
「お疲れ様、陸」
自らも帰り支度をしていた陸の背に、そっと呼びかける声があった。その美しい響きを含んだ声の方向を振り返ると、陸よりいくらか身長の低い──当人はそれをひどく気にしている──少年が立っていた。
この藤神家の跡を継ぐと目される少年、藤神色葉。彼も優秀すぎるほどの魔導師の素質を持ち、重い過去を背負っている一人だ。だがそれを表に出さず、この家の上から二番目の地位をしっかりと務め上げている。その責任を真っ向から受け止める精神を彼は保持しているのだ。
だが彼の特徴はそれだけではない。
そのまるで少女と見紛うような、類稀なる美貌だ。自分では全く気付いていないのだろうが、常に漂わせている清楚さと、時折見せる空虚さが入り混じった彼の容姿は、他人を惹きつける何かがあるとしか思えない。
以上が、陸が考える藤神家の強さの秘訣だ。
そんな陸の思考を知ってか知らずか、厳しい訓練から解放されて徐々に広がり始めた喧騒に色葉は視線を向けた。
「兵の鍛錬って、大変でしょ」
「いえ、これが私の仕事ですから」
小さな微笑を浮かべる彼の顔を直視し、陸は表情を引き締める。するとその相手は小さな笑みを湛えたまま頷いた。
「さすが陸は真面目だね。兵を任せてよかった」
「……どうかされたのですか?」
ふと何かに気付いて、陸は訝しげな声を上げた。色葉の雰囲気が普段と少し違う気がする。
「何でそう思うの?」
すると色葉は、可愛らしかった微笑を随分と妖艶なものに変えた。陸の挙動を見定めるように、漆黒の双眸を細める。
「何で、と申されましても……強いて言えば、何か探し物を見つけたような感じですか」
「なるほど。じゃあ、探し物って何だと思う?」
続けられる質問に、陸は多少の困惑を抱きながらも答える。
「……蛍、とか」
陸は視線を泳がせた。珍しく何も考えずに放った言葉だ。なぜか今、ふと脳裏に淡い光が掠めた気がしたのだ。自然と動いた自らの唇に、陸は戸惑いを隠せない。
だがそれ以上に、色葉は驚きに目を瞠った。しかしすぐに微笑を取り戻し、森の方を顧みた。
「蛍かぁ、けどちょっと時期には早いね。今年も見られるといいな」
陸の困惑はさらに深まった。共に過ごし始めて一ヶ月しか経っていないが、彼のこのような言動は始めて見る。
「……意外、ですね。色葉様がそんな事をおっしゃるなんて」
「そう? まあ、俺だって一応人間だからね」
悲しげに響いたその呟きに、陸は心の中で繰り広げられていた思考を捨て去った。
「そんなつもりで言った訳ではありません! ただ、その年で皆をまとめる手腕をお持ちなので、もっと荘厳な雰囲気の方だと思っていました」
「威厳だけじゃ人はついてこない。まして見た目がこれだから、今更どうにもならないよ」
自らをあざ笑うように言って、色葉は座り込んだ。そんな彼を見て、陸はその表情に険を滲ませる。
「しかし、私はそう教わりました」
「誰に?」
色葉は視線を陸に向けず、片膝を立てて尋ねた。
「……父上にです」
陸の脳裏に、いつも厳しい表情を浮かべた男性の顔が思い浮かんだ。陸が幼い頃、彼に家督を譲りどこかに行方をくらました、あの父親の顔が。
「今でも覚えていますよ。『人の上に立つ人間に感情は必要ない。自身を捨て去ってこそ、一人の当主になれるのだ』と、私は何度も聞かされました」
それを実践した陸は、幼いながらもめきめきと頭角を現し、瞬く間に山村家の当主にまで上り詰めたのだ。
「その言葉のおかげで、私は人の上に立てるようになったのです」
「確かにそれは正しい。……でも、それだけだと、足りないんだよ」
分かるでしょ、と暗に告げる背中に、陸は顔を伏せた。色葉は言葉を続ける。
「幼い指導者は妬みを受けやすい。けれど、それを軽減させる事はできる。道風がいい例だよ」
「……私は、彼のようにはなれません」
「人は変われる。陸はまだ、引き返せるんだから。……俺と違って」
吐息と共に吐き出された言葉の後半は、俯く陸には届かなかった。その彼は渦巻く気持ちを呑み込んで、一言呟いた。
「…………善処します」
完璧な所作の礼を自らに背を向け続ける色葉にして、陸はきびすを返した。兵舎の方へ歩いていく兵を一瞥し、口を引き結んで母屋へと砂を踏む。
規則正しい足音が遠ざかる。離れていく陸の気配に、色葉は自嘲的な笑みを浮かべた。
「人は変われる、か」
先の発言を反芻する。
自分はいつから、そんな事が言えるような人間になったのだろう。全くもって、最近は嘘を吐くのが上手くなった。他人にも、自分にも。
「嘘なんて、らしくもないな」
変わる事ができないから、いつまで経ってもこの世界は変わらない。誰も変わらないから、誰一人としてこの世界を変えようとしない。
ならば。
自分で変えるしかないのだ。




