第八話
──5月
藤神家の家紋にもあしらわれている藤の花が、ぽつぽつとその儚げな色を散りばめ始めた。春も終盤になり、いよいよ梅雨の装いが足音を響かせてくる。
その頃、藤神家の暫定的な当主である赤松は、道風と氷波の二人を自室に呼び出していた。
「これまた妙な取り合わせですね〜」
にこやかに笑う道風の隣には、小さな微笑を浮かべる氷波が正座している。
その二人の共通点は、その笑顔に感情が見えないことだ。とはいえ、そんな些細な事を気にする赤松ではない。深いしわの刻まれた顔に同じく柔和な、だが少し渋い笑顔を見せる。
「じゃのう。色葉がおらんと締まらんわい」
あの可愛い孫は、もう一人の可愛い孫と共に、とある遺跡へと赴かせているのだ。
「……色葉、大丈夫ですよね〜?」
「心配ないですよ。あの二人なら絶対に」
道風の声に、氷波は小さな微笑を湛えたまま答える。道風の心配も分かる赤松は、氷波に同調しつつ大きく頷いた。
二人が調査しに行っている遺跡は、先日小規模な調査隊を送り込んだ古い遺跡だ。二日間にも及ぶ計画を立て、念のために魔導師も数人同行させた。そんな万全の態勢で臨んだ調査は、かなりの成果をもたらすはずだった。
しかし結果は──壊滅。誰一人として赤松の前に帰ってくる事はなかった。
「まあ、あやつはまだ死にはせんじゃろうしのう。お前さん達は気にしなくてもよかろう。これからするのは別の話じゃ」
とんとんと閉じた扇を叩き、部屋の外に待機する人を呼んだ。その文官が手にしているものは、なにやらたくさんの文字が書かれた紙。
「……これって!」
その紙を目にした途端、跳び上がるほどの勢いで立ち上がった道風が、両手を大きく掲げてわめき始めた。
「生島さん?」
冷ややかな視線を向ける氷波をよそに、道風はしてやったりと笑う赤松に駆け寄った。感極まっているのか、声にならない喜びを爆発させている。
「うむ。驚いたじゃろ? わしらは硝石を輸入するのじゃ」
「やったぁぁぁぁ〜っ!」
咄嗟に両耳を塞いだおかげで、道風の叫びが直接耳朶を破壊する事は無かった。我を忘れて至近距離で喜びを露わにする姿は、さすがというべきか。
暢気な声音の残響が、壁や天井を震わせて消えていく。とって代わった静寂が、逆に耳に痛い。
「あのー、赤松様?」
三人の中で唯一訝しげな表情の氷波が、自らの乱舞に赤面している道風を見やりながら問いかけてきた。扇を開き、口元に広がる笑みを隠す。
「話せば長くなるんじゃが……」
そう切り出した説明の最中、氷波の冷たい視線に微かに恐怖を覚えた事は、誰にも言えない。
赤松の話を聞き終えた氷波は、部屋を出てからも頭を抱え続けた。ちらと戸を振り返り、独り言を漏らす。
「……ただでさえお金無いのに……」
曰く。『火薬の製造を始めるため、南蛮から硝石を輸入する』という事だった。
確かに、残る火薬の材料である硝石は、残念ながらこの国で採掘する事はできない。火薬を作り出すには輸入に頼るほか無いのだ。
だがしかし、多大な資金を消費してまでそれを輸入して、藤神家に何か利点があるのだろうか。無論、火薬があるのと無いのとでは、戦における優劣が全く違う。それは去る三月にあった山村家との戦で立証済みだ。けれどもわざわざ生産する意味は──
という思考が、氷波の脳裏でぐるぐると渦巻く。ただ考えても仕方ないので、氷波は諦める事に決めた。
(でも、生島さんのあれは意外だったな)
普段は温和な彼があれほどまでに喜びを露わにする姿は、なかなか新鮮であり少し面白くもあった。いまだに赤松の部屋からは、道風の騒ぐ声が聞こえてくる。鉄砲や大筒といった火器の類がこの上なく大好きなのだろう。
執着心は人を変えるという事がよく分かった。
(これからどうしよ……)
思考を振り払うように頭を振り、氷波は前を見据えた。
昼前の屋敷には文官しかいないので、喧騒よりも静けさが勝っている。皆仕事にいそしんでいるのだろう。
氷波自身の仕事は、すでにあらかた片付いている。しなければならない事はないので、自分がしたい事をしよう。
(久しぶりに、剣術の稽古でもしようかな)
小さく微笑を滲ませて、氷波は彼女の自室へと足を向けた。
右手に伝わる金属の重みが、体に眠る武人の血を呼び覚ます──
「……って、一回でもいいから言ってみたい……」
と、氷波は呟きを漏らした。だがそのすぐ後に、かな? と首を傾げて、誰に向けるでもない微笑を浮かべる。
武人でも武士でも無い自分が、こうして刀を握り振るっている理由は、果たして何だっただろうか。最初は、自分の身は自分で守るという考えだったはずだが、今は少し違う。
ふと脳裏に思い浮かぶ、誰かの背中。
儚げに揺らぐそれに、そっと手を伸ばす。その小さな背中を守りたい。自分は、本当は守られる立場なのに、その背中を守りたいと思う気持ちがある。それが刀を握る理由だろう。
しかし、その温もりに手が届く事は無い。
ゆっくりと振り返ったその背中は、色の薄い顔に微笑を浮かべて、消えた。
自分が願えば願うほど、離れていくものがある。追いかけようとするほど、消えていくものがある。
なぜなら私は──
「手、止まってるよ」
呆れたような声に顔を上げると、そこにはやはり呆れた表情をこちらに向ける少女が立っていた。氷波は普段の微笑を取り戻すと、刀を腰に差している鞘に納めた。
「何か御用ですか? 三条さん」
「え、特に何も無いけど」
そう言いながらも水望は、中庭に立つ氷波の傍らに歩み寄ってきた。無意識の内に、氷波の体に緊張が走る。そういえば、彼女と二人きりで顔を合わせるのは、宴の夜が最後だった気がする。いや、二人きりではなかったか。
「ちょっとさ、話でもしようよ」
互いに反対方向を向く形に並んだ水望は、視線だけを氷波に向けて、口の端に無邪気な笑みを乗せた。
「……いいですけど」
氷波は彼女を振り返って、さも不満げに呟いた。そんな氷波の警戒心を感じ取ったのか、水望は活発な笑みを満面に広げて片手を振った。
「いやー、そんな変な話じゃないよ?」
(変な話ってなんですか……)
口には出さないものの、その笑顔の裏に垣間見える感情に氷波は複雑な心境に立たされた。
「ここじゃなんだし。外、行こうよ」
「……はい」
だが、氷波にとってもかなり有意義な事なので、乗った。
今の自分の気持ちが、理解できるかもしれない。
淡い期待を胸に抱きながら、氷波は淡々と歩く水望の後をついて行った。
自然の豊かさには定評のある屋敷周辺には、草地や林、小川や田畑など、大変のどかな風景が広がっている。無論、藤神の領地にも大きな市や商家もあるにはあるが、それは街道が通る東側の話だ。屋敷より西側ではこのような景色がどこまでも続く。元々藤神家の屋敷は主街地から離れた場所に建てられているのだ。
そんな中を、水望は真っ直ぐにとある場所へと向かっていた。屋敷からそれほど歩いた訳ではないが、人通りがさっぱり無くなったのが見て取れる。
そして視界に映るのは、小さな丘。
(三条さん、あそこに向かってるのかな)
確かにあの話をするならば、あれほどうってつけの場所は無いだろう。だが、その事を知っているのは氷波とその相手だけなので、彼女が意図して向かっているとは思えない。
その考えは見事に当たった。水望は途中で方向を変え、その北を流れる小川に歩を進める。
「あの、どこに行くんですか?」
「……ちょっとね」
たまりかねて問いかけたが、曖昧な返事を返されただけだった。
だが氷波には、その背中から伝わってくる感情でその理由が分かった。少なくとも彼女にとって嬉しい場所ではないだろう。
「着いたよ」
その時響いた短い声に思考を断ち切り、氷波は俯く水望へと顔を向けた。
水望のその視線の先には、石碑をかたどった黒い石があった。別に文字が彫られている訳でもないが、小川のほとりにぽつりと佇むそれからは、なぜか石碑を思わせる雰囲気が漂っている。
「……これは?」
「…………」
返事が返ってこない。不思議に思った氷波は、沈黙を貫く水望に目を向けた。そして、小さくその目を瞠った。
水望は、石に向かって両手を合わせていた。やがて閉じられていた瞼が開き、かすかに唇が動いた。
「……お墓。お母さんの」
彼女にしては珍しい淡々とした声音だったが、小さく震える両手が無理をしている事を物語っている。
「お墓……? でも、三条さんのお母さんは……」
「うん。まだ死んでないよ、多分」
そう言って、水望は笑顔を浮かべた。ただそれは、普段の活発な笑顔とは程遠い、悲しい笑顔。
「このお墓はね、私とお母さんの……決別の証、なんだ」
そして響く、重い呟き。
それら全てが、氷波をここへ連れてきた理由だろう。
「ねえ氷波ちゃん。私、気付いたかもしれない。色葉が私に、私達に隠してる事」
ゆっくりと視線を向けられる。その問うような視線を受けた氷波だが、何も言わない方がいいと判断し、黙したまま草の上に腰を置いた。水望もそれを予想していたのか、川べりに歩み寄り、さざ波が立つ水面に自らの顔を映した。
「……過去って、視えるものなんだ」
一瞬、その水面が凪いだ気がした。
「どうして、分かったんですか?」
「ほんとはなんとなくなんだけどね。これでも私、色葉の事ちゃんと見てるから。それに私、魔導師だし」
水望の言葉に偽りはないだろう。だが、それだけではないはずだ。それくらいは、氷波にだって分かる。
「本当に色葉が大好きなんですね」
「そんなにきっぱり言わないでよ。……って、私が前言っちゃったのか」
「はい。それはもうきっぱりと」
ようやく水望の顔に普段の笑みが戻った。だがすぐに、どこか儚いものに変わる。
「あーあ。私って、ほんとに泣き虫だ」
その言葉通り、彼女の瞳がほんの僅かに潤んでいた。必死にそれが零れるのを堪える表情は、氷波の中に眠る記憶をざわつかせた。
水望は言葉を続ける。
「もう分かんないよ。なんで泣きたくないのに泣いちゃうのかさ。しかも、よりによって一番泣き顔見せたくない人の前で。……なんだか、自分が自分じゃないみたい」
「……分かります」
氷波の顔から、微笑が消えていた。
「彼の前じゃ、本物の自分は見せられない。けど、きっとそれが本物の自分なんですよ」
「…………どういう事?」
一瞬だけ考えるそぶりを見せた水望だったが、どうやら諦めたらしい。首だけを巡らせて、いつになく真剣な表情の氷波を振り返る。
再び氷波は微笑を浮かべた。
「裏の裏は表でも、嘘の嘘はしょせん嘘に過ぎないんです。……じきに分かりますよ」
「え? え?」
その時、疑問の声を上げる水望の周りを、そよ風が撫でていった。水面が僅かに波立つ。
微笑み続ける氷波に、水望は深い溜め息を吐いた。瞳の輝きが翳る。
「……やっぱり、氷波ちゃんの方が……」
深刻な呟きの中に感じた水望の思いに、氷波は立ち上がって彼女へとにじり寄った。
「それ以上言わないでください!」
「な、なに、いきなり。別に何も……」
「いいえ! 私には分かります。三条さん、今諦めかけましたよね」
水望の傍らに膝を付き、目線を彼女と合わせる。顔をぐっと近づける。これでもう、言い逃れはできない。
「……だって、氷波ちゃんの方が頭いいし。私なんか、色葉と釣り合わない、よ」
「違います! 三条さんでないと、色葉は幸せにできません! 絶対に!」
声を荒げる氷波に水望も対抗する。
「幸せにできないって……氷波ちゃんこそ諦めてるじゃん!」
「諦めてなんかいません! 私はっ──!」
氷波は大きく息を吸い込んだ。
「──全部、知ってるんですから!」
最近の色葉が何をしようとしているのかも。その裏に何があるのかも。もう、後戻りは出来ないという事も。
全部、知ってる。
だから、自分は色葉を幸せにさせる事はできないのだ。絶対に。
「……っ!」
無理やりに現実と向き合わされて、氷波は全てを吐き出しそうになった。そんな自分を抑える事ができなくて、氷波はすぐさまこの場から逃れた。
本当の自分を、まだ知られたくなかったから。
「はぁ……はぁ……っ」
胸が、足が、体が痛い。思うように息が吸えなくなり、新しい空気を求めて喉が鳴る。
だが息が整うよりも先に、氷波は小さく笑い声を上げた。
「……なんで……ここに、来ちゃうん、だろ」
途切れ途切れの声に喘鳴が混ざる。無我夢中で走ると、こういう状況に陥るのかと氷波は思った。
この小さな丘は、何も言わずに自分を迎え入れてくれる。
(あの時と同じだね)
色葉と三年ぶりの再会を果たしたあの時も、彼はここに逃げていったのを覚えている。同じ行動をとった事に、氷波は笑っているのだ。
桜の木に手を付き、大きく深呼吸をする。鼓動が落ち着いてきたのを確認して、氷波は青々とした木の葉を見上げた。青い空を覆うように広がる見事な枝ぶりは、柔らかな木漏れ日を氷波の額に落とした。
「ねえ色葉。ほんとに、憶えてないの?」
宴の夜の事を思い出し、その表情に、悔しさを滲ませる。
「私だけが、憶えてるの?」
何を、とは言わない。それを言ってはいけないし、言うのも嫌だから。
でもそれは、きっと自分の気持ちとは違うもの。
「……私が、色葉を──」
やっぱり、自分の気持ちは分からない。
──好きなだけなの?




