第九話
そういえば、『母の愛は山より高く海より深い』という言葉があった気がする。
気にした事すらないこの言葉が、なぜか今、脳裏を駆けたのだ。
もう、どうだっていいのに。
「お兄ちゃん?」
心配そうな声に目を開けると、視界いっぱいに妹の姿が映った。彼女はしゃがみ込んで、腰を下ろしている色葉に目鼻を近づける。
お互いの『眼』が迫った。普段なら、勝手に反応する自らの能力に色葉は慌てて目を背けるのだが、白花に対してはその瞳をじっと見つめる事ができる。
この妹は、過去が視えない人間の一人だからだ。
自分に深く関係する人や、血のつながりがある人の過去は、何をしようとも全く視えないのだ。
これがこの大嫌いな能力の唯一の救いだろう。もしも肉親の過去まで視えたら、常に一緒にいるせいで許容量をあっという間に超えてしまう。成長とともにその許容量は増えてきたと思うが、それでも他人の過去が混ざりすぎて、自分でも何が何なのかもはや分からない。
「……ちょっとお兄ちゃん?」
いささか不機嫌な響きが含まれた声に顔を上げると、白花が頭に両手を乗せていた。
「ああ、ごめん」
どうやら、いつの間にか少し強引に頭を撫でていたようだ。自分は無意識に不安を紛らわそうとしているのだろうか。ならば、白花に心配をかけたくない。
「形のいい頭だなって」
「何でいきなり? まあいいけどね」
納得したのだろうか、いつもと同じ元気な笑みを見せてくれた。最後にぐしゃぐしゃと髪の毛をかき回し、色葉も微笑を浮かべて立ち上がった。
「そろそろ時間かな」
そう尋ねると、遅れて立ち上がった白花は頷いた。和やかだった二人の表情に、瞬く間に緊張が走る。
数日前に赴いた場所へ、再び行かなくてはならないのだ。それも、相当に危険な場所に。
「……それでも俺は……」
屋敷の門へと足を進めながら、色葉は小さく呟いた。
その遺跡が発見されたのは、もう随分と昔の話だ。
五十年ほど前、藤神家の屋敷から南西の方角──現在の生島家の屋敷付近だ──にあったとある村で、村人が次々に消えるという『神隠し』が多発したのだ。だが始めの頃は、単に山中での遭難だろうとされていた。
だがある日、山を熟知しているはずの狩人までもが行方不明になってしまった。それを藤神領主に知らせようとしたその村の人々が、その日の夜に全て消え失せた。村人全員が、だ。突如として、数十人以上が『神隠し』に遭ったのだ。その村の近くにあったのが、ほとんど知られていなかったかの遺跡だったのだ。
それ以来、その村の周辺へ立ち入る事が禁止され、神隠しの被害は無くなった。
──かに思われていたのだが、近頃再びその被害が報告された。更なる被害を防ぐため、今回の調査が決行されたのだ。
村同士をつなぐ道から見える景色は、田園風景からうっそうとした森に変わっていた。例の遺跡が近いのだろう、申し訳程度に整備されていた道も、もはや獣道程度にまで荒れ果てている。その森の中を進む六人は、皆静かに遺跡への道を歩んでいた。あの一人を除いては。
「う〜あ〜、暗いよ〜怖いよ〜」
「うるさい道風」
隣を歩く水望が、道風の体を軽く小突いた。森に入った辺りから、彼はずっとこの調子だ。だがその顔は怖がるどころか、期待に胸が膨らむといった色に染まっている。
「さ……水望さんの言う通りだ、道風」
「え〜、だって怖いし〜」
『いいから黙って、道風』
水望と陸の声が見事に重なった。二人の視線の先には、先頭を歩く少年の背中があった。
(……怖いのは俺の方なんだけど……)
そんな彼らの声を背後で聞きながら、色葉は全くの無表情を貫いていた。
「色葉、大丈夫?」
眉をひくつかせる色葉に、氷波は心配そうに声をかけた。みんなに気づかれないよう──それが無意味だという事は誰も言わない──囁かれた声に、色葉は小さく頷いた。
「普通はお兄ちゃんが言う方じゃない?」
「……白花」
無邪気に笑う妹を、色葉は低い呟きで制する。
別に暗い森が不気味で怖い訳じゃないし木の形が幽霊みたいに見えても全然怖くないしなにより出発前に祖父に聞かされた怖い話を思い出してなんかいない。
(ただ、ほんの少し……怖いだけ……いや、怖くない、はず)
もう嫌だ。
「でもさー、おじいちゃんもなんであんな話したのかなー」
「あれだね。神隠しに遭った人達の魂が生きてる人を食べようと、真夜中に──」
「氷波っ……!」
掠れた叫びを上げた色葉の瞳には、年相応の恐怖心が見て取れた。色葉があどけない表情を見せるのは、残念ながらこんな時だけだ。
「ご、ごめん」
「お兄ちゃんがしっかりしないからー」
「何? なんでみんな怖くないの……?」
とうとう本音を口にしてしまった。すがるような眼差しを向けられた氷波は、首をすくめて苦笑いを浮かべた。
「大丈夫、みんなも怖いから」
ここにいる全員は、彼と同じく恐怖を抱いている。ただ、それは色葉が抱く恐怖とは対象が違った。普通は抱くはずである身の危険に対する恐怖を、色葉は全く持ち合わせていないのだ。
これから向かうのは、誰一人として生きて帰れなかった遺跡。一度入れば帰ってこられない、まさに死の遺跡だ。死への恐怖は、人間ならあって当然の感情であり、おそらくそれを感じていないであろう色葉は、かえって恐ろしい。
しかし、それでもなおここに来た理由は、やはりその色葉の存在が大きいだろう。
「──あっ!」
「何ぃっ?」
もはや可哀想なほどに震えた色葉は、大きな声を上げた白花の見やる方向を恐る恐る窺った。そして見えた景色に、軽く目を瞠った。
森の中の道を、黒く巨大な扉が塞いでいたのだ。
それを見た色葉は、徐々にその表情に普段の落ち着きを取り戻していった。そんな色葉とは対照的に、氷波達の顔は瞬く間に強張っていく。
「あれが……扉……」
呆然と呟かれた声が誰のものだったのかを気にする余裕すら、白花や道風達からは消えていた。
暗い森の中に突然現れた、紋様の描かれた両開きの扉。本来、そこにあるはずの無い巨大な扉こそ、これから向かう死の遺跡への入り口なのだ。
息を呑み、呆然と立ち尽くす五人の耳に、高く澄んだ声が届いた。
「何してるの? 行くよ」
首を傾げて促す色葉の姿は、呆れるほど普段通りだった。他の反応を顧みる事無く、色葉はその扉へと歩み寄る。
「ま〜、何とかなるよね〜」
大きく首を振った道風は、隣に立つ陸の腕を引いて色葉の背後に立つ。水望も小さく頷き、白花に目配せをして道風の後に続いた。
最初から色葉のそばに立っていた氷波は、口の中で何かを呟き、色葉の肩にそっと手を置いた。
「……じゃあ、開けるよ」
扉に手をかけた色葉達の体は、真っ白な光に埋め尽くされた。
──僕に、会いに来たの?
いつしか味わった事のある嫌な感覚が、再び牙を剥いて色葉達に襲い掛かった。
「っ……く、ぅ」
微かな呻き声を上げながら、色葉はゆっくりと立ち上がった。そして聞こえるはずの楽しげな声が無い事に疑問を感じ、額を押さえて背後を顧みた。
「道風……?」
相変わらず視界は霞んでいるが、屹立している道風の顔はよく見えた。その彼は目を見開き、呆けたような表情を広げている。
「きれい……」
道風が紡いだ声を受け、色葉は視線を前方に向けた。
その時、目に飛び込んできた景色がその言葉を生み出したのだと、すぐに理解できた。
一面に広がる、桜の花。その全てが、眩しいほど満開に花開いていた。頬を撫でるそよ風が、舞い散る花びらを渦巻かせている。その下を真っ直ぐに伸びる道は濃い紅色で、直線的に切り揃えられた石が敷き詰められている。その脇には、小さな草花がひっそりと芽吹いているのが見える。確かに、ここはとても美しい。
だが、全体的に暖かい色合いのこの場所は、なぜか冴え冴えとした雰囲気を漂わせていた。
「桜? なんで?」
差し出した手のひらに舞い降りた花びらを、水望はふっと一息に吹き飛ばした。周囲の気配を探っていた色葉は、目を閉じたまま答える。
「遺跡だから……って理由だけじゃないと思う。けど、よくは分からない」
大きく息を吐いて、色葉は目を開いた。振り返って首を左右に振る。
「季節外れもいいとこだよね〜。……もしかして、この桜は藤の花っ?」
「見当外れもいいとこだ」
真面目な顔をして言い放った道風の後頭部を、陸は盛大に叩いた。この二人、実は相当仲がいいのではないか。
「いった〜い! 僕何か変な事言った〜?」
「自覚が無いところが生島さんです」
氷波にまで詰められた道風は、唯一何も言ってこない白花に助けを求めようとした。だが、寸前でその口を閉ざした。代わりに彼女の名前を呼ぶ。
「どしたの?」
だが当の本人には聞こえていないようだ。食い入るように景色を眺めている。
「……ここ、もしかして……」
小さく呟いた白花は一瞬だけ氷波の顔を見て、その顔に微笑を浮かべた。
「ううん。多分気のせいだと思う」
「ほんとに? 何かあるならちゃんと言ってよ」
水望の心配そうな声に、大丈夫と俯き加減で白花は答えた。そんな二人の間に、何食わぬ顔をした氷波が割り込んだ。
「さ、早く行きましょう、皆さん」
「そうだよ、調査なんて早く終わらそう」
にこりと笑う氷波に白花も同調する。不自然な彼女達の様子に疑問を感じながらも、水望は色葉に視線を向けた。頷く彼を見て、仕方ないと言う風に肩をすくめた。
「じゃあ、先に進もうか」
色葉はきびすを返し、桜の道を歩みだした。
──こっちに、おいで。
目の前でよろけるどこか人に似た魔物との距離を、氷波は一瞬にして詰めた。
「これで、終わりっ!」
氷波は右手の刀を振り下ろし、耳障りな断末魔を上げる魔物を光の粒へと粉砕した。その全てがマナに帰依するのを眺めやり、背後で荒い息を継ぐ色葉を顧みた。
「……魔法は、あまり効かないみたい」
額の汗を拭いながら、色葉は掲げていた両手を下ろした。
一本道を進む──そういえば、なぜ遺跡の道には分かれ道が少ないのだろう。少し気になる──色葉達の前に立ちはだかる魔物は、全て先日調査に行った遺跡に出没したそれらよりも強かった。最大の攻撃手段であるはずの魔法が、ここの魔物達には効果が薄いのだ。
「これからは俺も刀で……氷波、ちょっと」
「何?」
言葉の途中で手招きされた氷波は、言われるがまま色葉のそばへと歩み寄る。
〈癒しの力よ、ファーストエイド〉
氷波の体を清浄な光が包み込み、服の隙間から覗いている肩に走った赤い筋を、一瞬にして消した。その場所を手のひらで押さえながら氷波は微笑む。
「ありがとう」
「いや、氷波が大丈夫ならそれでいいよ」
自分よりも少し高い場所にある氷波の頭に、色葉はぽんと手を置いた。そして僅かながらも小さな微笑を浮かべた。
「ふ、二人とも何やってるの! 早く先に行くんでしょ!」
「仲良くするのは無事に戻ってからだよ〜」
「私も道風と同感です。……認めたくはありませんが」
「陸さん? 顔が怖いです!」
並ぶ色葉と氷波を遠巻きから眺めていた残る四人が、水望の声を皮切りに騒ぎ始めた。
(何で突然……? まあ、緊張がほぐれたならいいか)
首を傾げた色葉は、自らの考えに納得して道の奥を見据えた。
これはどの遺跡も同じようで、桜の花が覆う石造りの道は、奥に行くにつれて徐々に暗くなっている。まばらに生えていた草花も、すでにその姿を消している。
そして何より、嫌な予感がした。
この奥に何かがいる。気配は感じないが、恐ろしい何かが確かにいる。この感覚は、当たって欲しくない時に限って──当たって欲しい時など一切無いのだが──必ず当たる。おかしな緊張を持ってそれに遭遇するよりは、無駄な力が入っていない方がいいだろう。
それはさておき。
「……氷波。俺達に何か隠してる?」
歩き始めた四人の後ろで、色葉は小声で尋ねた。相変わらずの色葉の無表情に対し、氷波は感情を気取らせない微笑を浮かべる。
「隠し事なんて、私が色葉にできると思う?」
「そう、だよね……ごめん」
口では謝りつつも、視線を彼女の『眼』に向ける。だが諦めたように息を吐き、色葉は無言で歩き始めた。
「…………じきに分かるよ」
その時、背後に聞こえた呟きの意味を、色葉は理解する事ができなかった。
──ようこそ、僕の世界へ。
「また、扉……」
色葉達の目の前には、入り口と同じく両開きの扉が道を塞いでいた。その黒い輝きは辺りを包む闇と同化していて、その重苦しい雰囲気に拍車をかけていた。
ちらと後ろを振り返る。もはや光は遠くにあるだけで、まるで深い隧道の中にいるかのような感覚を感じた。
「多分、ここが最深部だと思う」
扉のそばへと歩み寄り、その紋様を手のひらでなぞる。ここまで来ると、さすがの色葉でも進むのを躊躇ってしまう。だがそれは、自らの危険を恐れているのではないという事は、色葉自身も、彼以外も分かっている。
「中の気配が読めない。注意して」
その躊躇いは、その場にいる全員を冷静にさせるためのものだ。
頷く気配が背後から伝わってくる。色葉は背中の刀を抜き、左手の中に軽く収めた。
(……使わなくてもいいなら、その方が……)
深い闇の中でも僅かに煌くその白い光を一瞥する。まるで色葉の魔力を欲しているかのように、その輝きは全く失われていなかった。自分とこの刀があれば、この扉の向こうに何が待っていようと、何とかなりそうな気がする。自分を過信しているわけではない。今ここには、氷波も、白花も、水望も。道風や陸もいる。だから、大丈夫だ。
最後に、胸の前に下がった布袋を服の上から握り締めた。この間封印が少し解けかかった事もあり、どれだけ効力があるか分からないが自分で魔法陣を強化しておいたのだ。ただ、彼の力も近い内に必要になるだろう。そんな予感がする。
「……行くよ」
低く呟いて、扉に手をかけた。
刹那、こめかみを鋭い痛みが襲った。嫌な予感が形を持って現れたのだ。だが気にするほどのものではないと判断し、色葉はそのまま扉を押し開けた。
扉の隙間から、光が漏れる。中はそれなりに明るいようだ。その光が直接目に入らないよう、色葉達は目を細めた。
重々しい音を響かせながら、扉はひとりでに開いていく。何があっても大丈夫なよう、刀を構え、鋭く神経を研ぎ澄ます。
この部屋の中には、いったい何がいるのか。それは果たして──
扉が完全に開き、その全容が明らかになった。立ち尽くす色葉達の耳に、楽しげな一人の子供の声が届いた。
「──ようこそ、僕の世界へ」




