エピローグ 中古住宅※嫁、舅、仏壇付
「ただいま」
そう声をかけなくなったのはいつからだろうか。
冷え冷えと冷え切った家の中には、3人の人間が既にいるはずなのに、深夜一時という時間帯のせいもあって、誰も起きていない。
「上條、最近、ワーカーホリックじゃないか?」
同僚にも心配されたが、この冷め切った家に帰るのはどうしても、怖くて、寂しくて、晴哉は日に日に帰宅時間が遅くなった。
土曜日も出勤か、朝から飼い犬のカインと散歩に出掛けた。
新婚直後から、妻の実家に入り婿して早7年。
いっそのこと、舅たちと居住を別にした二世帯住宅にリフォームしないかと妻に提案したが、妻は「どうして?」と小首を傾げるだけだった。
「晴哉、お前に原因があるんじゃないのか?」
4年ほど前から、舅たちに子供が出来ないことを暗に非難された。
「英恵は、婦人科でも異常がないといわれたみたいなのに」
晴哉とて自分の方に原因があるのかと、恥をかなぐり捨てて病院に検査をうけにいった。異常はなかったと妻から姑たちに話はいったはずなのに、舅たちは晴哉ばかりを責める。
「仕事のし過ぎなんじゃないか?」
「先祖の供養が足りないのでは?」
「お前が」
「晴哉が」
いつしか、あれほど望んで手に入れた家族が
、家族ではなくなり、
「私、妊娠したの」
全く覚えのない妻の妊娠に、もう限界だと告げていた。
「晴哉くん、うちの息子になる?」
昼間の公園、土曜日の昼に晴哉は顔馴染みの婦人と話し込んでいた。
半年ほど前から知り合った彼女は、自分は末期のガン患者だと、笑いながら言っていたが、晴哉には全くそう思えなかった。
それでも季節の変わり目に、徐々に婦人の線が細くなるのを見るに付け、世の中は何て不公平なんだと思った。
もっと、死んでほしい奴なんて沢山いるのに。
そんな晴哉の心の中の毒を見抜いたかのように、婦人は穏やかに笑いながら、晴哉に言った。
「犬が住める家に引っ越さないと駄目なんでしょ?」
妻の家から逃げるように出て、今は仮住まい暮らしだ。幸い、二世帯住宅なんてものにしなかったから、預金もあった。
いっそのこと、カインと二人だけで暮らせる中古住宅なんかでも買おうかな、とぼやいたら、婦人が笑いながら言ったのだ。
「中古住宅、嫁付きでどう?」
婦人には30歳になる娘がいるという。
がん保険で入ったお金と預貯金で、家をリフォームするから、家ごと娘を貰ってくれという婦人に、晴哉は苦笑しながら、
「勘弁してください」
と頭を下げた。
婦人の言葉を冗談だと思ったからだ。
でも、婦人は冗談なんて一つも口にしていなかった。
「晴哉くんがほしくてほしくてたまらなかったもの、私たちなら晴哉くんにあげられるよ?
だから、我が家の子になりなさい」
35の男に子供も何もないだろうと思ったが、それでも婦人の言葉に、惹かれなかったと言えば嘘になる。
そして極めつけの一言。
「自分の家族を幸せにしてから死なないと、死んでも死にきれない。その家族に晴哉くんも加えてあげるから、我が家においで」
婦人に興味があった。
赤の他人の自分にも優しく暖かいこの人が、その人生の最後に幸せを願う程の娘は、どんな人なのだろうかとも思った。
「そういう問題じゃないでしょう!
仮にも夫婦になったなら、不倫なんてする前にきちんと決着つけるべきだったでしょうよ!
子供できたから離婚って、馬鹿にするにも程がある!!」
婦人の娘、珠希は真っ直ぐで、人のことにも直ぐ怒り、そして泣く、素直な人だった。
(あぁ、俺は幸せになれるんだろうか?)
小さい頃から、ただ、ずっと、
家族が欲しかった。
それはどんなに暖かくて、どんなに優しいものなんだろう、と夢にまで見た。
ほしくて、ほしくて、
本当にほしくて。
「晴哉くん、珠希と結婚して良かったでしょう?」
珠希と結婚式をあげた日、先に着替え終わった晴哉に、そう義母になった婦人が言う。
「はい、ありがとうございます。お義母さん」
深々と頭を下げれば、義母は嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔が、出会った頃よりずっと線が細くなったことを、晴哉は胸が引き裂かれそうな思いで見ていた。
「ただいま」
カインの散歩を終えて我が家に帰る。
以前だったら言わなかったその言葉に、今は返事がある。
「おう、お帰り」
舅にあたる義父が、自分の部屋から顔を出し、頼んでもないのにカインの足をふく布を持ってくる。
「ありがとうございます、お義父さん」
「ん」
無口な義父だが、その表情は義母とよく似ている。
そのままリビングまで移動すると、珠希はキッチンで昼ご飯の支度をしていた。
カインが匂いにつられて、一声吠える。
珠希は顔をあげて、晴哉を確認すると、いつもと変わらない声で、
「あ、おかえりー」
と言った。
その一言が、どんなに欲しかったかなんて、きっと珠希は知らない。
だって、彼女の中で、家族を出迎える言葉はいつもそれで、そういう生活しか知らないで育ってきたからだ。
(お義母さん、ありがとうございます)
当たり前が欲しかった。
返ってくる言葉が欲しかった。
欲しかったのは家じゃない。
その家の中にある、妻であり、舅であり、家族であり、そしてそれを形作った人だ。
妻こそが、舅こそが、義母の仏壇こそが、自分の欲しかったものだと言ったら、珠希はきっと、その丸い目を更に丸くして、「仏壇が?!」なんて言うだろうが、義母がいたからこそこの家族があることを、晴哉は身を持って実感していた。
「今日はトロトロオムライスに挑戦してるの!」
嬉しそうな珠希を見ながら、晴哉は微笑むと、心をこめて言葉を紡ぐ。
その一言が言える相手が欲しくて、この家を手に入れた。
「ただいま」
fin
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。読んでくださった皆さんにたくさんの感謝を。




