【プロローグ】君のいない明日
――雨が降っていた。
(空が泣いているみたいだ)
(……らしくないな)
そんな言葉が浮かぶくらいには、現実を受け入れられていなかった。
こんな言葉を思う自分は偽りで、目の前の光景も偽りなんだと。
――今日だけは、そう思ってしまった。
白い花が並んでいる。
黒い服を着た人たちが列を作っている。
線香の匂いが鼻を刺す。
誰も大きな声を出さない。
それなのに、耳鳴りだけがやけにうるさかった。
衛守純弥は、祭壇に飾られた写真を見つめていた。
写真の人物――渡会唯依奈は笑っていた。
いつも通りの笑顔だった。
くだらないことで笑っていた時と同じ顔。
――出会って間もない時の、公園の砂場の中。
――小学生の時の、遠足でのピクニックシートの上。
――中学生の時の、一緒に立たされた廊下。
――高校生の時の、一緒に歩いた帰り道。
今までの思い出の半分以上は、彼女がいた気がする。
歩くスピードも、初めてのキスも。
――すべてを彼女に染められていた。
なのに。
その写真の中の少女は、もうどこにもいない。
「純弥くん」
声をかけられ、ゆっくりと顔を上げる。
唯依奈の母だった。
どこかやつれた顔をしている。
当然だ。
娘を亡くしたのだから。
「今日は来てくれてありがとう」
「……この度はお悔やみを……」
大人を真似して定型句を言いかけるが、言い切れなかった。
この言葉を使うと、受け入れてしまうようで――
「……」
沈黙が二人の間を包む。
本当は言いたいことなんて山ほどある。
どうして。
なんで。
嘘だろ。
返してくれ。
そんな言葉ばかり浮かぶ。
けれど、それを一番言いたいのは目の前の人だ。
だから何も言えなかった。
「ごめんね」
ぽつりと。
唯依奈の母がそう言った。
「え……?」
「唯依奈ね」
「高校を卒業したら」
「純弥くんとたくさん出かけるんだって楽しそうに話してたの」
「そのために大学受験も頑張ってね……」
「都内の大学に行って、一緒に暮らすんだって」
純弥は言葉を失った。
「大学生になったら、遊園地に行くんだって」
「……」
「旅行もしたいって」
「……」
「そのまま、結婚だってするんだって」
「こんな古臭い田舎から、純弥くんを連れ出すんだって」
胸が痛かった。
息が詰まる。
やめてくれ。
それ以上は。
「だから、ごめんね」
頭を下げる唯依奈の母に、純弥は慌てて首を振った。
「……やめてください」
「でも……」
「やめてくださいっ!」
唯依奈の母は目を見開く。
純弥は唇を噛んだ。
謝らないでほしかった。
誰も悪くない。
少なくとも、この人は悪くない。
だから。
「俺の方こそ……」
そこから先は続かなかった。
喉が震える。
涙が出そうになる。
(……情けない)
こんな場所で泣くつもりなんてなかったのに。
唯依奈に格好悪いところを見せたくなかったから。
――純弥は逃げるように会場を後にした。
雨はまだ降っていた。
傘を差すこともできなかった。
濡れていれば、涙もごまかせるから。
駅までの道を歩く。
携帯電話を取り出す。
もう返事が来ることのないメール。
一番上に残っていたのは、亡くなる前日のやり取りだった。
『卒業したらいっぱい遊ぼうね!』
『おう』
『大学出たら結婚ね!』
『気が早いだろ』
『早くないもん』
『はいはい』
『絶対だからね!』
――そこで会話は終わっていた。
純弥は画面を見つめる。
指先が震える。
メールの受信更新を何度も押してしまう。
もう返事は来ない。
もう会えない。
もう隣を歩けない。
――そんなのはわかっていた。
それが現実だった。
空を見上げる。
灰色の雲が広がっている。
人が一人いなくなっても、何も変わらない世界。
電車は走り、人は歩き、犬は鳴く。
日は沈み、また昇り、明日が来る。
なのに。
唯依奈だけがいない。
望んでいる明日は来ない。
「……約束したのにな」
呟きは雨音に消えた。
誰にも届かなかった。
少なくとも、この時の純弥はそう思っていた。
【第一話へ続く】




