3. 出立の朝【前】
王宮敷地内、西門前広場。夜明け前の暗がりの中で、人々の話し声と忙しなく動き回る物音が一つの騒めきとなって空気を満たしていた。
鈍く硬質な輝きを放つ鎧を身につけた騎士が、落ち着かない様子の馬を宥めている。馬車に次々と積み込まれていく荷の影が、篝火に照らされてチラチラと形を変える。そんな様子を、片隅に立ち尽くす少女──セラ・フローライトは、油断すると戻ってきてしまう眠気と必死に戦いながらただ眺めていた。
シンプルながら上質な生地でできた旅装に身を包む彼女は、十五歳という年齢を考えてもやや小柄な印象を受ける。肩の上あたりまで伸びた癖のない髪は、金色がかった淡い茶色。一見するとどこにでもいそうな普通の少女だが、その瞳──澄んだ明るい蒼を金色の光輪が縁取る特別な両眼が、彼女が神子であることを示していた。
(……ねむい……)
重要な任務の開始直前であったがセラの脳内は今、その一単語だけがぐるぐると回遊していた。
眠い。何をさておいてもとりあえず眠い。こんなこともあろうかと昨夜は二刻ほど早めに寝床に入ったのに、結局寝付けず逆に普段より短い時間しか眠れなかった。出立準備の手伝いでもして体を動かせればよいのだが、「神子様にそんなことはさせられない」とものすごく丁寧に断られてしまったという経緯がある。聖なる神子が立ったまま居眠りして転ぶなんてことになれば多方面からお叱りを受けそうなので耐えているが、これはちょっとその辺を歩いてきた方がよいかもしれない。でも、無意味にうろつくとやはり邪魔だろうか。
回らない頭で悩んでいると、すぐ傍らから笑みを含んだ声がかかった。
「セラったら。さすがに緊張しているのかと思ったのに……その顔は、眠いのね?」
声の主は、セラの横に立つ女性だった。
セラと同じデザインの旅装を身に纏う彼女の背丈は女性としては少し高く、長い脚に引き締まった体躯はどこか野生的でありながら、その立ち姿はあくまで優美だ。後ろで一つに束ねられた髪は鮮やかな赤で、西の空へ沈む落日を思わせる。セラの顔を覗き込んでからかうように煌めいている瞳は、澄んだ深緑を湛えていた。
身長差の関係で見上げるような体勢になったセラは、今まで以上に必死に目をこじ開けて弁明する。
「フランチェスカ様……わたし、寝てません! まだ!」
「寝ている、ではなく眠そうだと言ったのよ。手持ち無沙汰で放置してごめんなさいね。もうすぐわたくしたちの馬車の準備ができるから、その中でなら寝てもよくてよ」
「うぅ……すみません、わたし一人だけ何もお手伝いできていないのに、こんな……」
若干気落ちした様子のセラを見て、女性──フランチェスカの両手がわきわきと妙な動きをした。その片方がセラの柔らかい金茶色の頭に伸ばされ……触れる寸前で引っ込められる。どうやら、撫で回したいのを我慢したらしい。妙な間ができてしまったのを誤魔化すように抑えた咳払いをしてから、彼女は上品に微笑んだ。
「んんっ……、ふふ、セラは気にしないでよいのよ。神子は特別な存在。屋敷にいる時のように、どーんと構えていればそれで」
「でもフランチェスカ様だって、『どーんと構える』お立場ですよね? さっきから皆さんに率先して指示を出されたり、準備の状況を確認したりでお忙しそうでしたけど……」
「わたくしはこれがお役目ですもの。今回は全軍を指揮する立場ではないけれど、ある程度の範囲で指揮を執る責任と権利がありますわ」
そう言って泰然と微笑むフランチェスカは、セラから視線を外して背筋を伸ばし、ゆったりと周囲を見渡した。歳こそ若いがその雰囲気には既に、多くの人間を従える指導者の貫禄が備わっている。
セラが指摘した通り、フランチェスカはやんごとない身分……大公家息女という立場である。
このウォーテル王国の上流層における階級は大まかに分類すると、王族、大公、侯爵、伯爵、子爵、男爵の六段階になっている。他国と少し異なるのは、公爵の代わりに置かれた大公がほぼ王族に等しい扱いだという点だ。もう少し具体的に言えば当代の国王が子どもに恵まれなかった場合や、子どもはいるが次代の王に相応しくないと判断された場合、二つある大公家のどちらかの子息が即位するという仕組みである。三代めの国王が導入したこの制度に従い、王家と二つの大公家は数代おきに姻戚関係を結びながら王国を維持してきた。
よってフランチェスカは実質的に王女と同じ立ち位置になり、本来は大公家の屋敷の奥から滅多に出てこないはずの貴人である。にもかかわらず王族には相応しくない魔獣の討伐任務などに参加しているのはひとえに彼女の、魔導士としての稀有な才によるものだ。さすがに普通の宮廷魔導士のように何でもとはいかないが、大公家ならびに王族の旗印として軍務に参加することで、貴族や民衆からの支持率上昇に一役買っている。
フランチェスカとの会話で少し目が醒めたセラは、こちらへ向かって歩いてくる金髪の男性に気がついた。彼はフランチェスカの前まで来ると、慣れた仕草で礼を執った。
「おはようございます、フランチェスカ様。こちらの準備は整いましたので、あとは号令を待つのみです」
「おはよう、ハイウェル。予定通りね、ご苦労様」
「ありがとうございます。セラ様も、おはようございます。もうすぐ出立ですが、体調の方は問題ありませんか?」
「おはようございます、ハイウェルさん。体調は大丈夫です」
ちょっと眠いですけど、と尻すぼみに付け加えると、ハイウェルは柔らかな苦笑を浮かべた。
彼はフランチェスカの副官として務めている宮廷魔導士だ。歳は二十四。セラのものよりは濃い青の瞳を持つ目はやや垂れ気味で見る人におっとりとした印象を与え、整った顔立ちと合わせて王宮内のご婦人方の熱視線を集めているというもっぱらの噂である。
「同じ馬車に乗るのって、フランチェスカ様とハイウェルさんとわたしと……あと、スピネルさんっていう神子の人でしたよね。もういらっしゃってますか?」
「わたくしの方ではまだ見かけていませんわね。ハイウェルはどうかしら?」
「いえ、私の方でもまだ会っていません。遅刻するような性格ではないので大丈夫だとは思いますが……」
「えっ、ハイウェルさん、お知り合いだったんですか?」
初耳の情報にセラが目を瞬かせる。
「知り合いというほどでは……。数年前、何度かこのような討伐任務などで一緒になったことがあるだけです。直接会話をすることはありませんでしたが、任務に対して誠実に取り組んでいると感じられる立ち振る舞いでしたね。ただ……」
「ただ?」
当時を思い出すようにほんの少し顔をうつむけていたハイウェルの目が、ふと陰る。そのまま言い淀んだ彼にフランチェスカが続きを促したが、答える前にハイウェルは何かに気がついた様子で視線を逸らした。
「……ああ、噂をすれば、ですね。本人が到着したようです」




