1. 転機
窓辺にかけられた質素なカーテンの隙間から細い光が差し込む朝の部屋に、硝子が転がるような涼やかな音が鳴り響いた。
音の発生源は、壁に掛けられた小さな時計……の下部に吊り下がる、鈴によく似た飾りだった。小刻みに震えながら鳴り続けるそれを、すぐ側のベッドから伸びてきた手が掴んだ途端、わずかな余韻を残して音が止む。その手の主は緩慢な動作で上体を起こし、軽い欠伸を一つ零した。
まだ年若い青年だった。あまり屋外で活動する性格ではないのか、やや華奢で色白である。肌の色とは対照的に黒々とした前髪の間から覗く目が、眠たげに半分ほど開かれた。
特別に美しくも、逆に醜いとも言われなさそうな平凡な彼の容姿は、しかし──その目だけが異様な様相をしていた。
その瞳の色は、鮮血を思わせる深く透き通った紅。さらにその周縁部はまるで光輪のように、放射状に広がる金色が差し込まれていた。ただ赤い瞳であるなら珍しいもののあり得ない話ではないと言えたかもしれないが、常人には見られない二つめの色彩がそれを否定している。
そんな奇妙な瞳を持つ彼は気怠げにもそもそと体の向きを変え、両足だけをベッドの外に降ろして腰掛ける体勢になり、ベッド脇の簡素なチェストの上に置いてある紙の束を手に取った。直近で受け取った指令書や未記入の報告書をまとめて置いていたものである。
(これは昨日終わったやつ、後で記入して提出……こっちは……ん?)
ペラペラと上から順にめくりながら確認していく途中で、ふと手が止まる。束の一番最後に現れたのは封筒だった。どうやら、昨夜届いていたものを未開封のまま忘れていたらしい。すぐに開けて中身の書類を取り出し、確認すると──思いもよらない内容に、未だ眠気を纏わり付かせていた彼の目がようやくしっかりと開かれた。
「辺境伯領の魔獣討伐、……その、随行命令?」
◆◇◆
約一刻後。朝の身支度やら軽い食事やらを手早く済ませた彼は、それまでいた場所──王宮の使用人宿舎棟の外に出てきた。
迷いなく歩いて目指す先は王宮の主軸となる、政務が行われている区画だ。彼が居住を許されている使用人宿舎棟はこの王宮敷地内でも最も外れにある方で、徒歩だとなかなかの距離である。それでも慣れた調子でさっさと足を運べば、目的の場所の正門が見えてきた。真っ直ぐ近づいて行くと、門を警備する二人の衛兵の片方が姿勢を正し、彼の歩みを遮るように前へ出る。
「止まれ。名前と用件は?」
「アルヴィ・スピネル。用件は上司……シャンドリ伯爵からの呼び出しだ。ここに指令書もある」
衛兵の問いに青年──アルヴィは淀みなく答え、部屋から持ってきた指令書とそれが入っていた封筒を見せる。アルヴィの名を聞いた衛兵はそれまでの淡々とした事務的な態度が嘘のように驚いた様子で軽く目をみはったが、差し出された指令書の署名と印を確認して頷いた。
「あ、ああ……確認した。伯爵閣下からも事前に連絡が来ている。通ってよし」
元の位置に戻って道を開けた衛兵に軽く頭を下げ、アルヴィは門を通り抜けてその奥へと進んだ。足早に遠ざかるアルヴィの後ろ姿をチラチラと見ながら、衛兵たちが顔を寄せ合って声を潜める。
「……アレがあの『死神』か? 思ったより軟弱そうだな」
「馬鹿、滅多なことを言うもんじゃない。あの『神子』が七年前の大戦で何をしたか、お前も噂くらいは聞いてるだろ? 奴の目を見たか、血染めみたいで不吉な……」
(全部聞こえてんだよなぁ……)
背に届く散々な内容のひそひそ声に、アルヴィは心の内だけでそう呟いた。しかしまあ、彼にとってこんな反応は慣れたものだ。いちいち苛立っていては身が持たない。
アルヴィ・スピネルは、神子と呼ばれる者たちの一人である。
この世界には、広く知られ信仰されている神から全く無名の神まで、数多の神々がいる。神とは人智を越えた大いなる力を振るう、超常の存在。しかし彼らが在るのは、現世とは少しずれた所にある異界である。神々の力を以てしても、彼らが直接現世に介入することは至難の業であった。
そこで神々は、現世で生きるモノたちを利用することを考えついた。その結果として創り出された存在が神子だった。神子は神によって選ばれ、その権能を貸し与えられる。例えば火の力を持つ神が選んだ神子ならば、火炎を自在に操る力を得るという具合にだ。要は、現世における神の代行者のようなものである。
連綿と続く人の歴史の中で幾度も現れた神子たちは、神聖で強大な存在として畏怖の対象となった。同時に、時の権力者たちが彼らを手中に収めようと躍起になったのもまた、自明の理と言える。この王国……ウォーテル国でもまた国内に生まれた神子を確保し、保護という名目で王宮の管理下に置き、実質的に家臣のような扱いをしている。しがない平民出身のアルヴィが王宮の敷地内で生活し、先程衛兵に告げた通り伯爵階級の上司の元で働いているのもそれが理由だ。
門を抜け、その先に広がる中庭も通り越し、壮麗な白亜の宮殿へと足を踏み入れる。宮殿内での道中でも二回ほど、先ほどの衛兵たちと交わしたものと同様のやり取りを繰り返し──さすがにここまで来ると、あからさまに不躾な態度をとる者はいなかったが──、アルヴィはようやく、目的の部屋へと辿り着いた。許可を受けて室内に入ると、その場にいた人々の視線が一斉に彼へと向けられる。
「おはよう、アルヴィ・スピネル。顔を合わせるのはしばらくぶりだな。変わりはないか?」
そう声をかけたのは、この場に彼を呼び出したその人。エドワード・シャンドリ伯爵である。
白髪の混じり出した鳶色の髪と同色の両眼が机上の書類から視線を外し、アルヴィを捉える。一瞬目が合った後、アルヴィは軽く頭を下げて挨拶を返した。
「お久しぶりです、伯爵閣下。お送りいただいた指令書のことで参上いたしました」
端的に述べられたアルヴィの言葉に伯爵は頷き、立ち上がって今度は右手の壁側にある扉に目を向けた。
「そちらで話そう。指令書に記載した事項のほかに、いくつか説明しておきたいこともある」
扉の向こうは、先ほどの部屋──シャンドリ伯爵の執務室よりはいくぶん手狭な部屋である。壁のみならず天井や床にも宮廷魔導士による防音魔法が施されたそこは、内密の会話を行う時に使用される特別な部屋だ。執務室で仕事をしていた秘書のうち一人と、最後にアルヴィが続いて扉が閉まる。向かい合わせに置かれたソファの片方に腰掛けた伯爵は、反対側にアルヴィが着席したことを確認して口火を切った。
「さて、指令書に記載された内容については事前に大体目を通したと思うが。大まかにまとめると、昨日の朝にランキン辺境伯領から報告のあったイェダ村周辺部での魔獣のスタンピード、その鎮圧補助が君の主な任務になる。討伐隊の出立は明日だ、今日中に準備をしておくように。もし明日以降に予定していた事項があるのなら、可能な限りこちらで埋め合わせをしよう」
「………スタンピードの性質上やむを得ないとは思いますが、やはり急ですね。というか鎮圧、ではなくその『補助』ですか?」
「ああ、あくまで補助だ。此度の鎮圧任務において中核となるのは君個人ではなく、魔導士を中心とした部隊が予定されている。君に頼みたい補助任務は二つ。一つは、魔導士たちでも対応できないほど強力な魔獣が出現した場合、その討伐。そして二つめは──同行する神子、一名の護衛だ」
(神子の護衛……?)
質問に対する答えを黙って聞いていたアルヴィだったが、予想外の内容に思わず首を傾げた。
神子の力は、それを選んだ神の性質に依存する。当然ながら全ての神が争いごとに適した能力を持っているわけではないので、自ら積極的に戦うことのできない神子もいる。現在ウォーテル国に所属する三人の神子の中にも該当する者が一人いることはアルヴィも知っているが、わざわざ戦闘向きでない者を連れて行くとは思えない。
「恐れながら申し上げますが、討伐任務に同行するような神子に護衛など不要では?」
「いや、同行する神子は『揺籃』の神子……セラ・フローライトだ。もちろん魔導士たちで守りを固めるつもりだが、彼女にとってはこれが初陣となる。不測の事態は防がねば……」
「揺籃? 誰です、それ──ああ、初陣ってことはもしかして、新人ですか?」
「………まさか、聞いていないのか?」
それまで淡々と事務的な説明をしていた伯爵から若干呆れたような視線が飛ぶが、アルヴィは気にする様子もなくへらりと笑みを浮かべた。
「仕事以外は部屋に引きこもってるもので。あそこは使用人宿舎棟でも一番の外れですし、用事以外で僕に話しかけるような物好きもいませんし」
「……相変わらずか。住居については、不便をかけてすまないな。本来君は、こんな扱いを受ける立場ではないのだが」
「今そんなことを仰るのは閣下だけですよ」
渋面を作る伯爵に対して、アルヴィはどこまでも平然としている。
「そりゃあ誰も僕なんて近くにいて欲しくないでしょう。隣近所の部屋の皆さんにはいい迷惑だと思いますけど、僕もさすがに雨風くらいは凌ぎたいので仕方ないですね」
「またそんなことを……いや、もういい。今回の任務が何事もなく達成されれば、君への見方も多少変わるだろう。住居を含む君の待遇改善要請も今度こそ通るかもしれん。もう少し待っていてくれ」
「僕は別に今のままでも問題ないんですが……うん? もしかして、ここ二年間は害虫か鼠駆除の任務ばかりだったのに急にこんな話が来たのって、そういう意図もあります?」
「ああ、その通りだ。セラ・フローライトの同行自体は上が決めたものだが、丁度良い機会だったので利用させてもらった。……しかし、害虫と鼠の駆除か。改めて言葉に出してみると酷いものだな。尊ばれるべき神子にさせる仕事ではない」
「今更じゃないですか、そんなこと」
気のない様子だが終始穏やかだったアルヴィの口の端が、初めて歪んだ。伯爵はそれを目にすると、静かに目を伏せる。
「家畜みたいに鞭で打たれないだけで十分です。──『死神』には、過ぎた幸せですよ」




