14. 彼の記憶【中】
「──それじゃ、僕はこれで。セラを見つけたら、もうすぐ夕食だって伝えておきます」
「ええ、お願い」
フランチェスカは短く返事をすると、背を向けて去っていくアルヴィの姿から西の地平線へ視線を移した。彼との会話の間に太陽はほとんど沈みきり、空と大地の境目にわずかに残照が灯る程度になっている。澄んだ茜色から徐々に深みを湛える紫色へと変わっていく暮空を静かに眺めていた彼女は、背後から微かに響いた足音に振り返った。
「あら、ハイウェル」
「そろそろ夕食の時間ですが、お姿が見えなかったので。そこでスピネル殿と会いまして、殿下の居場所を教えてもらいました」
歩み寄ってきたハイウェルは一礼してそう言った後、元来た方に顔を向けた。
「呼びに来てくれたのね、ありがとう。聞いたかもしれないけれど、セラの方はアルヴィが探しに行きましたわ」
「そのようですね。……北部の調査への同行について、彼は何と?」
「了承してくれましたわ。それと、後見のことも一緒に話してみたのですけれど……そちらの答えは保留にされてしまいました。一度持ち帰ってシャンドリ伯爵に相談するのですって」
「それは──少し、意外ですね。確かに伯爵は彼に対して親身になってくれる存在ですが、身分の関係でどうしても上層部からの圧力に逆らえない時がある。イグニス大公家の庇護下に入ればそういったことはほぼなくなりますし、二つ返事で快諾するものと思っていましたが」
「今までお世話になった伯爵に何も言わずに決めるのは不義理だと思ったのでしょう。まあ当の伯爵と我が家は以前からこのことについて話し合っていましたし、むしろ伯爵の方が乗り気でしたから、もう決まったようなものですけれど」
ふふ、と企み顔で笑みを零すフランチェスカに、ハイウェルはやれやれと言いたげな様子で苦笑した。
「でしたら、そのこともスピネル殿にお伝えしておいた方がよろしかったのでは? あなたもまったく、お人が悪い方だ」
「伯爵の意向なのですから、ご本人の口から直接説明した方がいいに決まっているじゃありませんの。……それにわたくし、アルヴィに対して一つ思うところがありますのよ。この程度の意趣返しくらい、大目に見ていただきたいものですわ」
「……思うところ、ですか?」
意表を突かれたハイウェルは珍しく一瞬言葉に詰まり、わずかに目を見開いた。王都を発ってから今日までの間、フランチェスカはアルヴィに対して常に友好的であり、意見が対立するような場面もなかったからだ。
自分が把握していないだけで何かあったのだろうか、と眉を顰めるハイウェルをよそに、フランチェスカはふいと視線を逸らすと拗ねたような口調で訴えた。
「だって、アルヴィときたら。王都を出立する朝に合流した時、わたくしに初めて会ったような態度で挨拶したのよ? 六年前に一度会っているのに」
「……はい?」
つん、と顎を反らせて子どものようにむくれてみせる公女の姿にハイウェルは呆気に取られ、一転して脱力した。
どうやら彼が案じていたような何らかの諍いなどではなく、フランチェスカの一方的な不満だったらしい。しかも六年前、ときた。アルヴィを擁護するわけではないが、それだけの年数が経っているなら覚えていなくても無理はないだろう。
「私も、お二人は初対面かと思っていたのですが……。面識がおありだったのですね。しかし、スピネル殿はそれを覚えていない、と」
「そのようですわ。わたくしを見ているうちに思い出すかもしれないと少しだけ期待していたのですけれど、いつまで経っても何も気がついた様子がありません。……確かに会ったのは一度だけですが、会話だってしましたのに」
「……六年前、というと。スピネル殿がレオナルド様の下へ引き取られた後のことですね。お会いしたのは、その関係で?」
いかにも不満です、といった表情から変わる気配のないフランチェスカを当たり障りのない言葉で宥めても埒が明かない気がしたハイウェルは、話の焦点を少しずらしてみることにした。この公女殿下は普段は自信と余裕に溢れた振る舞いで年相応以上の落ち着きぶりなのだが、親しい間柄の相手の前では時折悪戯っぽい言動をしたり、今回のように拗ねてみせたりすることがある。ハイウェルは彼女に仕え始めてからの三年間で、こういう時のあしらい方も自然と熟知していた。……魔法の腕前を買われてこの地位についたのに、なぜ全く関係のない方面の技量も徐々に上がってきているのか、甚だ疑問ではあるが。
そんなハイウェルの目論見通り、フランチェスカはアルヴィと出会った際の出来事へ意識を移したようだ。むくれ顔を引っ込めて思案気に目を伏せた彼女は、記憶を一つ一つ拾い上げるようにゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ええ……そうですわね。あれはわたくしが、大叔父様のお屋敷を訪ねた時のことなのですけれど──」
◆◇◆
今からおよそ六年前の、とある初夏の日。季節に合わせた軽やかなクリーム色のドレスに身を包んだ十三歳のフランチェスカ・イグニスは、大叔父であるレオナルドの屋敷へやって来た。
レオナルドと気の合う人間は親族の中でも少なかったが、フランチェスカはその希少な面々のうちの一人であった。迫力のある容貌と、気難しいと評されることの多い性格に大抵の子どもは萎縮してしまうのだが、フランチェスカは幼い頃から物怖じすることもなく彼に纏わりついていたので、それがきっかけになったのかもしれない。レオナルドは兄の孫である少女のことをまるで対等の友人であるかのように扱い、フランチェスカが訪ねてくるといつでも笑って歓迎してくれた。
しかしその日、彼女が大叔父の屋敷を訪れたのはかなり久しぶりのことであった。元々、戦闘向きの権能を持つ神子でもあったレオナルドは国境周辺の戦場や魔獣の討伐任務に駆り出されることが多く、同じ王都内に居を構えているとは言え日常的に会えるというわけでもなかった。加えてその頃にはフランチェスカの方も学業や、大公家の令嬢として徐々に本格化してきた社交界での活動などに忙しく、それまでと比べて自由に遊びに行ける時間が減っていたのだ。
フランチェスカが屋敷に招き入れられた時、レオナルドはまだ帰ってきていなかった。出先は遠方ではなく王宮だと事前に聞いてはいたが、どうやら予定が少し長引いているようだ。大叔父が来たら知らせるようにと使用人に言いつけた彼女は、大公家から連れてきた侍女を一人伴って庭園に足を向けた。暇つぶしという目的ももちろんあったが、しばらく見ることができていなかったその庭が無性に懐かしくなったのである。
夏の初めらしく明るい陽光と鮮やかな緑に包まれた庭園の様子は、記憶の中にあるものとそう大差はなかったが自然と気持ちが落ち着くような静けさに満ちており、フランチェスカの心を和ませてくれた。家主のレオナルドは華やかなものがあまり好きではないため花よりも木の方が多く、木立の間を細く縫うように続く小路を歩いていると、王都にいるというのに森の中へ迷い込んでしまったかのような錯覚に陥る。
しばらくの間微かな葉擦れのささめきと、鈴を転がしたような美しい小鳥の声を楽しみながら進んでいたフランチェスカだったが、ふと顔を上げた際、小路の先にあるガゼボの中の人影が目に入った。
「……ねえ、エマ。今日、わたくしたちの他にお客様がいらっしゃるのかしら?」
「ええと……、いえ、そのようなお話は伺っておりませんが」
斜め後ろに控える侍女──エマに尋ねたものの、彼女も首を傾げて不思議そうにしている。これが他の屋敷であれば主人の家族の誰か、というのが妥当な線だが、兄が継いだ大公家を離れて以来ずっと独身を貫いているレオナルドにそんなものはいない。使用人が掃除や設備の点検のために立ち入ることはもちろんあるだろうが、そういった作業で忙しく立ち働いている様子も見受けられなかった。
一体誰だろうかと疑問には思うものの、警備の行き届いたこの屋敷に不審者が忍び込むようなことはまずあり得ないと結論づけたフランチェスカは、ひとまずもう少し近づいてみることにした。万が一危険な人間だった場合のことも考えて、相手に気がつかれないよう音を立てずにそっと歩み寄っていく。
そうしてガゼボのすぐ手前、木立が途切れて開けてきた辺りまで来るとその人物の姿と、彼が今何をしているのかがはっきりと見えるようになった。
ガゼボの中、壁際に設えられたベンチに腰を下ろしていたのは、一人の少年だった。
フランチェスカとそう変わらない年頃に見える彼は華奢で線が細く、ともすると少女のようにも思えてしまう。少年だと断じたのはひとえに彼の装いからで、貴族の子息が日常的に身につけるような一式である。余程特殊な事情がなければ、令嬢がこのような格好をすることはまずないだろう。
やや俯けた横顔をこちらに見せている少年は、膝の上で開いた一冊の本に視線を向けている。時折ゆっくりと手を動かしてページを捲る以外ぴくりとも動かないその様は、表情のない顔と相まって造りものめいた雰囲気を漂わせていた。
(……どこかの家のご令息? でも、息子を連れて訪ねてくるようなご友人が大叔父様にいらっしゃるなんて、一度も聞いたことがないけれど……。わたくしがしばらくご無沙汰していた間に、新しくできたご友人なのかしら)
大公家に連なる神子という、上流階級の中でも特に高貴な身分であるレオナルドの屋敷に出入りできる立場の人間は限られているにも関わらず、全く見覚えのない顔であるということも気にかかる。そんなことを考えながらもう一歩踏み出されたフランチェスカの足が、落ちていた小枝を踏んで小さな、しかし静かな空間によく響く音が生まれた。
あ、と思う間もなく。枝の折れる音に反応した少年が肩を揺らし、こちらへ顔を向けた。わずかに見開かれたその特別な瞳を視認したフランチェスカは、思わず息を呑む。
澄んだ深い紅を彩る、黄金の光輪。神の愛を受けたその証が、彼女を真っ直ぐ見つめていた。




