15. 彼の記憶【後】
「──その瞳に気がついた瞬間、大叔父様が侯爵家から『彼岸』の神子を引き取られたことを思い出しましたの。それで、彼の名前もわかったのですわ」
話すうちに当時の光景がはっきりと浮かんできたのか、フランチェスカが小さく笑った。
「それにしても、ふふ、あの時のアルヴィはぽやぽやと無防備な雰囲気で、何だか可愛らしかったですわね。わたくしが名乗って、レオナルド・イグニスは大叔父だと教えてもきょとんとしていましたわ。わたくしが公女であると初めて知った人たちは皆、驚いて緊張するものですのに。まあ一般常識から学び直している最中だったようですから、無理もありませんが」
「ぽ、ぽやぽや……ですか」
ハイウェルは彼の中にあるアルヴィの印象から連想されるものとはほど遠い表現に、若干困惑しながら思わず復唱してしまった。指一本動かさずに数多の敵を殲滅する神子の姿と、フランチェスカが語る無垢そのものといった少年のイメージがどうしても結びつかない。
「その後は大叔父様が帰ってくるまで、少しお喋りをしましたわ。と言っても、ほとんどわたくしが話すのを彼が聞いているだけでしたけれど……。あの時のアルヴィは会話が嫌というよりは、自分の中にあるものを言葉として表に出すことに慣れていない、という感じがしました」
「はあ……。……しかし、それ以降は本当に一度もお会いしなかったのですか? ああ、いえ、スピネル殿の態度からして会わなかったのは事実なのでしょうが……その後レオナルド様のお屋敷に訪問した際は、どうされていたのです?」
「そうね、先ほども話した通りその頃は社交関係の催しに出席する機会も徐々に増えていたし、通常の学業に加えて本格的な魔法の勉強も始めていました。七年前の大戦より二年ほどの間は北西部の国境周辺が不穏な空気になることも多かったから、大叔父様もしょっちゅうそちらに駆り出されてお会いできる機会がますます減っていたの。それに……」
フランチェスカはそこで一瞬言い淀み、何やら恥ずかし気に目を泳がせて小さな声で続けた。
「──最初の頃は、彼に嫉妬していたのです」
「は……嫉妬、ですか? あなたが、スピネル殿に?」
「ええ。わたくしは幼い頃から大叔父様のことをとてもお慕いしていて、親族の中では自分こそがあの方と最も仲が良いと自負していました。ですから、恥ずかしい話だけれど、大叔父様と家族のように一緒に暮らしているアルヴィがどうしようもなく羨ましくて。その日偶然出会って以降はしばらく、積極的に会おうとはしませんでした。
大叔父様も、何となくそれを察されたのでしょうね。ご自身が人付き合いを苦手としていらしたので、他人にも避けたい相手と会うことを強要したりはしなかったのです」
「……驚きました。あなたにそんな可愛らしい一面がおありだったとは」
目を丸くしたハイウェルが、公女相手でなくとも大分失礼な本音をぽろりと零した。彼も彼でフランチェスカとの付き合いが長くなるにつれ段々と素が出てきてしまっているのだが、本人はまだそのことを自覚していない。
その友人間で交わされるような軽口は、大抵の貴族であれば無礼千万と憤慨するところだ。しかし当のフランチェスカは特に腹を立てる様子もなく、同じくらいに軽い抗議だけでそれを受け流した。
「もう、その言い方は何です? まるで普段のわたくしに可愛げがないみたいじゃありませんの。
……まあ、それは置いておいて。とにかくそういうことで、アルヴィとはその後顔を合わせる機会がなかったのです。何年か経つとわたくしのつまらない嫉妬心も薄くなっていったのですけれど、散々避けていた手前、もう一度会ってみたいなんて言い出しづらくて」
「それでスピネル殿の方は初対面という態度になったわけですか。しかしそれだけの年月が経っていれば、一度出会っただけの相手を覚えていないのも無理はないかと」
「ずっと意識し続けていたのはわたくしだけだった、ということですわね。……何だか余計に悔しくなってきましたわ」
再び子どものような顔で口を尖らせたフランチェスカだが、ふと悪戯っぽい微笑みを浮かべてハイウェルの方を見やった。
「それにしても。あなたもこの一週間ほどで、アルヴィに対して随分気安くなったんじゃありません? ──最初はかなり身構えていたでしょう」
突然の話題変更、それも自身の心情に対して真っ直ぐ踏み込んでこられたハイウェルは言葉に詰まり、思わず目を逸らした。そんな彼を気にする様子もなく、フランチェスカは楽し気な口調で続ける。
「アルヴィが我が家の下に来れば、わたくしの副官であるあなたと関わる機会も当然増えます。彼は他人から怖がられたり嫌な目で見られてしまうことも多いけれど、あなたは彼と思った以上に仲良くなれたようで安心しましたわ、ハイウェル」
「……仲が良い、というほどでは。ただ、むやみやたらと恐れ、遠ざける相手ではないと認識を改めただけです」
「あら。最初はあなたもアルヴィのことが怖かったの?」
「それは──……、……はい。正直に申し上げるなら、そうですね」
「いつも思うのだけれど、どうして皆彼のことだけそんなに恐ろしく感じるのかしら。わたくしたち魔導士だって、似たようなことができる力を持っているのに」
フランチェスカは心底理解できないという顔で眉を寄せるが、ハイウェルはただ静かに首を振った。
「殿下、それは違います。彼と我々魔導士はけっして同列の存在ではありません。
確かに訓練を積んだ魔導士であれば、広範囲型の攻撃魔法で以て彼のように多数の敵を一撃で葬り去ることができるでしょう。……しかし、それは防ぐことも不可能ではない類のものです。火炎魔法で焼き払うにしろ、多重展開した『穿光』魔法による弾幕を張るにしろ……そこには他者が見ても理解できる仕組みがある。火炎魔法に対しては水魔法を放てば相殺できるし、多数の攻撃魔法が飛んでくるならそれに応じた範囲の結界魔法で対抗すればいい。魔法は理不尽な天災ではなく、人間が操ることのできる道具の範疇にあるのです。
──彼の力は、それとは全く異なっている」
「……アルヴィを選んだ女神の権能。その神域に存在する命に対し、遍く死をもたらすことができる力、だったかしら」
「ええ、その通りです。範囲内にいる生き物を無差別に殺してしまうわけではなく、彼自身の意思で対象を選別できるようですが。……それでも。彼の気まぐれ一つで殺される可能性も否定できない上に、それを防ぐ手段もないとすれば──人々が彼に恐怖心を抱くのも、至極当然のことです」
アルヴィ・スピネルが彼の女神から与えられた、『死を与える』権能。それは一言で表現してしまえるほど単純な能力だが、同時にこれ以上なく強力、かつ恐ろしい力でもある。
彼が権能を振るう際、その場には神気の侵蝕によって小規模の神域が形成される。咲き乱れる深紅の花々は実物ではなく、神気によって形作られた幻のようなものであり、一時的に顕現した神域そのもの。そして神域とは言うなれば神の手のひらの上であるからして、そこに存在するあらゆる命の生死は死の女神……ひいてはアルヴィの思うがままとなる。
刃も、毒も、魔法もなく。命を奪う手段として挙げられるあらゆる手を一切使わずに、意思だけでそこにいる存在を殲滅する。その力は『死』という概念そのものであり、人間がその原理を紐解くことなどできはしない。
だからこそ人々は皆、アルヴィを──死を司る神を忌避する。人間という生き物が最も恐れるのは、自分たちが『理解できない』ものだからだ。
「あなたの言いたいことは理解しましたわ。……それでもやはり、納得はいきませんけれど。アルヴィはけっして無差別に人を殺して回るような人間ではありませんし、その力をきちんと自分の制御下に置いています。いつ噛みつくかわからない狂犬のように扱われるのは、間違っていますわ」
ハイウェルの説明を正しく理解しつつも、フランチェスカはそう言って野営地の方を睨むように見やった。
「アルヴィもアルヴィで、何を言われても否定せずに流してしまうのは考えものです。やり返せとまでは言いませんけれど、もっと自分を大切にしてほしいと思うのですわ」
「それが彼なりの処世術なのかもしれません。この旅の間に彼があなたやセラ様と接する様子を見ていましたが、私が当初持っていた印象とは違いごく普通の青年のようでした。……いえ、セラ様とのやり取りから考えると、むしろ少し押しが弱い方かもしれませんね……。
……話が逸れました。それはさておき、彼が本当にそんな穏やかな性質の人間だったなら、あれだけ長く他人の悪意に晒され続ければ、立ち向かう気力をなくしてしまってもおかしくはないでしょう」
ハイウェルは淡々と、しかし微かに憐れむような色が滲む声音でそう返す。フランチェスカのようにあからさまに肩入れする気はないが、何日も寝食を共にし言葉を交わすうち、アルヴィを恐るべき神子ではなく一人の人間として受け入れつつあることは否定できなかった。
気がつけば辺りは宵闇に包まれ、西の空にわずかに残っていた茜色も消え失せていた。あちらこちらに灯った篝火に照らされる天幕の間を縫って、食欲を誘う香りが漂ってくる。フランチェスカは思いの外話し込んでしまったことに気がついて苦笑し、野営地の方へ向き直った。
「そろそろ戻りましょうか。あまり待たせると、セラが空腹に耐えかねて寝てしまうかもしれません」
「はい。──……ん? ……いえ、空腹だと寝るとは、一体どういうことです?」
「いつだったかセラが、『お腹が空きすぎた時は、寝てしまえば全然気にならなくなるのでおすすめです!』と言っていましたの。……でも別の時には、『ごはんの匂いがすると、自然と目が覚めちゃうんですよね』とも言っていましたわね。今はそこら中から美味しそうな香りがしますけれど、この場合はどちらが勝つのかしら。難問ですわ」
「……以前から思っていたのですが、セラ様についての話題は食べ物関連の内容が多すぎませんか……?」
微妙な表情でそう呟いたハイウェルに、フランチェスカが明るい笑い声を零す。二人はそのまま取り留めのない話を続けながらも、揺らめく灯りの集まる方を目指して足早に歩いて行った。




