11. 暗雲【前】
ウォーテル王国西部一帯を占めるランキン辺境伯領。その北隣にはもう一つ、やや小さめの辺境伯領がある。
治める領主の名は、フォーウッド辺境伯という。建国当時から長く王家に仕えてきた、由緒ある家柄である。
そのフォーウッド辺境伯領の北東側は山脈と接しており、これが実質的に国境のような役割を果たしている。ランキン辺境伯領西端に接する森と同様にやはり魔獣が出現する未開の地ではあるが、それがかえって天然の要塞となって北の隣国からの侵攻を阻んできたという実績がある。
一方北西側の国境付近は特に障害物のない平地で、所々に湿地帯はあるものの通行の妨げとなるほどではない。よって必然的にこの北西部は、ウォーテル王国を我が物にせんとするもう一つの隣国との衝突の舞台として歴史を紡いできた。
そんな、ウォーテル王国にとっては因縁の相手とも言える北西の大国──ビスタ帝国。その中心である帝都の一角に、とある貴族家の屋敷があった。
広大な敷地には年経た木々が多く植えられており、濃い緑に包まれるその様は庭園というよりは小さな森に近い様相で、都会的で華やかな雰囲気の強い帝都においては少し浮いた印象がある。
正門から一歩中へ踏み込めば往来の騒めきが自然と遠のき、ある種の聖域にも似た深閑とした空気の中を進んで行くと、やがて木陰に抱かれるようにして鎮座する屋敷が見えてくる。外観だけでなくその中に満ちる気配さえも積み重ねた時間をありありと感じさせる旧家の一室に、とある男の姿があった。
歳の頃はまだ若いと見受けられるが、榛色の瞳を持つ目元に漂う険しさは長きに渡る苦しみに耐えてきた者特有のそれであり、外見に似合わない老成した印象がある。そして、その理由を物語るかのように──彼の右肩から先、腕があるはずの場所にはただ形のない空白だけが存在していた。
やや無造作な癖がついた砂色の髪や、くたびれて微かに埃っぽい質感になってしまっている旅装から、隻腕の彼がどこか遠い場所からここへやって来たばかりということが推測できた。しかし彼は、長旅の後であるならば蓄積しているであろう疲労を訴えることもなく、部屋に敷かれた豪奢な絨毯の上で静かに跪いている。そして、目を伏せたまま訥々と語り始めた。
「……申し訳ございません。ウォーテル西部での侵攻作戦は、先に急ぎご報告した通り失敗に終わりました。
想定外の要素があったことは事実。ですが、敗北を喫することになったのはこの私の不徳の致すところでしかありません。何卒、罰を」
何者かに向かい、そう恭しく言葉を差し出す男。一見したところ薄暗い室内には彼の他に誰もいないようであり、奇妙な独り言のようにも思えてしまう状況であった。……しかし、一拍の後。
「──あなただけの失態ではないわ。イアン」
ほとんどの窓が閉め切られ、カーテンの隙間からわずかに差し込む光から逃れるように暗闇が蟠る、部屋の最奥。そこから、女の声が返ってきた。
成熟した女性の、落ち着いた声だった。だが同時にどこかあどけない甘さも仄かに纏う響きは、誰もが思わず聴き惚れてしまうほど艶やかで魅惑的だ。
「作戦内容に対して最終決定を下したのは、わたくし自身。だから、この敗北の責任はわたくしにもあるの。あなた一人を罰しても意味などないわ」
「……あなた様の慈悲深き御心に、感謝を。しかし、上に何と報告すれば」
「あら、心配する必要はないのよ。どうせ何も言ってこないわ……みんな、ご自分のちっぽけな命が惜しいのだもの」
女はそう言って、上品に抑えた笑い声を零す。あくまで控えめで柔和なその声音は淑女然としているものの、彼女の言う『みんな』に対する隠しきれない侮蔑の色が端々から滲んでいる。
姿の見えない彼女はひとしきり嗤った後、突然その声をふつりと途切れさせ、男──イアンに問いかけた。
「それで? 『想定外の要素』と、あなたは言ったわね。いくつかはわたくしにも何となく思いつくけれど、具体的には何があったのかしら」
「はい。……まず、ランキン辺境伯領軍の練度は予想以上のものでした。魔獣のスタンピードに見せかけることで領軍を呼び寄せる、そこまでは順調だった。しかし、相手がただのスタンピードだと油断しているうちに短期で全滅させ、イェダ村を拠点に西部を攻略していく予定でしたが……。約二週間かけても削り切ることができず、最終的に王都からの増援を許してしまいました」
「さすがは建国当初から魔獣に対する盾として在り続けてきた辺境伯家、といったところね。わたくしたちも甘く見ていたわけではない……でも結局、こうして直に触れてみないと本当の強さなんてわからないもの。残念だけれど、仕方ないわ」
彼女は然程気に病んでいない様子でそう切り捨てたが、イアンは苦々しげに眉を顰めてまた少し顔を俯ける。
「時間をかけすぎた結果としてこちらの魔獣の損耗も思った以上に大きく、補助程度に必要最低限だけ戦闘させる予定だったものたちまで、あちら側の目にさらされる事態を招きました。あれらはイェダ村近辺には棲息していない種や、そもそも森以外の場所に棲息している種などの寄せ集めです。知識のある者が見れば、ただのスタンピードではないと容易に気がついたはず」
「そうね。でも、まさか人為的な侵攻だなんて、たったそれだけの情報で勘づく人間がいるかしら?」
「裏に我々がいるとまでは思わないでしょう。ですが北部に棲息するはずの魔獣がいるとなれば、自然とその方角……ひいては国境付近の動きに目が向いてもおかしくはない。探られる前に二番めの侵攻作戦を進めるべきです」
「そう、あなたがそう思うのだったら、異論はありません。では、既にそちらに待機させている子たちに指示を出してきて頂戴。戻ってきたばかりで申し訳ないけれど」
「は、直ちに。……それと」
淀みなく進言を続けていたイアンが、ふと言葉を切る。今考えていることを口に出すのを躊躇うように唇を引き結ぶ彼を、女は柔らかい声で促した。
「どうしたの。 まだ何かあって?」
「……はい。その……これは使い魔越しで確認したことで、私自身が直接この目で見たわけではない、のですが……」
イアンはしばしの間言葉を選ぶように視線を彷徨わせたが、やがて意を決したように顔を上げ、女が潜む暗闇を真っ直ぐ見据えて告げた。
「此度の敗北の、大きな要因として。王都からの増援軍の中に──『ウォーテルの悪魔』がおりました」
瞬間。
彼の声の、最後の余韻が消えるか消えないか、その刹那。
何か、巨大なものを引きずるような音がした。
それは低く、重々しく。聞く者に、闇の中で息づく未知への恐怖を生々しく思い起こさせる、警鐘にも似ている。
そして。
「──アレが、いたの?」
異様な音に一拍遅れて響いた女の声もまた、先ほどまでの穏やかさとは打って変わって異様な雰囲気へと一変していた。
上擦ったその声音は、ともすると喜びに満ちているようにも聞こえる。しかしその場に居合わせた者ならば否が応でも、そこから滴る濃密な憎悪を感じ取っただろう。明るく弾むような調子と相反する澱んだ殺意が混ざり合う様は、彼女の中に潜む底知れない狂気の一端が溢れ出たかのようであった。
不穏な気配をそのままに、女はやはり口調だけは愉しげな様子で続ける。
「そう。来たのね、アレが。まさか、こんなに早く……。国境の方にも来るかしら」
「それはまだ、何とも。今回の戦いに駆り出されたことを鑑みると、少なくとも同規模以上になる次の侵攻に対しても、派遣されて来る可能性は十分にありますが……」
「ふふ。それなら絶対に来ていただけるように、はりきっておもてなしの準備をしましょう? ──計画を少しだけ変えます。わたくしもそちらに行くわ」
「……っ、危険です。私は賛成できません」
イアンは自分の報告に対して彼女がどんな反応をするのかを予期していたらしく、驚きはしなかった。だが苦渋に満ちた表情と声には、女の身を案ずるが故の焦燥が浮かんでいる。
「もう決めたの。計画していた時期よりずっと早いけれど、ここで仕留めておいてもけっして悪いようにはならない。わたくしはそう思います」
「ですが、まだ奴が来るという確証はありません。ここで御身を軽々に敵の目に晒してしまうことで、もし万が一のことがあれば──」
「まあ、イアン。まさかあなた、わたくしが負けるとでも? 女神の愛娘である、このわたくしが?」
「そうは申し上げておりません。ただ、一切の危険もあなたに近寄らせたくはない。それだけです」
「……相変わらず、優しいのね。あなたは」
女の気配が一瞬、ふっと我に返ったかのように温かさを取り戻した。その姿は相変わらず室内の影に沈んでおり見ることはできないが、もしかしたら微笑みさえも浮かべていたかもしれない。
しかし。
「ああ──でも。でもね、イアン、優しいあなた。やっぱり、どうしても駄目。わたくしは、行かなくては。
わたくしが軍人であったなら。知謀に長け、怜悧な頭脳を持った司令官であるのなら。あなたの言うことは、全て正しい。最後の最後、どうしようもなく追い詰められてしまうその時まで、わたくしは最も安全な場所で守られていなくてはならない。心臓が生き続ける限り、どれだけ手足を捥がれても息を吹き返すことができるのだから。
けれど、わたくしはそうではない。ここにいるのは、恨みのあまりおかしくなってしまった、一人の女。この戦いは元より、侵略戦争などではなく……ただの、ありふれた復讐なのよ」
どれだけ冷静に見えようと。どれだけ穏和で、慈しみ深い人間に見えようとも。
彼女の内にはもはや、昏い熱をはらむ憤怒しか残っていなかったのだ。
「……承知、いたしました。全て、あなたの仰せのままに」
イアンはついに諦めたように目を伏せ、そう答えた。跪いたまま深々と礼を執る彼の顔にかかる影が濃くなり、その表情を窺い知ることはできない。
黙り込んだ彼をよそに、女は再び嗤い声を上げた。愛情に唾を吐きかけ、絶望を悦ぶかのような、そんな声を。
いつの間にか窓から差し込む陽射しは翳り、闇が深くなっていく。そのただ中で──黄金に縁取られた冷たい緑青が、獰猛に煌めいていた。




