第七十三話 いってきます
朝
円は静かに目を覚ました
窓の外は
よく晴れている
「今日なんだね」
誰に言うでもなく
小さく呟いた
部屋の隅には
小さな旅行用バッグが置かれていた
荷物は多くない
着替えが少し
思い出の写真が一枚
それだけだった
――――
リビングへ入ると
家族みんなが揃っていた
父は新聞を読み
母は朝食を並べている
息子はコーヒーを飲み
義娘は椿綺を抱いていた
いつもと変わらない朝
だからこそ
円は少しだけ安心した
「おはよう」
「おはよう」
いつもの挨拶が返ってくる
誰も泣いていない
誰も無理に笑っていない
それが
円には嬉しかった
――――
朝食を終えると
母が小さな紙袋を差し出した
「これ」
「浩ちゃんに持っていって」
円が中を見る
浩平の好きだった飴が入っていた
思わず笑ってしまう
「まだ好きかな」
母も笑う
「きっと好きよ」
「昔から変わらないもの」
――――
息子が立ち上がる
「母さん」
「親父によろしく」
「あと」
「元気そうなら安心だから」
円は静かに頷く
「うん」
「ちゃんと伝える」
義娘も微笑む
「お父さんに会ったら」
「椿綺の写真を見せてあげてください」
「きっと喜びます」
円は写真を大事そうにバッグへしまった
――――
父がゆっくり立ち上がる
「円」
「笑って行け」
「浩平が一番安心するのは」
「お前の笑顔だからな」
円は目に涙を浮かべながら
何度も頷いた
「ありがとう」
「お父さん」
――――
玄関
円は靴を履く
バッグを肩へ掛ける
ドアノブへ手を伸ばした時
一度だけ振り返った
そこには
家族みんなが立っていた
父
母
息子
義娘
そして椿綺
全員が
優しく微笑んでいる
円も笑った
「行ってきます」
その言葉に
みんなが笑顔で答える
「いってらっしゃい」
玄関の扉が静かに閉まる
その瞬間
柔らかな風が吹き抜けた
円は空を見上げる
青く澄んだ空の向こうで
浩平が待っている
そんな気がして
自然と歩き出した




