第2話 フォレンジック・ブルーの狂執③
男は、画面を閉じなかった。
LOG:青い飴を確認。
その一行を見た瞬間、エマの肩から少しだけ力が抜けた。
伝わった。
そう思いたかった。
少なくとも、青い飴の意味を知っている誰かが、画面の向こうにいる。
その誰かが、自分の言葉だと受け取った。
それだけで、ほんの少しだけ息ができた。
けれど、男は安心していなかった。
青白い車載PCの上で、投稿の流れはまだ続いている。
ミナト:無事ってことでいいの?
ねむり猫:でもアカウント違うよね
しおり:場所探すのはやめよう
こむぎ:近い人も行かない方がいい
からす丸:男は誰なんだよ
夜更かし羊:警察には言った方がいい
LOG:現在地を探すな。推測も書くな。
男の左目が、その一行で止まった。
「……やっぱり近いな。」
「止めてくれてるんだよ。」
「止められる位置にいる。そこが問題だ。」
エマは言い返せなかった。
LOGは、いつも配信を見ている人だった。
少し怖いくらい、こちらの言葉を拾う人だった。
でも、今の男の言い方を聞くと、その“いつも”が急に別のものに見えてくる。
画面の向こうにいた人たちが、急に現実の距離を持ちはじめる。
「……これで、少しは止まったんでしょ。」
「流れは変わった。」
「じゃあ、」
「安全になったわけじゃない。」
男は、画面を切り替えた。
いくつもの窓が、青白い光の中で入れ替わる。
文字の流れ。地図。どこかの映像。
エマには、何をどう見ているのか分からない。
ただ、男が目を離していないことだけは分かった。
「まだ帰れないの?」
その言葉は、思ったより弱く出た。
帰りたい。
けれど、外に出たいと言い切るには、もう怖すぎた。
男は画面から目を離さない。
「まだだ。」
「何を待ってるの?」
「時間」
「時間って何?」
「現地に向かう奴が残るか。お前の場所を探る奴が出るか。警察の線がここまで来るか。あの家にいたものが動くか。」
「あの家にいたものって……犯人?」
「分からない」
「分からないのに待つの?」
「分からないから待つ。」
返事は平坦だった。
エマは奥歯を噛んだ。
「私、荷物じゃないんだけど」
「知ってる。」
「知っててそれ?」
「知ってるから、今は出さない。」
腹が立った。
でも、ドアを開けて外へ出る想像をした瞬間、怒りの奥に別のものが沈んだ。
この車の中も怖い。外も怖い。
どちらを選んでも、自分だけでは立てない気がした。
それが、いちばん悔しかった。
高架の上を、大型車が通過する。
低い振動が、コンクリートを伝って車体の底を震わせた。その振動が途切れるたび、車内はまた深い静けさに戻る。
銀色の遮断バッグは、後部の防水シートの端に置かれていた。
そこに、自分のスマホがある。
分かっているのに、エマは手を伸ばさなかった。
開けたい。
でも、開けたくない。
開けた瞬間、自分の名前も、視聴者も、警察も、あの家も、全部が一斉に戻ってくる気がした。
エマは袋から目を逸らした。
◇
一時を過ぎたころ、投稿の勢いは少しだけ落ちたように見えた。
消えたわけではない。
ミナト:警察にはちゃんと話した方がいい
しおり:場所探すのやめよう
こむぎ:現地行くのは危ないって
匿名考察班:世田谷だけじゃ広すぎる
からす丸:男の声が気になる
それでも、「行く」と言い張る文字は、さっきより少なく見えた。
男は、画面の端に流れる言葉を眺めながら、ときどき短く何かを打ち込む。
エマには、その意味は分からない。
画面を見ている。眺めているのではない。
何かを待っている。
追ってくるものなのか。警察なのか。犯人なのか。
それとも、男にしか見えていない何かなのか。
エマには分からない。
「ねえ、」
声を出すと、自分でも驚くほど掠れていた。
「なんで、あそこにいたの?」
男の指が、ほんの少し止まった。
「逃げ切る気はないって言った。確認したいことがあるって言った。だったら、それくらい教えてよ。」
高架の上で、またトラックが通る。
振動が消えてから、男は言った。
「追っていた。」
「何を?」
「二十年以上前の未解決事件。」
エマは眉を寄せた。
「未解決事件?」
「あの家で、同じ形の事件が起きる可能性があった」
「同じ形って何?」
「今は言えない」
「またそれ?」
「知る順番を間違えるな」
エマは黙った。
意味は分からない。けれど、男の言葉は、言い逃れには聞こえなかった。
答えを隠している。
でも、隠すためだけに黙っているわけではない。
何かを混ぜないために、言葉を削っている。
そんなふうにも見えた。
「じゃあ、私は何を見たの」
男はすぐには答えなかった。
車載PCの光が、その左目だけを照らしている。
「お前が見たのは、血まみれの俺と、開いた玄関と、暗い道だけだ。」
「それだけ?」
「今はな。」
「それだけじゃ、何も分からない。」
「分からないまま残せ」
「残す?」
「勝手に埋めるな」
冷たい言い方だった。
でも、その言葉だけは、なぜか胸の奥に引っかかった。
分からないまま残す。
エマが配信でいつも嫌っていたことだった。
分からないものを、面白がって埋める。
見ていないものを、見たように話す。
それを、考察と呼ぶ。
自分も、さっきまで同じことをしていたのかもしれない。
この男を犯人だと決めつけた。
いや、決めつけたくなるだけのものは見た。
血まみれだった。
あの家から出てきた。
自分を車に乗せた。
スマホを遮断した。
それでも、自分は家の中を見ていない。
その事実だけが、嫌になるくらい重かった。
◇
二時を過ぎた。
三時を過ぎた。
高架の上を走る車の音は、一度少なくなり、また少しずつ増えはじめた。
車内の空気は冷えていた。
エンジンは切られていない。
低い振動はずっと足元にあった。
二人とも眠らなかった。
エマは、眠れるはずがなかった。
目を閉じると、暗い玄関が浮かぶ。
血の匂い。
男の手。
画面に流れるコメント。
青い飴。
LOGの一行。
どれも消えない。
男も、眠らなかった。
眠気に耐えているようには見えない。
それが逆に不気味だった。
画面を見て、何かを確認し、短く記録する。
ときどき指を止める。
また別の窓を開く。
逃げている人間のはずなのに、逃げることに集中していない。
隠れている人間のはずなのに、隠れることを目的にしていない。
待っている。
捕まらないためではなく、捕まる前に何かを見るために。
その違いが、エマにはまだ分からなかった。
四時を過ぎたころ、画面の端が、わずかに青くなった。
夜が薄くなっている。
エマはそれを見て、初めて朝が近いことを知った。
この場所がどこなのか、まだ分からない。
ただ、ここに来るまでの途中、どこかで大きな橋を渡った。
窓の端に、黒い川面が一瞬だけ見えた。
その先から、エマの知っている東京の住宅街は途切れた気がした。
それが本当に多摩川だったのか、疲れた頭が勝手に結びつけただけなのか、エマには分からなかった。
画面の中の投稿は、まだ動いている。
けれど、熱は落ちていた。
現地へ向かおうとしていた人間は、ほとんど見えなくなっているように見えた。
代わりに、心配と疑いと憶測だけが、低く残っていた。
男は、開いていた窓を一つずつ閉じていった。
青白い光が、少しずつ消えていく。
車内が急に暗くなった。
「行くぞ。」
男は言った。
エマは顔を上げた。
「どこに?」
「人目のある場所。」
「……帰してくれるの?」
「外に出せる最低線は越えた。」
「最低線?」
「追跡はない。接触もない。お前の場所も割れていない。現地に向かう流れも鈍った。」
「じゃあ、安全なの?」
「違う。」
男は短く言った。
「今すぐ消しに来る線が低いだけだ。」
エマの喉が詰まった。
安全ではない。でも、出される。
その言い方が、さっきまでの男と同じだった。
冷たくて、足りなくて、こちらに最後の判断だけを押し戻してくる。
「それで、帰れって?」
「これ以上乗せれば、別の線が太くなる。」
「また線」
「お前は現場の外にいた人間だ。俺に連れ去られた人間でもある。だが、このまま朝を越えれば、俺と逃げた人間になる。」
エマの胸に、冷たい怒りが走った。
「勝手に連れてきたのは、そっちでしょ。」
「そうだ。だから切る。」
男は運転席へ移った。
仕切りの向こうで、シートが軋む音がする。
ハイエースが、ゆっくりと動き出した。
◇
外は、まだ完全な朝ではなかった。
薄い灰色の空の下を、ハイエースは静かに走った。
エマは助手席に戻されていた。
窓の外に、知らない街が流れていく。
店のシャッター。歩道橋。始発へ向かう人影。コンビニの明かり。
川の匂いが、どこかに残っている。
エマは何も言わなかった。
男も、何も言わなかった。
聞きたいことはあった。
未解決事件とは何なのか。
同じ形とは何なのか。
あの家で誰が死んだのか。
この人は、何を見たのか。
その言葉が、頭の中に浮かんでから、エマは少しだけ戸惑った。
男。
血まみれの男。
自分を車に乗せた男。
それだけだったはずなのに、夜を越えるうちに、ただの“男”ではなくなっている。
信じたわけではない。
怖くなくなったわけでもない。
それでも、この人は何を見たのか、と思ってしまった。
それが、腹立たしかった。
今聞けば、また言われる気がした。
知る順番を間違えるな。
その言葉が、なぜこんなに残るのか、自分でも分からなかった。
ハイエースは、駅前の大きな通りには深く入らなかった。
少し外れた道で速度を落とす。
それでも、人はいた。
コンビニへ入る作業服の男。
駅へ向かう会社員。
タクシー乗り場へ歩いていく年配の女性。
建物の向こうに、登戸駅の表示が見えた。
男は、駅前から少し外れた通りに車を停めた。
「ここで降りろ。」
エマはすぐには動けなかった。
後部に置かれた銀色の袋を見る。
「スマホは?」
男はそれを取り、エマへ差し出した。
「返す。」
エマは両手で受け取った。
軽いはずなのに、異様に重い。
「開けていいの?」
「今すぐはやめろ。」
「また?」
「人のいる場所に入ってからだ。開けるなら自分で決めろ。ただし、配信はするな。写真も動画も上げるな。場所も書くな。」
「命令?」
「条件だ。」
「同じでしょ。」
「違う。守るかどうかは、お前が決める。」
最後だけ、こちらへ投げてくる。
その言い方が、いちばん腹立たしかった。
「警察に行くなら行け。」
男は言った。
エマは顔を上げる。
「止めないの?」
「止める権利はない。」
「じゃあ、あんたのことも話す。」
「話せ。見たことならな。」
「……本気で言ってる?」
「見たことなら。」
「じゃあ、見てないことは?」
「足すな。」
エマは唇を噛んだ。
「それだけじゃ、何も説明できない。」
「説明できないままでいい。」
「よくないでしょ。」
「信じさせるために、見ていないものを混ぜるな。」
車内に、短い沈黙が落ちた。
エマはドアに手をかけた。
「私は、見てないことまで言わない。」
男は何も言わない。
「でも、分からないものを、なかったことにはしない。」
男の左目が、ほんの少しだけエマを見た。
返事はなかった。
エマは車を降りた。
朝の空気が、体に触れる。
高架下の冷えとは違う、街が起きる直前の湿った空気だった。
ドアが閉まる。
ハイエースは、すぐには動かなかった。
エマが数歩離れ、コンビニの明かりが届く場所まで歩いたところで、ようやく静かに発進した。
窓のない灰色の車体が、朝の道に紛れていく。
エマは追わなかった。追えるはずもなかった。遮断バッグを抱えたまま、駅前ロータリーの端にあるベンチへ向かう。
始発の時間を過ぎた駅には、少しずつ人が増えていた。
誰もエマを見ていない。
けれど、完全な一人でもなかった。
エマはベンチに座った。
警察に行くべきなのか。
家に帰るべきなのか。
スマホを開けるべきなのか。
答えはひとつも出なかった。
ただ一つだけ、分かっていた。
このまま何も知らずに帰ることは、もうできない。
エマは銀色の袋を抱え直した。
まだ、開けない。




