第2話フォレンジック・ブルーの狂執②
ハイエースは、住宅街の細い道を縫うように走り続けた。
エマは助手席で、膝の上に置いた右手首を握っていた。何度拭いても落ちきらなかった血の跡が、皮膚の皺に薄く残っている。
車内は静かだった。
聞こえるのは、エンジンの低い唸りと、アスファルトを踏むタイヤの音だけ。外ではまだ、どこか遠くでサイレンが鳴っている気がした。けれど、それが現実の音なのか、耳の奥に残った記憶なのか、エマにはもう分からなかった。
車は一度も大通りに出なかった。
駅前へ続く明るい交差点も、コンビニの駐車場も、赤信号の多い幹線道路も避けている。細い生活道路に入り、すぐに曲がり、また別の路地へ抜ける。
逃げている。
それだけは、エマにも分かった。
「……どこ行くの?」
返事はすぐにはなかった。
アラタは前だけを見ている。長い前髪に右目は隠れ、青白い計器の光が、残された左目だけを冷たく照らしていた。
「ねえ」
「一度、車を止められる場所。」
「隠れるってこと?」
「隠れ続ける場所じゃない。」
「じゃあ何?」
「時間を作る。」
「時間?」
「警察はすぐに現場の外へ線を伸ばす。聞き込み、防犯カメラ、通報履歴、車の通過記録、お前の配信。遅かれ早かれ、この車にも辿り着く。」
「じゃあ逃げても無駄じゃん。」
「逃げ切れるとは思ってない。」
あまりに平然とした声だった。
エマは息を呑む。
「じゃあ、なんで逃げてるの?」
「今捕まれば、何も確認できない。」
「確認って、何を?」
「俺が見たものと、警察が見るものが同じかどうか。」
「……何それ意味分かんない。」
「今はそれでいい。」
また、それだった。
エマは窓の外を見た。
住宅街が途切れ、道路の幅が少しずつ広がっていく。けれどアラタは、明るい幹線道路には出ない。大型車が通る高架の影を選ぶように、車を滑り込ませていく。
頭上から、トラックの走行音が降ってきた。
低い振動が、コンクリートと鉄骨を伝って車体を震わせる。ハイエースは工業道路沿いの高架下へ入り込み、オレンジ色の街灯が途切れる柱の陰で静かに速度を落とした。
アラタは車を停めた。
けれど、エンジンは切らなかった。
低い振動だけが、足元からじっと伝わってくる。
「……ここで帰っていいの?」
「まだ無理だ。」
「じゃあ何のために止まったの?」
「状況を見る。」
「私をいつまで連れ回す気?」
アラタはすぐには答えなかった。
高架の上を、大型トラックが通過する。車体の天井が鈍く震えた。
「お前が警察に行っても、俺が犯人にならない材料が揃ったら。」
「自分のためじゃん。」
「そうだ。」
エマの胸に怒りが走った。
「最低。」
「それと、」
アラタの声が、少しだけ低くなった。
「お前を一人で外に出しても、消されないと言える材料が揃ったら。」
エマはドアノブに触れたまま固まった。
「……私を心配してるの? 疑ってるの?」
「両方だ。」
返事は短かった。
あまりに短くて、逆に嘘には聞こえなかった。
エマはドアノブから手を離した。悔しさで奥歯を噛む。
高架下の薄暗い光が、フロントガラスを鈍く染めていた。
沈黙が落ちる。
その沈黙の中で、エマはふいに、さっきスマホに積み重なっていた通知を思い出した。
――エマちゃん?
――今の男誰?
――警察呼んだ方がよくない?
――紫乃エマの配信、落ちた?
手首が、じんと痛んだ。
自分が何も言わない間に、画面の向こうでは騒ぎが膨らみ続けている。心配してくれている人がいる。面白がっている人もいる。正義感で動こうとする人もいる。
エマは顔を上げた。
「無事だって言わせて。」
「駄目だ。」
「このままじゃ、みんな本当に騒ぐ。」
「もう騒いでる。」
「そういうことじゃない。誰かが現地に行くかもしれない。」
アラタの指が止まった。
「現地?」
「いるんだよ、そういう人。心配して来ようとする人も、面白半分で探す人も。私が何も言わなかったら、どんどん勝手に動く。」
アラタは運転席の後ろの仕切りへ手を伸ばした。
小窓を覆う遮光カーテンがわずかに揺れ、その脇で、後部へ続くスライドドアが横に滑る。
アラタは後部へ移り、壁面に埋め込まれた車載PCを起こした。
青白い画面に、SNSの投稿が時系列で流れ始めた。アラタは通知欄で見た名前を入力した。
紫乃エマ。
ミナト:エマちゃん、これ本当に事件じゃない?
ねむり猫:警察に相談した
匿名考察班:通報したけど場所聞かれて詰んだ
しおり:さっき世田谷って言ってたよね?
こむぎ:近い人、見に行けない?
夜更かし羊:録画してる人いない?
しおり:最後、なんか建物っぽいの映ってなかった?
ミナト:いや、真っ暗だった
からす丸:男の声だけ聞こえた
こむぎ:録画してたけど、最後だけブレてる
LOG:現地に行くな。
「……ダメ。来ないで。」
エマの声は、自分でも驚くほど小さかった。
誰かが自分を探そうとしている。
誰かがあの場所を探そうとしている。
誰かが、何も知らないまま、あの家に近づこうとしている。
「私が何も言わないせいで、誰かがあそこに行ったらどうするの?」
アラタは低く舌打ちした。
「黙っている方が広がるのか。」
「だから言ったでしょ。」
「安否を知らせるためじゃない。」
「は?」
「現地に向かう奴を止めるための制止だ。」
エマはその言葉を否定できなかった。
アラタは後部の収納から小型端末を取り出した。
「これで書け。」
「私のスマホじゃない。」
「お前のスマホは出さない。」
「私のアカウントでもないでしょ。」
「本人アカウントにも入らない。」
「じゃあ、誰が信じるの。」
「全員に信じさせる必要はない。現地へ向かう奴が少しでも減ればいい。」
エマは端末を見下ろした。
知らない端末。知らないアカウント。
自分の言葉なのに、自分の場所からは出せない言葉。
「それ、投稿元までは辿られないの?」
「すぐには辿れないようにしてある。」
「“すぐには”って何。」
「警察が正式に照会すれば、いずれ線は出る。だが今欲しいのは、そこまでの時間だ。」
「犯人側は?」
「相手が何を見られるか分からない。だからお前のスマホもアカウントも使わない。」
「結局、危ないんじゃん。」
「危ない。だが、黙っている方がもっと広がる。」
エマは言い返せなかった。
画面にはまだ、視聴者の投稿が流れている。
こむぎ:近い人、見に行けない?
その一文が、胸に刺さって離れなかった。
「お前だと分かる合図を入れろ。」
「合図?」
「常連だけが分かるもの。場所に繋がらない言葉だ。」
「……そんなの……。」
「ないなら書くな。」
「ある。」
反射的に言っていた。
アラタが黙る。
エマは端末を受け取った。指が震えている。画面のキーボードが、やけに小さく見えた。それでも、打った。
『みんな、ごめん。私は無事です。
配信は途中で切りました。
今は、その場所から離れています。
お願いだから、現地に行かないで。
場所を探さないで。
近くにいる人も、絶対に確認しに行かないでください。』
そこで、エマの指が止まった。
常連にしか分からない合図。
外から見れば意味のない一文。けれど、見てくれていた人なら、エマの言葉だと分かるもの。
エマは最後に一行を足した。
『青い飴は、今日は持っていません。』
アラタが画面を見る。
「青い飴?」
「常連なら分かる。場所とは関係ない。」
「本人だと分かるのか。」
「分かる人には、分かる。でも知らない人には、ただの変な一文。」
アラタは一拍だけ画面を見つめた。
「ならいい。」
エマは投稿ボタンの上で指を止めた。
押せば、また跡が残る。
押さなければ、誰かがあの場所へ向かうかもしれない。
エマは投稿した。
数秒だけ、画面は静かだった。
その直後、反応が跳ねた。
ミナト:無事ってこと?
ねむり猫:ほんとにエマちゃん?
しおり:アカウント違うよね
こむぎ:でも、この文……
夜更かし羊:青い飴って
からす丸:誰が打ってるんだよ
LOG:青い飴を確認。
エマの肩から、わずかに力が抜けた。
「……伝わった。」
アラタは画面の一行を見ていた。
「LOG。」
「常連。ちょっと怖いけど、悪い人じゃない。」
「近すぎる。」
アラタは、画面を見つめたまま低く言った。
エマは答えられなかった。
騒ぎは少しだけ向きを変えた。
けれど、消えたわけではない。
高架下の薄暗い車内で、青白い画面だけが二人の顔を照らしていた。




