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REPLAYER - 未解決の1% -  作者: 二晴


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第2話 フォレンジック・ブルーの狂執①

 赤い光が、住宅街の壁を裂くように流れていく。


 アラタは女の腕を掴んだまま、凍てつく路地を走っていた。

 女は何度も足をもつれさせた。夜露で湿ったアスファルトに靴底が滑り、転びかけるたびに、血に濡れた手が彼女の腕を強く引き上げる。


「痛い……っ、離して!」

「走れ」

「なんで逃げるの!? 警察、来てるんでしょ!?」


 アラタは答えなかった。

 女には、何が正しいのか分からなかった。


 警察に助けを求めるべきなのか。

 それとも、血まみれのこの男に従うしかないのか。


 背後ではパトカーのサイレンが低く尾を引いている。闇の奥に沈んだあの家だけが、まだ息を潜めているみたいに沈黙していた。


 女は振り返る。

 さっき、玄関から飛び出してきた血まみれの男は、誰もいない夜道を睨んでいた。

 犯人らしき影など、どこにも見えなかった。逃げていく足音も、背中も、誰かの姿も。


 それなのに男だけは、まだあの家の中に何かが残っていると分かっているようだった。


 血まみれのこの男が怖い。

 けれど、この男が見ている“何か”は、それ以上に怖かった。


 路地の奥に、グレーのハイエースが停まっていた。


 街灯の届かない暗がりに沈んだ車体は、外から見ればただの作業車だった。けれど近づくほど、普通ではないことが分かる。側面にスライドドアはない。窓も埋められている。金属の一枚板みたいな外装が、赤色灯の反射だけを鈍く受け流していた。


 ハイエースの前で、アラタは一度だけ背後を振り返った。

 追ってくる足音はない。それが、逆に気味が悪かった。


 女にも、その沈黙だけは分かった。

 あの家からは、誰も出てこない。誰も追ってこない。


 だからこそ、まだ何かが終わっていないように思えた。


 アラタは後部の観音扉の前で止まった。コートの内側から薄い黒手袋を抜き、血の残る手を無言で覆う。

 それから初めて、扉の取っ手に指をかけ、扉を開けた。


 車内から、青白い光が漏れる。

 女は反射的に後ずさった。


「入れ」

「嫌……!」


 遠くの交差点で、サイレンが一段高く鳴った。赤い光が、塀の上を滑る。

 アラタの左目だけが、女を見る。右目は長い前髪に隠れていた。


「ここで見つかったら終わる」

「終わるって何!? 私、何もしてない!」


「証明できない」


 その一言で、女の喉が詰まった。


 次の瞬間、アラタは彼女を車内へ押し込んだ。乱暴に突き飛ばしたわけではない。それでも、逆らう前に身体が中へ入っていた。


 後部扉が閉まる。

 外のサイレンが、一枚厚い壁の向こうに沈んだ。


 女は息を止めた。


 車内は、外観から想像するよりも暗かった。青白いモニターの光だけが、黒い床と壁を冷たく照らしている。前方は遮光カーテンのような仕切りで塞がれ、運転席も外の景色も見えない。


 生活の匂いがしない車だった。


「……何、ここ」


 女の声は震えていた。


 アラタは床下収納を開けた。薄い黒手袋、密閉袋、ウェットタオル、折りたたまれた黒い上着、銀色のポーチ。物の配置に迷いがない。手が勝手に覚えているみたいに、必要なものだけを取り出していく。


 車内に、鉄の匂いが濃く満ちた。


 さっき玄関先で見た時より、血は乾き始めていた。けれど青白い光の下では、むしろ生々しい。アラタのコートには黒く染みた血が広がり、袖口と指の間にはまだ湿った赤が残っている。右目を覆う長い前髪の先にも、固まりきらない血が細く絡んでいた。


 見間違いではない。


 夢でもない。


 この男は、誰かの血を浴びて戻ってきた。


 女は声を出せなかった。


 アラタは血のついた手袋を外し、密閉袋へ入れた。空気を抜き、口を閉じる。次に、血の染みたコートを脱ぎ、防水シートの上へ広げた。


 女はその動作を見ていた。


 雑ではなかった。慣れているように見えるのに、雑ではない。血のついた布を汚れとして丸めるのではなく、袖口、襟元、前身頃を目で確かめてから分けている。


 女は気づかないうちに、壁に背を押しつけていた。


「……証拠隠滅じゃん」


 アラタの手が、わずかに止まる。


「血を拭いて、袋に入れて、警察から逃げて……そういうことでしょ?」

「違う」

「何が」


 アラタはすぐには答えなかった。ただ、密閉袋をもう一枚開ける。


 女の胸の奥に、苛立ちが湧く。怖いのに、腹が立つ。何も説明されないまま、危険だけを押しつけられている。


「黙ってれば済むと思ってるの?」

「今は済ませるしかない」


 短い返答だった。


 アラタはコートの袖口を折った。女はその横顔を見る。表情はほとんど動いていない。けれど唇の奥で、何かを噛み潰しているようにも見えた。


「……慣れてるんだね」

「慣れてない」

「嘘。手、震えてないじゃん」

「震えたら、落とす」


 それだけだった。

 アラタはウェットタオルを一枚、女へ差し出した。


「手首」

「……何?」


「血」


 女は反射的に自分の手首を見た。


 赤黒い指の跡が、薄く残っている。さっき、玄関から引きずられるように走り出した時についたものだ。アラタの手の形が、皮膚の上に残っていた。


「……っ」


 思わず息が詰まる。


「あんたがつけたんでしょ」

「拭け」

「……ほんと、最低」


 女はウェットタオルを受け取り、震える指で手首を拭った。血は完全には落ちない。皮膚の皺に入り込んだ赤が、薄く残る。


 その時、女は自分の手にまだスマートフォンを握りしめていることに気づいた。

 さっき路地でアラタに奪われ、配信を切られたあと、家に入る前に押し返されたものだ。


「……消えろ」


 それだけ言って、男は闇に消えた。

 画面を見るのが怖かった。でも、見ない方がもっと怖い。


 女は震える親指でスマホを起動した。SNSの通知が、画面いっぱいに上がっていた。


 ――エマちゃん?

 ――今の男誰?

 ――配信切れた?

 ――世田谷って言ってたよね?

 ――録画してる人いる?

 ――警察呼んだ方がよくない?

 ――紫乃エマの配信、落ちた?


 胸が冷える。見られていた。あの瞬間まで。


 アラタの視線が、スマホへ落ちた。


「紫乃エマ」


 通知欄に表示された名前を、アラタが低く読んだ。


「勝手に見ないで」

「あの場所を、誰から聞いた」

「誰からって……自分で調べたに決まってるでしょ」

「誰かに誘導された可能性は」


「ない。……と思う」


「思う?」

「コメントで場所を教えられたわけじゃない。過去の記事と地図を見て、自分で行ったの」

「配信中に現在地は言ったか」

「世田谷とは言った。でも細かい場所は言ってない」

「映したか」

「分からない」

「視聴者の中に誰がいたかは」

「分かるわけないでしょ」


 アラタは黙った。


「……私を疑ってるの?」

「疑ってる」


 即答だった。

 あまりに迷いのない声に、胸が冷える。


「お前が犯人側だと決めたわけじゃない。だが、偶然だと決める理由もない」

「最低」

「今はそれでいい」


 アラタは銀色の遮断ポーチを開いた。


「スマホを入れろ」

「嫌」


 エマは反射的にスマホを胸に抱え込んだ。


「これ以上近づいたら、本当に警察にかける」

「今はやめろ」

「なんで。私、あんたに連れ込まれてるんだけど。警察呼ぶの、普通でしょ」

「普通ならな」


「……何それ」


「今つなげば、警察も視聴者も、お前の居場所を追える」

「追えるって……」

「通話、通知、位置情報、SNSの投稿履歴。警察は照会をかける。視聴者は勝手に探す。お前が一度でも発信すれば、ここから先の逃げ道が潰れる」

「逃げ道って、やっぱり逃げるんじゃん」

「そうだ」


 あまりに迷いなく認められて、エマは言葉を失った。


「警察から?」

「警察からも」


「……も?」


「あの家にいたものからもだ」


 エマの喉が、小さく鳴った。


「私も、殺されるってこと?」

「普通の犯人なら、目撃者は消す」


「普通の犯人なら……?」


「俺を見れば、反応する」


「……しなかったの?」

「しなかった」


 エマは息を呑んだ。


 追ってくる気配はない。でも、それは安全を意味しない。追ってこない理由が分からないことの方が、ずっと怖い。


「電源切ればいいじゃん」

「駄目だ」

「なんで」

「電源を切っても、設定次第で位置情報や近距離通信が生きていることがある」

「そんなの、分かんないじゃん」

「だからだ。今ここで機種も設定も確認してる時間はない」


 アラタは銀色のポーチを開いた。


「端末ごと遮断する。中身を見るためじゃない。外と繋がる線を切る」


 このスマホは、助けを呼ぶための灯りだった。


 警察に見つけてもらうための灯り。

 視聴者に生きていると伝えるための灯り。

 そして、届いてはいけない誰かにまで届いてしまう灯り。


 エマは奥歯を噛んだ。


「壊したら、絶対許さないから」


 アラタは頷きもしない。


 エマはスマホをポーチへ入れた。アラタが封を閉じる。通知の振動が、そこで途切れた。


 車内が急に静かになる。

 外のサイレンが、遠くで揺れている。


 エマは唇を震わせた。


「あの家の中で……何があったの」


 アラタは密閉袋を整理する手を止めない。


「誰か、怪我したの?」


 アラタの指先が、ほんの一瞬だけ止まった。

 それだけで、エマは聞いてはいけない答えに触れた気がした。


 アラタはただ、新しい手袋をはめた。


「前に座れ」

「答えてよ」

「止められた時、後ろにいたら怪しまれる」

「止められるの?」

「サイレンが近い」


 その言葉で、エマは息を呑んだ。


 アラタは前方の仕切りへ手をかけた。黒い遮光カーテンの奥で、薄いスライドドアが横へ滑る。運転席と助手席が、細い通路の先に現れた。


「早くしろ」


 エマは後部扉を見た。


 分厚い観音扉の向こうから、サイレンが低く滲んでいる。今ここで叫べば、誰かに届くかもしれない。


 でもスマホは遮断ポーチの中にある。

 警察を呼ぶことも、視聴者に助けを求めることも、もうできない。


 自分が何を見たのかも、何に巻き込まれたのかも、まだ何一つ説明できない。


「早くしろ」


 前方からアラタの声がした。


 エマは悔しそうに息を吐き、助手席へ移る。


 フロントガラスの向こうには、何事もなかったような深夜の住宅街が広がっている。

 さっきまで、鉄の匂いの中にいた。なのに外は、静かすぎた。


 アラタは運転席に乗り込み、エンジンをかける。低い振動が、車体の底から伝わってきた。


 エマは横目でアラタを見る。


 血は拭き取られていたが、完全には消えていない。耳の下、首筋、前髪の先。手袋の縁から覗く手首にも、小さな赤黒い点がまだ残っている。


 この人は、本当に犯人じゃないのか。

 そう思う自分がいる。


 けれど同時に、彼が家の中から何かを連れて逃げてきたのではなく、何かから自分を引き剥がして逃げているのだと感じる自分もいた。


「警察に行こうよ」


 エマは小さく言った。


「行かない」

「説明すればいいじゃん。私も話すし、配信を見てた人だっている。ちゃんと話せば――」

「警察はすぐ周辺を洗う」


 アラタは前だけを見たまま言った。


「聞き込み、防犯カメラ、通報履歴、通信履歴、車両の通過記録。お前の配信にも辿り着く」

「だったら、なおさら警察に行けばいいじゃん」

「今捕まれば、終わる」


「捕まるって……犯人じゃないなら、説明すればいいでしょ」


「説明できる材料がない」


 エマは言葉に詰まった。


「お前が見たのは、血まみれの俺と、開いた玄関と、暗い道だけだ。家の中で何が起きたかは見てない。警察に話せるのは、それだけだ」


「でも……」

「それだけなら、俺が犯人になる」

 何も言い返せなかった。

 アラタは前だけを見ている。


「俺が捕まれば、あの家にいたものには二度と届かない」

「あの家にいたものって……犯人じゃないの?」

「分からない」

「分からないのに逃げるの?」

「分からないから逃げる」


 エマは黙った。


 普通なら、警察に行く。

 普通なら、血まみれの男から逃げる。

 普通なら、スマホを取り返して、助けを呼ぶ。


 それなのに、どの普通にも足が向かなかった。


 あの家で何が起きたのか、エマは見ていない。

 この男が犯人ではないという証拠もない。


 それでも、玄関の奥に残っていた暗闇だけが、まだ背中に張りついていた。


 ハイエースは何事もなかったかのように路地を滑り出す。遠くで赤色灯が揺れた。その光から逃げるように、窓のない車は深夜の住宅街を離れていく。


 スマホは返ってこない。

 この男を信用もできない。


 それでもエマは、助手席のドアに手を伸ばせなかった。


 膝の上で、血の落ちきらない手首を握りしめた。


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