第2話 フォレンジック・ブルーの狂執④
エマは、登戸駅前のベンチに座ったまま、しばらく動けなかった。
駅は、何事もなかったみたいに朝を始めていた。改札へ向かう人の流れが少しずつ太くなり、タクシー乗り場には短い列ができている。コンビニの自動ドアが開くたび、白い光と暖かそうな空気が歩道へこぼれた。
誰も、エマを見ていない。
そのことに少しだけ救われながら、同時に、誰にも気づかれていない自分が、消えてしまうような気もした。
膝の上には、銀色の遮断バッグがある。
警察に行くべきなのか、家に帰るべきなのか、それともこのままここで誰かを待つべきなのか。
あの人は、見たことなら話せと言った。見ていないことは足すな、とも言った。
けれど今のエマには、自分が何を見て、何を見ていないのか、その境目さえうまく掴めなかった。
血まみれの人が家から出てきたこと。
自分を車に乗せたこと。
通信を切られたこと。
それは見た。けれど、家の中で何が起きたのかは見ていない。
ここにいても、何も分からない。家に帰るのは怖い。
それでも、何も知らないままではいられなかった。
エマは遮断バッグを抱え直し、ベンチから立ち上がった。
◇
駅前を歩きながら、何度も足が止まった。
交番の方へ行こうとして、曲がれなかった。改札へ向かう人の流れに入りかけて、すぐに外れた。タクシー乗り場の列に並びかけて、前にいた女性のバッグに付いた小さなぬいぐるみを見た瞬間、なぜか息が詰まって離れた。
自分がどこへ行こうとしているのか、分からなかった。
ただ、道の途中で見つけたネットカフェの看板だけが、妙に現実的に見えた。安全な場所だとは思えない。それでも、外に立ち尽くしたまま誰かに声をかけられるよりは、まだましだった。
エマは階段を上がり、受付で必要最低限の言葉だけを交わして、個室の鍵を受け取った。
◇
個室の扉が閉まると、外の音が少し遠くなった。
黒い合皮の椅子と使い古されたキーボード。薄い仕切りの向こうから聞こえる咳払い。換気の音と安い消臭剤の匂いが、狭い空間にこもっている。
エマは銀色の袋を机の端に置き、PCの画面を見た。
入店したのは、午前7時半を少し過ぎたころだった。それから長い時間、ほとんど何もできなかった。画面の白さを見つめ、机の木目を見つめ、また画面へ戻る。眠れもしなければ、泣けもしない。ただ、薄い壁の向こうで誰かが出入りする音だけが、ときどき時間が進んでいることを教えた。
何度か、検索欄に指を置いた。
最初に浮かんだのは、自分の名前だった。
『紫乃エマ』
その四文字を入れた瞬間、自分の知らない自分が画面いっぱいに出てくる気がした。切り抜き、心配、憶測、批判。昨夜の配信を見ていた誰かの言葉が、自分より先に自分を説明している。
打てなかった。
次に浮かんだのは、LOGさんだった。
青い飴を確認した人。現在地を探すな、と書いた人。あの人が「近い」と言った人。
エマは、いつもの配信ページを開こうとして、手を止めた。そこへ行けば、昨夜のコメント欄に戻ることになる。自分の名前も、視聴者の声も、あの投稿の続きも、全部そこにある。
まだ、そこには行けなかった。
けれど、事件なら調べられるかもしれない。
自分ではなく、あの場所のことなら。
エマは検索欄に、昨夜、自分が何度も口にした言葉を打った。
『世田谷 未解決事件』
そこまで打って、指が止まる。
それだけなら、まだ過去の話だった。26年前に起きた、終わっていない事件。自分が配信で語っていた、遠いはずの惨劇。
でも、エマが知りたいのは過去ではない。
昨夜、あの家で何が起きたのか。
しばらく動けなかったあと、エマは最後に一語を足した。
『世田谷 未解決事件 今日』
検索結果が表示されるまでの数秒が、異様に長かった。
画面が切り替わる。
古いまとめ記事、26年前の事件を扱ったページ、匿名掲示板の断片。過去に沈んでいるはずの文字列の中に、一件だけ、明らかに新しいニュース記事が混ざっていた。
配信時刻は、正午の少し前だった。
『東京・世田谷区の住宅で男女4人死亡 警視庁が殺人事件として捜査』
最初に引っかかったのは、世田谷区、という文字だった。
世田谷区なんて広い。昨夜、自分がいた場所だと決まったわけじゃない。そう思おうとしたのに、視線は次の言葉から動かなかった。
『住宅。男女4人死亡。』
検索欄に自分で打った言葉と、見出しの言葉が、ゆっくり重なっていく。昨夜、配信で口にした事件。26年前の、終わっていない家。その現場へ向かって歩いていた道。街灯の少ない住宅街。冷たいブロック塀。背後から塞がれた口。血まみれで家から出てきた、この人。
町名は書かれていない。住所も出ていない。
それでも、分かった。
あそこだ。
そう思った瞬間、見出しの文字が急に重さを持った。自分が外にいた、そのすぐ内側で、この人が血まみれで出てきたその場所で、4人が死んでいた。
エマは記事を開いた。
『本日午前10時56分ごろ、東京・世田谷区の住宅について、近くに住む男性から「空き家のはずの建物の中から女性の悲鳴のような声が聞こえた」と110番通報がありました。』
女性の悲鳴のような声。
エマは、その言葉だけをもう一度読んだ。
誰の声なのかは分からない。ただ、その一文だけで、ニュースの文字が昨夜のあの場所へ繋がっていく気がした。
『警視庁によりますと、警察官が駆けつけたところ、住宅内では1階付近で男性1人、中2階付近で女性1人と少女1人、子ども部屋とみられる室内で少年1人が倒れているのが見つかり、いずれもその場で死亡が確認されたということです。』
死亡が確認された。
その言葉を読んだ瞬間、エマの中で、昨夜の家がもう逃げ場のない現実になった。
血まみれで出てきたこの人。
その背後にあった玄関。
自分が見なかった家の中。
そこに、本当に4人がいた。
そして、4人とも死んでいた。
『倒れていた4人には、刃物によるものとみられる傷や、首を圧迫されたような痕が確認されていて、警視庁は殺人事件として捜査を始めました。4人の身元については、現在確認を進めています。』
殺人事件。
分かっていたはずの言葉なのに、画面で見ると重さが違った。
『現場には一部に物色されたような跡があり、警視庁は強盗目的の可能性も含めて調べています。』
強盗目的。
エマはその言葉を読んでも、うまく飲み込めなかった。あの夜の恐怖が、そんな見出しで片づくものには思えなかった。
さらに下には、別の一文があった。
『また、捜査関係者によりますと、過去に発生した未解決事件と発生日や犯行態様に共通点があるとの情報もあり、警視庁は一連の事件との関連についても慎重に調べています。』
未解決事件。
そこで、エマの指が止まった。
あの人の声が戻る。
――追っていた。
――26年以上前の未解決事件。
――あの家で、同じ形の事件が起きる可能性があった。
全部が嘘だったわけではない。
そう思った瞬間、エマは怖くなった。
嘘ではないからといって、信じていいことにはならない。正しいことを言っている人間が、危険ではないとは限らない。
エマは画面を見つめたまま、浅く息を吸った。
『一方で、現時点では住宅に複数人が出入りした明確な痕跡は確認されておらず、警視庁は単独犯の可能性も含め、周辺の防犯カメラの解析や聞き込みを進めています。』
単独犯の可能性。
エマは、その言葉を読み返した。
もし、あの人が犯人なら、あの家の中で4人を殺し、外へ出てきたことになる。けれど、そのあとこの人は夜明けまで自分といた。高架下の車内で画面を見続け、LOGさんの一行に反応し、夜が薄くなるまで一度も車から離れなかった。
それでも、エマは家の中を見ていない。
あの人が何をしたのかも、誰が誰を殺したのかも知らない。
犯人だと思う理由はある。
けれど、犯人だと決めるには、何かが合わない。
その隙間が、怖かった。
エマは、検索欄に残っていた文字を消した。
世田谷。
未解決事件。
今日。
どれも、自分の外側にある言葉だった。
でも、もう外側ではない。
エマは、ゆっくりと自分の名前を打った。
『紫乃エマ』
検索欄の中に、自分の名前があった。
まだ、検索はしていない。
けれどその四文字は、もう自分のものではないように見えた。




