第2話 フォレンジック・ブルーの狂執⑤
登戸でエマを降ろしてから、アラタは一度として自宅へ繋がる道を選ぼうとはしなかった。
多摩川沿いの道を外れ、幹線道路を避け、細い道を選ぶ。途中で二度だけ車を止め、ミラーと外部カメラで後方を確認した。燃料は入れない。コンビニにも寄らない。人目を避けるためではなく、あとで線を引かれたときに、余計な点を増やさないためだった。
朝の街は、もう動き始めていた。
何も知らない日常の中を、血の匂いを閉じ込めたハイエースだけが、音を殺して進んでいく。
あの女は、最後までこちらを信じていなかった。
当然だ。血まみれの男に連れ回され、スマートフォンを遮断され、未解決事件を追っていたなどという説明だけを渡されて、信じろという方が無理だ。警察に行く可能性も、配信者として自分の身を守るためにすべてを話す可能性も、アラタは消していない。
それでも、降ろすしかなかった。
これ以上一緒にいれば、あの女は目撃者ではなく、逃亡の同行者になる。警察がそこまで線を引いた時、彼女が見たものまで汚れる。
見たことなら話せ。
見ていないことは足すな。
そう言って降ろした。
守るための言葉ではない。自分を信じさせるための言葉でもない。ただ、事実を濁らせないための最低線だった。
夜が完全に朝へ変わり、通勤車両の流れが工場地帯へ吸い込まれ始めるころ、ハイエースは川崎区の貸しガレージ前に滑り込んだ。
周囲には、低い倉庫と小さな作業場が並んでいる。遠くでトラックのエアブレーキが鳴り、どこかの工場から金属を打つ音が、一定の間隔で響いていた。人はいる。だが、誰も他人の荷室までは見ない。
アラタはシャッターを上げ、車を中へ入れた。
すぐにシャッターを下ろす。外の光が、床の隙間に細く潰れた。
ガレージの中には、冷えたコンクリートの匂いがあった。壁際の棚には、いくつかの袋と予備の手袋、充電器、古い端末が置かれている。生活するための場所ではない。車を外から隠し、持ち込んだものを一度切り分けるためだけの場所だった。
アラタは後部扉を開けた。
血の匂いが、閉じた空間に戻ってくる。
床に防水シートを広げ、密閉袋を並べる。血のついた手袋、拭き取りに使った布、コート、端末、銀色の遮断バッグ。どれも同じ場所には置かない。ひとつ混ざれば、あとで取り返しがつかない。
最初に決めるべきなのは、何を捨てるかではなかった。血のついたものを、処分するもの、残すもの、あとで照合するものに分ける。その順番を間違えれば、証拠ではなく、アラタ自身の後悔が混ざる。
血のついた使い捨て手袋は、密閉袋へ入れた。これは残せない。半端に持ち歩けば、自分を縛るだけの物になる。
コートは別だった。
袖口には、まだ乾ききらない赤黒い染みが残っている。飛び方、高さ、角度、乾き方。どの位置で、どの血を浴びたのか。正式な鑑定には出せない。だが、記録にはなる。
アラタはコートを折らず、防水シートの上に広げた。
ロフトで浴びた血。一階で見た血。外へ出た時にあの女の手首へ移った血。全部が同じ赤に見えても、混ぜていいものではなかった。
アラタは薄い手袋を新しくはめ、折りたたみ机にノートPCを置いた。通信は切ったまま、ローカルの記録ファイルだけを開く。
白い入力欄が表示される。
見たことだけを書く。推測は、まだ入れない。
アラタは指を置いた。
《中二階浴室小窓。網戸は外されていた》
《中二階子ども部屋。少年。二段ベッド下段。頸部圧迫痕。血痕なし》
《一階階段下付近。成人男性。多数刺創。刃先片を確認》
《台所。黒い衣服の男。新しい包丁を取得》
《ロフト。女性、少女。大量出血。呼吸音は確認できず》
《男、一階で視認後、階段上で見失う。ロフトで再視認》
《接触直前、視界から消失》
《勝手口方向に金属音。外に紫乃エマ。紫乃エマは誰も出てきていないと反応》
最後の一行を打ったところで、指が止まった。
勝手口で音はした。外には誰も出ていない。
紫乃エマは、怯え切っていた。混乱もしていた。だが、あの瞬間に犯人を庇う理由はない。見たものを見ていないと言うには、あまりにも反応が生々しかった。
アラタは画面を見たまま、短く息を吐いた。
何が開き、何が閉じ、誰がそこを通ったのか。問いを打ち込みかけて、やめる。疑問は記録ではない。
アラタは別のフォルダを開いた。26年前の調書、報道記録、現場見取図、古い新聞記事、検証番組の静止画。何百回も見た文字と図面が、青白い画面に並ぶ。
中二階浴室の小窓、子ども部屋。一階階段下付近。中二階付近。過去の記録に残された位置関係を、アラタは何度もなぞった。
昨夜の家で見たものは、細部に至るまで異様なほど一致していた。外された網戸も、中二階の子ども部屋に置かれた二段ベッドも、一階階段下の血の広がりも、刃先片も、すべてが26年前の調書に寄せられていた。
だが、ひとつだけ合わない。
女性と少女は、中二階付近。
アラタはその行を見つめた。
昨夜、アラタが見た二人はロフトにいた。母親に見える女性は少女に覆い被さるように倒れ、少女は血の中で動かなかった。
胸の上下は確認していない。
呼吸音は聞こえなかった。
脈は取っていない。
死んでいると判断した。
それは事実ではない。判断だ。
アラタは、その差分をすぐには記録しなかった。画面の中の過去の記録と、自分の記憶の中にあるロフトの血溜まりが、頭の奥で重なる。重なりきらず、ほんのわずかにずれる。そのわずかな隙間が、喉の奥に引っかかった。
画面の右下で、ニュース通知が立ち上がった。
『東京・世田谷区、男女四人死亡。警視庁が殺人事件として捜査。』
正午前後のニュースが、ようやくまとまった形で流れ始めていた。
アラタは記事を開いた。
『東京・世田谷区の住宅で男女4人死亡 警視庁が殺人事件として捜査』
見出しは平坦だった。
町名はない。家族とも書かれていない。あの家にいたものを、まだ誰のものとも決めていない言葉だった。だが、その平坦さがかえって、昨夜の血の匂いを遠くへ押し込もうとしているように見えた。
本文に目を落とす。
『本日午前10時56分ごろ、東京・世田谷区の住宅について、近くに住む男性から「空き家のはずの建物の中から女性の悲鳴のような声が聞こえた」と110番通報がありました。』
アラタの指が、タッチパッドの上で止まった。
空き家のはず。
その言葉だけを、もう一度読む。
空き家ではない。
そもそも、家として存在していないはずだった。
あの区画は、データ上は更地だった。行政の建築情報も、周辺のインフラ契約も、昨夜確認した範囲では、建物の存在を示していなかった。そこに家があると知っている人間でなければ「空き家」とは言えない。
アラタは通報文をコピーし、記録ファイルへ貼りつけた。すぐ下に、短く打つ。
《通報者は建物の存在を認識》
《データ上の更地表示と矛盾》
それ以上は打たなかった。
誰が通報したのか。なぜ、その時間なのか。本当に悲鳴がしたのか。警察を入れるために、誰かがそう通報したのか。書けることは多い。だが、まだ書けない。
午前10時56分という時刻だけが、画面の中で妙に浮いていた。
昨夜、アラタが家を離れたのは、もっと前だ。登戸であの女を降ろしたのは、夜が明けてから。通報までの間には、空白がある。その空白の中で、あの家は本当に沈黙していたのか。
女性の悲鳴のような声。
その一文も、アラタの目に残った。
本当に声がしたのなら、誰の声だったのか。もし声がしていないのなら、なぜその言葉で警察を入れたのか。どちらにしても、通報は事件の外側から自然に落ちてきたものではないように見えた。
アラタは記事を下へ送った。
『倒れていた4人には、刃物によるものとみられる傷や、首を圧迫されたような痕が確認されていて、警視庁は殺人事件として捜査を始めました。4人の身元については、現在確認を進めています。』
身元確認中。
家族とは書かれていない。この家に住む者とも書かれていない。
アラタは、昨夜の浴室を思い出す。水垢の匂いも、湿った石鹸の匂いも、生活の澱みもなかった。台所にも、部屋にも、人が日々を積み重ねた重さが欠けていた。少なくとも、報道の見出しが読者に想像させるような家ではない。
さらに下には、別の一文があった。
『また、捜査関係者によりますと、現場の状況には過去に発生した有名な未解決事件と発生日や犯行態様に共通する点があるということです。今月10日に発生した事件を含め、近くでは過去の未解決事件と酷似した事件が複数確認されていて、一部では模倣犯や警察への挑発行為ではないかとの見方も出ています。警視庁は一連の事件との関連についても慎重に調べています。』
慎重に。
その言葉自体は正しい。慎重であることは必要だ。だが、仮説を事実の欄に置いた瞬間、現場は濁る。見ていないものを足せば、見えていたはずのものまで消える。
だが、記事の中に並ぶ言葉は、もう事件を外側から包み始めていた。模倣犯。警察への挑発行為。一連の類似事件。どれも、今起きていることを社会が理解できる形に押し込むための名前だった。
アラタが昨夜見たものは、そのどれにも収まらない。
人間が過去の事件を真似たというよりも、過去の記録そのものが、現在の家へ無理やり押し出されてきたような異様さがあった。犯人の意思も、怒りも、焦りも、そこには見えなかった。ただ、調書に残された結果だけが、物理空間に置き直されていく。
それでも、今はまだ、そう書けない。
アラタは、記事の続きを読もうとして、少しだけ手を止めた。
まだ、見たくない。
そう思った。
自分が何を恐れているのかを理解するより早く、視線は次の段落へ落ちていた。
『警察官が駆けつけたところ、住宅内では1階付近で男性1人、中2階付近で女性1人と少女1人、中2階の子ども部屋とみられる室内で少年1人が倒れているのが見つかり、いずれもその場で死亡が確認されたということです。』
そこで、時間が止まった。
中二階付近で、女性一人と少女一人。
中二階の子ども部屋で、少年一人。
ロフトではない。
アラタは画面から目を離せなかった。
過去の調書では、女性と少女は中二階付近。警察が見た現場でも、中二階付近。昨夜、アラタが見た二人だけが、ロフトにいた。
つまり、アラタが家を離れたあと、二人の位置が変わっている。
考えられる可能性は、今の時点で三つだった。
まだ生きていた二人が、ロフトから中二階付近まで動き、そこで息絶えたのか。中二階付近まで逃げたところを、犯人にとどめを刺されたのか。あるいは、アラタが現場を離れたあと、誰かが二人の遺体を動かしたのか。
26年前の記録に近い場所へ、発見時の現場を整えるために。
どれを選んでも、答えは同じ場所へ戻ってくる。自分が離れたあとも、あの家では何かが続いていた。二人がまだ生きていたのなら、アラタは死体だと判断して確認を打ち切ったことになる。中二階付近でとどめを刺されたのなら、救えたかもしれない二人を、犯人の残る家に置いてきたことになる。遺体が動かされたのなら、犯人はあのあとも家に残り、警察が来るまでのどこかで現場を作り替えていたことになる。
捕まえられたかもしれない。
その一文だけが、思考の底から浮かび上がった。
アラタは机の端を掴んだ。冷たい金属が指の腹に食い込む。痛みはある。だが、その痛みよりも、袖口に残った血の乾きかけた硬さの方が、はっきりと意識に触れていた。
戻るべきだったのか。
戻れば、あの女を死なせたかもしれない。警察に捕まれば、現場へ戻ることも、外から線を追うこともできなくなる。その間に、あの家にいたものへ届く細い糸は、ほとんど切れていた。あの瞬間の判断を、単純な誤りとして切り捨てることはできない。
だからこそ、逃げ場がなかった。
正しかった可能性と、取り返しのつかない失敗だった可能性が、同じ重さで喉を塞いでくる。ロフトで見た二人の最期は、まだ確定していない。死んでいたのか、生きていたのか、殺されたのか、動かされたのか。分からないまま、アラタは背を向けた。
胃の奥に、冷たいものが沈んだ。
アラタは奥歯を噛んだ。
後悔を混ぜるな。
今、必要なのは罰ではない。順番だ。
そう切り分けなければ、画面の文字を読み続けられなかった。
アラタは、記録ファイルへ戻った。
《警察発見時の現場と、視認時の現場に差分あり》
そこまで打って、手が止まる。
差分。
そんな言葉で済ませていいのか。
違う。これはただの位置情報のズレではない。誰かの最後の呼吸が、そこにあったかもしれない。自分が死体だと判断して置いてきたものが、まだ生きていた可能性。その可能性を、差分という言葉で畳んでいいはずがなかった。
それでも、アラタはその一文を消せなかった。
今の彼に書ける事実は、それだけだった。
画面の隅で、ニュースの自動更新が回る。強盗目的。単独犯。模倣犯。未解決事件との関連。まだ何も知らない外側の言葉が、事件に名前をつけていく。
アラタはそれを閉じなかった。
青白い画面の光が、右目を覆う長い前髪の影を濃くする。ガレージの中で、遠くの機械音だけが続いていた。外ではトラックが通り過ぎ、シャッターの薄い鉄板が微かに震える。
画面の中では、警察が「死亡確認」と書いていた。
けれどその文字は、事件の結果ではなく、アラタが確認しなかった最後の呼吸の証明に見えた。
ロフトで見た二人の死は、まだ確定していなかった。
アラタは、血の乾いた袖口を握ったまま、しばらく動けなかった。




