第4話:獅子と獅子
夜明け前、ギルドの前にアリアが立っていた。
俺が宿屋を出て、馬の手綱を引いて街道へ向かう途中だった。彼女はいつもの紺色の制服ではなく、白い肩掛けを羽織っていた。早朝の風が冷たかった。
「お見送り、というわけではありません」
俺が立ち止まると、彼女は淡々とそう言った。表情は変わらない。だが、こんな時間にギルドの前にいる理由として、彼女の言葉は明らかに足りなかった。
「そうか」
「業務上の確認です。狼煙の塔の調査依頼、規定では複数編成が望ましいとされています」
「単独で行く」
「承知しております。確認したかっただけです」
俺たちはしばらく、無言で立っていた。馬が、足元で蹄を鳴らした。
アリアは、視線を俺の腰のステッキに、一度だけ落とした。それから、視線を戻した。
「……ご無事のお戻りを」
その一言には、いつもより、ほんの少しだけ、温度があった。
俺は短く頷いた。
「ああ。世話になる」
馬に乗り、街道へ向かった。背中越しに、彼女の視線を感じた。
気づかれているか、もしくは、気づかれかけている。だが彼女は、それを口にしない。ありがたい。こちらが伏せている以上は、伏せたままでいてくれる。職業倫理というよりも ―― あれは、彼女自身の流儀なのだろう。
城門を抜け、街道の朝霧の中へ進んだ。
◆ ◆ ◆
馬で進む3日の旅。
初日は森を抜けた。秋の終わりが近く、葉は半分ほど落ちていた。馬の足音と、風の音と、時折鳥の声が遠くで響くだけの、静かな道だった。
正午前、街道脇の茂みから、3体の灰狼が飛び出してきた。中型の魔物。並の旅人なら命に関わる相手だが、ここでルミナに変身する必要はなかった。
俺は馬を止め、手で短い詠唱を編んだ。
「『静かに ―― 落ちろ』」
3点同時。針の先ほどの光が、3頭の灰狼の核を貫いた。音もなく、3体は崩れた。
変身なし詠唱、最小消費。レオン・グラウとしての出力でも、この程度の相手なら制圧可能。データとして、有用。
俺は馬を進めた。
2日目は平原だった。風が強く、空が大きかった。地平線まで何もない、低い草の海。3度ほど他の旅人とすれ違ったが、皆、急いでいるようだった。誰も会話しようとはしなかった。
夜、岩陰で野営した。火を焚き、保存食のパンとチーズで食事を済ませた。月が出ていた。
俺は古書を膝に開いた。「西方境界諸民族の祭祀と魔導」。第七章を、もう一度読み返していた。
古代の祭祀者たちは、千年以上前に、すでに魔力の構造を理解していた。彼らはそれを「光と影の均衡」と呼んだ。だが、その記述は、明らかに比喩ではなかった。物理的な現象を、言葉で記述する技術が未発達だったから、彼らは祈祷文という形式で記録を残しただけだった。
俺の理論と、彼らの祈祷文。1000年の時を隔てて、同じものを別の言語で書いている。
火が、ぱちりと爆ぜた。月が、雲の縁に隠れた。
俺は本を閉じ、寝床についた。
3日目の午後、ようやく塔が見えた。
◆ ◆ ◆
狼煙の塔は、思ったよりも、奇妙な姿をしていた。
「塔」と呼ばれているが、実際には、円柱状の建造物が地面に埋もれた構造をしていた。地上に見えているのは全高のおそらく3割。残りの7割は、地下に伸びている。地表に出ている部分の頂上は風化して半ば崩れていたが、そこには確かに、狼煙台の名残らしき石組みが残っていた。
俺は馬を、塔から少し離れた木陰に繋いだ。塔の周囲には、低い木立と、背の高い枯れ草が広がっていた。風の音以外、何も聞こえない。
塔の入口は、半円形の石のアーチだった。年月の重みで、少し沈み込んでいた。アーチの上部に、銘文が彫られていた。
俺は近づいて、それを読んだ。
……「光と影の均衡を保つ者へ。器を持つ者は、入りて満たすべし。器なきは、退け」。幽影窟の祭壇と、同じ系統の祈祷文。だが、こちらは「結界」として機能している。
アーチの内側、空気が、わずかに歪んでいた。よく見れば気づく程度の、薄い壁のような揺らぎ。並の侵入者は気づかずに突っ込み、弾かれて意識を失うか、運が悪ければ体を裂かれる。
「器を持つ者」。俺はその言葉を、口に出した。
「『光と影の均衡を保つ者、来たりて器を満たさん』」
古書で読んだ祈祷文を、そのまま発音した。
空気の歪みが、鎮まった。アーチの内側の魔力が、音もなく解けて、通行を許した。
……俺の声に、結界が反応した。これはつまり ―― 俺の理論は、千年前の祭祀者と同じ言語で書かれていた、ということだ。
背筋に、軽い震えが走った。研究者として、これほど誇らしいことはなかった。
俺はステッキを取り出し、布をほどいた。塔の中は、結界の先。何が待っているか分からない。
変身することにした。
詠唱を、開始した。
◆ ◆ ◆
― 第四試行 ―
第一節 ―― 魔力経路の開放、1.6秒。短縮詠唱、定着。
銀の光が、足元から駆け上がった。
第二節 ―― 装束の物質化。
第三節 ―― 出力上限の解放。共鳴系起動。
変身完了。月光色の髪が、塔の影の冷気の中で、わずかに浮き上がるように見えた。
ルミナ・レオニスは、塔のアーチを、潜った。
内部は、回廊だった。地下へ向かって、緩やかに螺旋を描きながら降りていく構造。壁には、古代の魔法光が、薄く灯っていた。幽影窟と同じく、千年経っても機能する古代の照明系。
俺は降りていった。
第一階層。広い円形の広間。中央に、人型の像が立っていた。石ではない、金属でもない、未知の素材で組まれた、無表情な人型。
俺が広間に踏み込んだ瞬間、像の目が、灯った。
守護機構。古代の自動人形。
人型は、滑るように動き始めた。手から光の刃を生成する。物理ではなく、魔力で構成された刃。並の盾では受け止められない。
俺はステッキを構え、距離を取った。
こいつは、特定の魔力属性しか効かない。観察。
銀獅の閃光を放った。光の柱は人型に直撃したが ―― 通り抜けた。手応えがなかった。人型は怯みもしなかった。
光属性、無効。物理魔法も無効か。これは ―― 「概念」属性の魔法でしか倒せない構造だ。
古代の祭祀者たちが「光と影の均衡」と呼んだ概念。この人型は、その均衡を司る魔法でしか破壊できない。
俺は新しい詠唱を組み立てた。理論はある。だが、実戦運用は初めてだ。
「『光と影、その均衡 ―― 解き、結べ』」
ステッキの先に、白と黒が同時に渦を巻いた。光と影。両極の魔力が、互いに干渉しないまま、一つの形に編み上がった。それを、人型に放った。
白黒の渦が、人型に触れた瞬間、人型は ―― 解けた。文字通り、輪郭が解け、内部の魔力構造が露わになり、それも消えた。
静寂。
成功。新技、暫定名「均衡解」。古代魔法における基幹技。実戦運用、可能。
俺は次の階層へ進んだ。
◆ ◆ ◆
3つの階層を抜けた。
守護人形を都合4体、変質した魔物を6体、いずれも均衡解と銀獅の閃光の組み合わせで処理した。手応えとしては、悪くなかった。だが、塔の中で何より興味深かったのは、戦闘ではなかった。
第三階層の壁画。
そこに描かれていたのは ―― 俺が3年かけて構築した多次元魔力構造論の、体系図だった。
変数の配置、関係の連結、層構造の分岐。すべてが、俺のノートと一致していた。
そして、その体系図の続きが、壁画には描かれていた。俺がまだ到達していない、さらに先の領域。第十二層から第二十層までの拡張。
俺は、しばらく動けなかった。
……俺の研究は、彼らから見れば、入口に過ぎなかった。
誇らしさと、軽い屈辱と、何よりも純粋な興奮が、同時に押し寄せた。研究者として、これほど豊かな感情を、俺は3年ぶりに味わっていた。
俺は壁画を、頭に焼き付けた。記憶魔法を簡易に編んで、後で再現できるよう構造を保存した。
それから、気づいた。
壁画の前に、足跡があった。
新しい足跡。それも、複数日にわたって付け加えられた、同じ人物のもの。靴底の形、歩幅、体重。観察するに、若い男、中肉中背、長身。
そして、書庫の隅に、整理された書物の山。最近、誰かがここで、研究を続けていた痕跡。
俺は、軽く呼吸を整えた。
古書店の店主が言っていた、「2人目」。あれは、この塔の研究者だ。今、上の階層にいる。
気配を探った。
……いた。
第四階層の、さらに上。最上部に近い書庫。気配は、複雑だった。警戒している風ではなかった。むしろ、こちらの足音を、楽しんでいるような。
俺は、上の階段へ向かった。
◆ ◆ ◆
第五階層は、半円形の書庫だった。
壁面に天井までびっしりと、古代の書物が並んでいた。床にも、開かれたままの書物が、いくつも積まれていた。机が一つ、隅に置かれ、その上に、書きかけの羊皮紙と、消えかけた蝋燭。
窓は、半ば崩れたアーチから外を望む形で、夕日が差し込んでいた。
その窓の枠に、人影が、腰掛けていた。
脚を、ぶらぶらさせている。フードを目深にかぶっているが、肩が、楽しげに揺れていた。
「お、来たな!」
弾むような、明るい若い男の声。
「半年待ってたんだぜ、こんな所まで来てくれる奴を!」
ルミナ・レオニスは、書庫の入口で立ち止まった。
敵意なし。警戒なし。むしろ、待ち望んでいた様子。距離を取りつつ、対話を試みる。
「半年、この塔に?」
俺はそう問うた。可憐な少女の声で、低い男の温度。
「あぁ、ここと隣のダンジョンを行ったり来たりさ。飯はラフェルトで買い溜めてくる。野営は得意だぜ!」
男は、窓の枠から、そのまま、飛び降りた。
床まで二階分の高さ。並の魔導師では、無事に着地できない。だが男は、空中で手の動作だけで風魔法を編み、ふわりと床に降り立った。詠唱なし。
……出力は十分。制御に粗あり。詠唱省略の代償を、肉体で受けている。手首と足首にかなりの負担。続ければ、数年で関節を壊す。
男は、フードを下げた。
灰銀の癖毛、22歳前後の日に焼けた顔。目が大きく、夕日を反射して輝いていた。整った顔立ちというより、生き生きとした顔立ち。
「俺はアスランだ! お前は?」
ストレートな名乗り。素性も経歴も後回し、まず名前から。
「ルミナ・レオニス」
「光の、獅子……?」
アスランの目が、ぱっと見開かれた。
「待て待て待て、俺の名前、古い言葉で『獅子』って意味なんだぜ! お前と、同じだ!」
そして、満面の笑みを浮かべた。
「すげぇな、獅子が獅子に出会うって、古代の祭祀文にあった言い回しじゃねぇか! 知ってるか?」
俺は、静かに頷いた。
「読んだことがある」
アスランの目が、子供みたいに輝いた。
「マジかよ!」
そう叫んで、彼は思いっきり地面を踏みしめた。書庫の床が、わずかに揺れた。
「あの祈祷文、あれ全部読める奴に会えたの初めてだ! 俺、ずっと一人で解読してきたんだ! 半分も分かってねぇけど! お前、絶対すげぇ研究者だろ!」
……騒がしいな。だが、悪意は、ない。
俺は内心で軽く息をついた。
「ルミナで構わない」
「ルミナ! いい名前だな! あ、俺アスランな!」
「先ほど聞いた」
「あ、そっか! ハハ!」
アスランは頭をかいて笑った。屈託というものが、皆無の笑い方だった。
俺はステッキを下ろし、書庫を見渡した。
「ここで、何を研究している?」
「祈祷文だ! 古代の祭祀文に書かれてる魔法の構造、あれ、絶対に体系だってんのに、誰もまともに研究してねぇ。俺は『多層位相魔導論』って呼んでる ―― 名前は適当だ、まだ仮称」
俺は、わずかに、沈黙した。
多層位相魔導論。
俺の多次元魔力構造論と、ほぼ同じ概念を指している。アプローチが違うだけで、対象は同じ。
……独立に、もう1人、同じ場所に向かっている人間がいる。それも、22歳で。
俺がこの体系の入口にたどり着くのに、35年かかった。アスランは、22歳で、すでに同じ入口に立っている。出力は粗いが、感性が異常だ。
「興味深い」
俺はそれだけ、言った。
アスランは、俺の反応を、きょろきょろと見ていた。
「お前、変な奴だな」
「そうか」
「魔法少女の格好してるくせに、めちゃくちゃ落ち着いてる。普通、その格好してたらもっと、可愛らしく振る舞うもんじゃねぇのか?」
「……効率の問題だ」
「効率?」
「可愛らしく振る舞うのは、魔力効率に貢献しない」
アスランは、3秒、固まった。
それから、噴き出した。
「ハハハ! 何だそれ、最高じゃねぇか! いやマジで、俺、お前みたいな奴、初めて会った! 面白すぎだろ!」
笑いながら、彼は俺に手を差し出した。
「ルミナ、一緒に来ないか?」
俺は、その手を、見た。
「と言うと」
「この塔の最深部、まだ俺は到達できてねぇんだ。守護機構が強すぎて。でも2人なら、いけるかもしれねぇ。お前みたいに均衡解を撃てる奴が一緒なら、絶対いける」
「均衡解」
「下の階の戦闘音、聞いてた。お前、概念属性の魔法を組んでただろ。あれ、俺ずっと組み立てたかったんだ。詠唱を聞いて、構造を理解した。すげぇよお前」
俺は、しばらくアスランの顔を見ていた。
22歳。熱量。素直さ。そして、磨けば異常な才能。
俺の研究は、ここまで一人だった。一人であることに、不満はなかった。だが、もしここで、対話の相手を一人、得られるなら。
……研究の効率は、確実に向上する。
俺は、その手を取った。
「いいだろう」
アスランの顔が、ぱっと輝いた。
「よっしゃあ! 行くぞ、相棒!」
「相棒、と呼ぶには、まだ早い」
「いいじゃねぇか、もう! 獅子と獅子の出会いだ、運命だぜ!」
アスランは、笑いながら、書庫の奥の階段を指差した。最深部へ続く、最後の道。
俺は、ステッキを構え直した。
……騒がしい。だが、悪くない。
◆ ◆ ◆
― 同夜・王都の貴族街 ―
イザベラは、夜会の控え室で、扇子を手に、静かに座っていた。
向かいに座っているのは、宰相の遠縁にあたる、若い貴族だった。年齢は彼女と近い。話題は、最近の社交界の噂。聞き流しながら、彼女は核心を、絶妙のタイミングで切り出した。
「光の獅子、と申しましたか。最近、噂の魔法少女」
「ああ、ルミナ・レオニスでしたか。各地で目撃されているそうですね」
「王家は、お調べになっていらっしゃるのでしょう?」
若い貴族は、わずかに目を細めた。それから、声を落とした。
「……宰相筋から、内々に動いているとは、聞きました。新勇者候補の選定とも、関連しているそうです」
イザベラは、扇子の陰で、微笑んだ。微笑みは、崩さなかった。
「まあ、興味深いですわね」
心の中では、計算が走っていた。
マクスより先に、私が接触する。聖女として、新勇者候補に支援を申し出る。それが、私の次の上り詰め先。
彼女は扇子を閉じ、優雅に席を立った。
「では、よい夜を」
夜会の廊下を、彼女は静かに歩いた。背筋は美しく、表情は穏やかだった。
誰も、彼女が今、勇者パーティーを見限る決断を、最終確定させたとは、知らなかった。
◆ ◆ ◆
狼煙の塔、第五階層。
俺とアスランは、書庫の奥の階段の前に立っていた。最深部へ続く、最後の道。
「行くぞ、ルミナ!」
「ああ」
アスランが、先に階段を降り始めた。俺は、その背中に続いた。
古代との対話の、第二段階が、始まろうとしていた。
獅子が、獅子を呼ぶ ――
古代の祭祀文の、その一節を、俺は心の中で繰り返した。
千年前の祭祀者たちは、果たして、こうなることを、予見していたのだろうか。




