第3話:広場の異変
朝の街は、思いのほか活気に満ちていた。
露店の並ぶ通りを、俺はゆっくり歩いていた。職人たちが店を開け、商人が荷を運び、子供が走り抜ける。秋の風が、石畳の隙間から砂埃を運んでくる。
目的は、古書店だった。昨日の幽影窟で見た祭壇の銘文 ―― 「光と影の均衡を保つ者、来たりて器を満たせ」 ―― あの祈祷文が、何の体系に属するのか。誰が、どこで、書き残したのか。手がかりが欲しかった。
路地を3つ曲がった先に、目当ての店があった。「灰梟堂」。看板は古く、塗装が剥げかけていた。扉を押すと、紙とインクと埃の匂いが、静かに俺を迎えた。
店主は痩せた老人で、奥のカウンターで眼鏡を磨いていた。客の俺を見ても、特に挨拶はしなかった。それが、こういう店の流儀だった。
俺は棚を眺めた。古代魔法、神学、地誌。並びは整理されていないが、当たりの本がある棚は、すぐに分かった。背表紙に蓄積した手垢の量で、頻繁に開かれている本が分かる。
1冊、抜き取った。「西方境界諸民族の祭祀と魔導」。19年前の出版。著者は ―― 王立魔術学院の、当時の客員研究員。俺が学院にいた時期に、確か何度か講義を聞いたことのある名前だった。
目次を眺めた。第七章「光と影の概念に関する古代信仰」。当たりだ。
俺は本を抱え、もう数冊、関連書を選んだ。カウンターに積み上げると、店主は値段を告げ、銅貨で釣りをよこした。
「珍しい棚を読みなさるね」
店主が、本を包みながら、ぽつりと言った。
「数十年、その棚に手を出した客は、3人目だ」
「3人目」
「あんたで3人目さ。1人目はもうとっくに死んだ。2人目は ―― ふん、まあ、この街の者じゃない」
店主はそれ以上は言わなかった。俺もそれ以上は聞かなかった。だが、興味深い情報だった。
この街か、あるいは近隣に、古代魔法を独自に追っている者が、もう1人いる。
本を抱え、店を出た。
大通りに戻った時、最初の悲鳴が聞こえた。
◆ ◆ ◆
悲鳴は、中央広場の方から響いてきた。
続いて、何かが砕ける重い音。馬のいななき。複数の人間の叫び。
俺は本を抱えたまま、一度立ち止まり、それから足早に広場へ向かった。走らなかった。走れば目立つ。歩く速度のまま、しかし最短距離で。
広場に出た瞬間、状況は一目で分かった。
3頭の魔物。大型の、爬虫類系。背に翼の名残を持つが飛行はしない。地を這う。鎧のような鱗。岩石を食い破る顎。
岩噛蜥。本来、辺境の岩山に棲息する魔物。街にいるべきではない。誰かが連れてきたか、誘導したか。
広場の市民は逃げ惑っていた。露店の屋台が薙ぎ倒され、果物と布地が散乱していた。すでに数人が倒れている。生死は遠目には判別できない。
街の自警団らしき男たちが3人、剣を抜いて魔物に対峙していた。だが装備が足りない。岩噛蜥の鱗を貫けるのは、最低でも鋼鉄級の武器か、強力な魔法だ。木を削った剣では話にならない。
1人の自警団員が、すでに薙ぎ払われて、地に転がっていた。
状況。市民の戦闘能力、ゼロ。自警団の対処能力、絶望的。騎士団の到着まで、推定10分以上。それまでに、岩噛蜥3頭は街区を破壊し、推定20名以上の市民を殺傷する。
計算は、淡々と走った。
放置できない。
だが、街中での変身は、リスクが高い。目撃者が多すぎる。ルミナ・レオニスとレオン・グラウの同一性が露見する確率も、跳ね上がる。
対策。変身は人目のない場所で。出現は広場の中央。退場は素早く。可能であれば、目撃者の認識を曖昧化する手段も検討する。
俺は本を抱えたまま、広場を迂回した。横の路地に入り、奥まで進んだ。誰もいない。倉庫の壁の陰、ちょうどいい死角。
本を地面に置き、背嚢を下ろした。布をほどき、銀色のステッキを取り出した。
「……時間がない。短縮詠唱でいく」
呼吸を整え、詠唱を開始した。
◆ ◆ ◆
― 第三試行 ―
第一節 ―― 魔力経路の開放。短縮詠唱適用、所要時間1.8秒。許容範囲内。
銀の光が、足元から駆け上がった。
第二節 ―― 装束の物質化。並行展開。
白と紫の衣装が、瞬時に肌を覆った。プラチナの髪が伸び、月光色に煌めいた。
第三節 ―― 出力上限の解放。
変身完了。所要、合計5.2秒。前回より2秒短縮。
俺はステッキを構え、路地から広場の方角へ視線を向けた。再び悲鳴。岩噛蜥が一人の市民に襲いかかろうとしていた。
路地から飛び出すのではなく、屋根の上を駆けた。可憐な少女の身体は、軽い。最適化された魔力回路が、跳躍に補助を与える。一息で、隣の屋根の上に着地した。
広場が見下ろせた。3頭の岩噛蜥。中央のが一番大きい。左右の2頭は、それぞれ別の方角に向かっている。
俺はステッキを構え、3点同時詠唱に入った。
3頭、同時制圧。中央の個体に主出力、左右に並行詠唱で抑え。
「『光になれ ―― 銀獅の閃光』」
可憐な少女の声が、屋根の上から広場に響いた。市民が、自警団員が、一斉に上を見上げた。
銀色の光が、3条、屋根の上から放たれた。
中央の岩噛蜥は、頭部を撃ち抜かれて崩れ落ちた。左の個体は前脚を、右の個体は背を貫かれ、それぞれ動きを止めた。残る息で抵抗を試みたが、続けざまに俺は詠唱した。
「『月華の鎖 ―― 縛れ』」
白銀の鎖が伸びた。動きの止まった岩噛蜥の身体に絡みつき、体内で展開した。鎖は内側から構造を破壊した。鱗の隙間から、白い光が漏れ、3頭の岩噛蜥は、ほぼ同時に塵と化した。
広場は、静まり返った。
俺は屋根の上で、ステッキを下ろした。月光色の髪が、秋の風に流れた。
想定通り。魔力消費、開始時の63パーセント。連続戦闘・複数同時制圧の試験データ取得、完了。
市民たちが、ようやく声を取り戻した。
「魔法少女様……」
「あれが、噂の」
「白と紫の……光の獅子……!」
子供が、ぱあっと顔を輝かせて、屋根の上を指差した。母親が、息子を抱きしめて、こちらを見ていた。倒れていた自警団員が、仲間に支えられて立ち上がり、震える手で敬礼の真似事をしていた。
俺は、彼らに向かって、軽く頷いた。
それから、屋根の向こう側へ飛び降りた。
市民たちが追ってこられない方向へ、屋根伝いに移動し、人気のない裏路地に降り立つと、即座に変身を解除した。
白銀の光がほどけ、装束が消え、身体が元に戻った。
地味な研究者の姿に戻った俺は、最初の路地に戻り、置いていた本と背嚢を回収した。
表通りに出た時、広場からは、まだ歓声が続いていた。
公開実証実験、成功。屋根上からの遠距離戦闘、3点同時制圧、変身・戦闘・撤退の総時間、約45秒。良好。
俺は本を抱え直し、宿へ向かって歩き出した。
◆ ◆ ◆
― 同時刻、広場の縁 ―
アリアは、市場へ買い出しに出ていた途中で、騒ぎに巻き込まれていた。
逃げる市民の流れに押されながら、彼女は壁際に身を寄せ、広場を見ていた。逃げ遅れた者を冷静に観察し、自警団の動きを記録し、状況を整理する ―― それは彼女の長年の癖だった。
そして、屋根の上に、白と紫の少女が現れた瞬間。
アリアの呼吸が、止まった。
距離があった。顔ははっきりとは見えなかった。だが、月光色の髪、白と紫の衣装、銀色のステッキ ―― 噂で聞いていた特徴と、完全に一致していた。
そして、戦闘。
3頭の岩噛蜥を、瞬時に制圧した。3点同時詠唱。並のA級魔導師でも、不可能ではないが時間のかかる芸当。それを、咏唱の長さから判断して、おそらく秒単位で。
戦闘が終わった瞬間、ルミナ・レオニスは屋根の向こうに姿を消した。
アリアは、視線で彼女が消えた方角を追った。屋根の連なり。下に降りるとしたら、おそらく ―― 西の路地裏。
そこから少し遅れて、表通りに、本を抱えた中年の男が現れた。
地味な旅装。灰色混じりの短髪。痩せ気味の体格。腰には、布で包まれたステッキ。
レオン・グラウだった。
彼は、何事もなかったかのように、宿屋の方角へ歩いていった。
アリアは、壁際で、しばらく動けなかった。
…………。
確証はない。だが、状況証拠は、揃いすぎていた。
彼女は、深く息を吐いた。それから、買い物籠を持ち直し、市場の方角へ歩き出した。
気づいたとしても、それは彼女が口外することではない。職業倫理の問題だった。それ以上に ―― 当人が伏せていることを、暴くのは、彼女の流儀ではなかった。
だが、観察は続けるだろう。それは、止められなかった。
◆ ◆ ◆
翌日の朝、ギルドの扉を押し開けると、空気が違った。
昨日まで、誰も俺に注意を払っていなかった。今日は、酒場で朝食を取っている冒険者数人が、ちらりとこちらを見た。昨日の広場で、屋根の上に現れたあの魔法少女と、研究者の俺との繋がりに、気づいている者はいないはずだった。だがそれでも、何かが変わっていた。
広場の事件は、街の話題を完全に塗り替えていた。「光の獅子・ルミナ・レオニス」。誰もがその名を口にしていた。
俺はカウンターへ進んだ。アリアが、いつもの淡々とした表情で、こちらを見上げた。
「おはようございます、レオン様」
「おはよう。新しい依頼を見たい」
「掲示板はそのままです」
俺は掲示板に目を通した。だがその時、奥のカウンター席から、声がかかった。
「レオンといったか。少し時間をくれ」
大柄な男だった。50代後半、白髪混じりの髭。目だけが、鋭い。
ギルドマスター・バルザック。初対面だが、俺は彼の存在を認識していた。彼が、俺を最初の登録の時から観察していたことも。
「構わないが」
「奥で話そう」
バルザックは、執務室への扉を顎で示した。俺はアリアに軽く会釈してから、後に続いた。
◆ ◆ ◆
執務室は質素だった。木の机に、書類の山。壁には古びた剣が一振り、飾られていた。バルザック自身の、現役時代の得物だろう。
彼は俺に椅子を勧め、自分は机の向こうに腰を下ろした。
「単刀直入に聞く。お前さん、F級にしては、強すぎる」
「依頼内容に応じた力を出しただけだ」
「幽影窟。並のB級でも、単独では難しい。それを、初依頼で、無傷で。報告書は読んだ。3層、影渡り、骨喰らい、闇精霊。全部、効率的に処理している」
「効率は、職業上の癖でな」
バルザックは、ふっ、と息を吐いた。笑ったとも、呆れたとも取れる息だった。
「お前さんの過去は、聞かない。ギルドが受けた情報以上は、こちらから踏み込まん。それが俺の流儀だ」
「ありがたい」
「そのうえで、頼みたいことがある」
バルザックは、机の引き出しから、一枚の羊皮紙を取り出した。封蝋には、王家の紋章があった。
「最近、王家から、特殊な調査依頼が来ている。各地に点在する古代魔法の遺跡、その実地調査だ。本来なら宮廷魔術師団が動く案件だが ―― 連中、最近、動きが鈍くてな」
俺は、内心で軽く息をついた。「動きが鈍い」というのは、おそらく言葉以上の意味を持っていた。3年前まで宮廷の周辺にいた者として、現状の機能不全は想像がつく。
「俺に、何を」
「次の対象は『狼煙の塔』。街から馬で3日。古代魔法の研究施設の跡地だ。内部の魔物分布、構造の把握、可能であれば最深部までの踏破。報告書を、王家に上げる必要がある」
バルザックは羊皮紙を、俺の前に置いた。
「報酬は、相応に出す。だが、それ以上に ―― 」
彼は、わずかに目を細めた。
「お前さんの研究にも、関係がある場所だと思っている。違うか」
俺は、しばらく、バルザックの目を見ていた。
多くを見抜いている目だった。だが、踏み込む気はない目でもあった。職業冒険者として25年、辺境のギルドマスターとして長く ―― そうやって培われてきた、距離の取り方だった。
「……興味深い」
俺はそれだけ言って、羊皮紙を手に取った。
狼煙の塔。古代魔法の研究施設。
古書店の店主の言葉が、頭に蘇った。「2人目はもうこの街の者じゃない」 ―― あの2人目が、もしこの塔の研究者だったとしたら。
古代魔法を独自に追っている、もう1人の何者か。あるいは、その痕跡。
「受けよう」
「3日後、出立できるか」
「明日でもいい」
バルザックは、初めて、はっきりと笑った。歯の欠けた、無骨な笑い方だった。
「ならば明日だ。アリアに通達しておく」
俺は羊皮紙を畳み、執務室を出た。
◆ ◆ ◆
― 王都・魔術師団官舎 ―
ジュリアンの机には、また新しい報告書が積まれていた。
ラフェルトの街、中央広場で、岩噛蜥3頭の同時制圧。屋根上からの3点同時詠唱。実行者、自称「ルミナ・レオニス」 ―― 白と紫の衣装の魔法少女。
ジュリアンは報告書を、もう一度、最初から読み返した。
3点同時詠唱。並のA級では、不可能ではない。だが、それを秒単位で行ったとあれば話は別だ。彼自身、3点同時詠唱は研鑽中の領域だった。半年前、師匠から「お前にはまだ早い」と苦笑された記憶が、まだ生々しい。
その「まだ早い」領域を、誰かが、街中で、咄嗟に運用している。
ジュリアンは羽ペンを握ったまま、しばらく動かなかった。
気がつくと、彼の指は、机の端の引き出しに伸びかけていた。3年前から開かれていない、灰色のノートが収められている引き出し。
……指を引いた。
「偽情報か、誇張か。ありえない。3点同時詠唱の連続運用など ―― 」
呟きは、誰にも届かなかった。
彼は報告書を脇に置き、別の書類に手を伸ばした。
引き出しの奥のノートは、今日も、開かれなかった。
◆ ◆ ◆
― 同夜、王都の高級宿 ―
マクシミリアンは、エールのジョッキを荒っぽく置いた。
「またあの女の話か」
テーブルの向こうで、イザベラが扇子で口元を隠しながら、優雅に微笑んでいた。
「噂は止まりませんわね、マクス様。今度は岩噛蜥3頭を、屋根の上から1人で」
「3点同時詠唱? 笑わせるな。ジュリアンですらまだ未熟な領域だ。素人の創作だ、それは」
「ですが、目撃者は数百人」
「数百人が、揃って騙されたんだろう」
マクスはエールを呷り、口元を腕で拭った。
イザベラは扇子の陰で、目だけを細めた。微笑みは崩さなかった。だが、その目には、明らかな計算が浮かんでいた。
数百人の目撃者。3点同時詠唱。屋根上からの戦闘。これは、本物だ。そして ―― 間もなく、王家がこの存在を認知する。
イザベラは、扇子を閉じた。
「マクス様、最近お疲れですわ。少し、お酒を控えられては?」
「うるさい。お前が口を出すことじゃない」
「あら、心配しているだけですわ」
イザベラは席を立った。マクスは引き止めなかった。彼女は微笑んだまま、部屋を出た。
廊下を歩きながら、彼女は内心で算盤を弾いた。
ルミナ・レオニス。情報を集める価値がある。それも、急いで。
◆ ◆ ◆
宿屋の部屋で、俺は買ってきた古書を膝の上に開いていた。
第七章「光と影の概念に関する古代信仰」。読み進めるほどに、俺の理論との連続性が、鮮明になっていった。古代の祭祀者たちは、すでに、多次元魔力構造の一端を、信仰の形で記述していた。
そして、章の終わりに、こうあった。
「西方境界の地に、彼らは塔を建てた。塔は語り、塔は聞き、塔は記憶する。光と影の均衡を保つ者、来たりて器を満たすべし。塔の名を、狼煙という」
俺は、本から目を上げた。
窓の外、月が高かった。
狼煙の塔。バルザックが指定した、明日からの目的地。古書の中で、古代の祭祀者たちが残した塔の名と、完全に一致している。
偶然ではない。
3年前、独力でたどり着いた多次元魔力構造論。それは、千年以上前に、誰かが既に書き残していた体系だった。そしてその体系は、辺境の塔に、形として残されていた。
実証の旅は、研究の答え合わせだ。だが、答え合わせの相手は、生きている人間ではない。千年前の、見知らぬ祭祀者だ。
俺は本を閉じ、地図を広げた。
狼煙の塔。馬で3日の距離。辺境の、さらに奥。
「明日、出る」
誰もいない部屋で、俺は呟いた。月光色の髪は、もう俺の頭にはなかった。地味な、灰色混じりの中年の頭髪が、月明かりを浴びていた。
魔法少女・ルミナ・レオニス、実証の旅、第三段階。
古代との対話が、始まろうとしていた。




