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第4話:土を休ませる知恵と、快活な少女

燻製肉のおかげで、村はかつてないほど豊かで温かな冬を越すことができた。

カチカチの干し肉を齧って顎を痛めることも、食料が尽きる恐怖に怯えることもなく、人々は囲炉裏を囲んで笑い合い、冬の間に蓄えた体力で、来るべき春の農繁期に備えていた。

そして、雪が溶け、黒々とした大地が顔を出した春。

村は一年で最も活気に溢れる季節を迎える。畑の土を掘り返し、種を蒔き、新たな命を育む季節だ。しかし、この年の春、村の大人たちの表情は、去年の冬の明るさとは裏腹に、どこか晴れないものだった。

「……やっぱり、今年も麦の芽が出が悪いな」

村の中央に広がる広大な麦畑の縁で、ザックがクワを持つ手を止めて、地面を見つめながら呟いた。

カイもその隣でしゃがみ込み、ひょろひょろと力なく伸びる黄色がかった緑色の芽を見つめていた。

この畑は、村ができた百年前からずっと、主食である麦を作り続けてきた土地だ。大人たちは毎年、貴重な猪の糞や落ち葉の灰を混ぜ込んで土を肥やそうとしてきたが、ここ数年、明らかに収穫量は落ち込み、麦の穂は小さく、粒も頼りなくなってきていた。

「土が、疲れているのかもしれんな」

長老が、腰をさすりながらザックの横に立った。

「同じ場所で、同じものばかり作り続けている。土だって生き物だ。休ませてやらねば、力は尽きてしまう」

大人たちは重苦しい沈黙に包まれた。

「土を休ませる」といっても、それはつまり、その年の収穫を諦めるということだ。冬の食料事情が少し改善したとはいえ、主食である麦の畑を一年間遊ばせておく余裕など、この村にはない。

カイは、手ですくった畑の土を指先でポロポロと崩しながら、ある事に気がついていた。

(……連作障害だ)

同じ土地で同じ作物を続けて栽培することで、土の中の栄養が極端に偏り、特定の病原菌や害虫が増えてしまう現象。それを防ぐための方法は、カイの頭の中に、はっきりとした手順で存在していた。

(土を休ませるだけじゃなくて、別のものを植えればいいんだ。……例えば、豆の仲間を)

豆科の植物の根には、土を肥やす特別な力――目に見えない小さな菌がくっついて、空気中の栄養を土に固定する力――があること。

そして、数年ごとに植える作物を変える「輪作りんさく」を行えば、土は力を取り戻し、むしろ収穫量は爆発的に増えるということ。

だが、どうやって大人たちに説明しようか。

主食である麦を減らして、別の植物を植えるなど、今日の糧を得ることに必死な村の人々にとっては、とてつもない大冒険に見えるはずだ。下手に出しゃばって、村の命綱を危険に晒すわけにはいかない。

カイが麦の芽を見つめたまま、一人でどう切り出すべきか悩んでいた、その時だった。

「――よっと! あんたが水のカイだね!」

突然、背後から小気味良い声が掛かると同時に、カイの背中にドシンと強い衝撃が走った。

「うわっ!」

前のめりに転びそうになりながら振り返ると、そこには一人の少女が、満面の笑みを浮かべて立っていた。

年はカイと同じくらい、10歳前後だろうか。

男の子のように短く切り揃えられた栗色の髪、陽に焼けた小麦色の肌、そして何より、カチカチに凍った冬の湖をも溶かしてしまいそうなほど、天真爛漫で快活な瞳が印象的だった。

彼女は、村の猟師の娘で、名前をリンという。いつも男の子たちに混ざって森を駆け回り、小さな猪の子供なら素手で捕まえたこともあるという、村一番のお転婆娘だった。

「……リン? 僕になにか用?」

カイは背中の痛みを擦りながら尋ねた。リンはくるくるとカイの周りを回りながら、興味津々に覗き込んできた。

「用っていうか、ずっとあんたとお話してみたかったんだ! 炭で水を綺麗にしたり、煙でお肉をご馳走にしたり。あんた、こんなに細っこくて力もないくせに、頭の中は魔法使いみたいだね!」

リンの言葉には、毒気が全くなかった。ただ純粋な好奇心と、無邪気な感嘆だけが溢れている。

その太陽に向かって真っ直ぐに伸びる野生の草花のような眩しい笑顔を見た瞬間。

カイの心のずっと奥底、自分でも手の届かないような深い水底で、ふと、一つの幻影がよぎった。

――どこか焦点の合わない瞳をして、ただ守られるためだけにそこに在った、ひどく儚く、輪郭の淡い少女の横顔。

なぜそんな幻影が浮かんだのか、カイ自身にも分からない。だが、目の前でコロコロと表情を変えて笑うリンは、その心の奥に沈む「誰か」の幻影とは、まるで正反対の存在だった。

「魔法じゃないよ。ただの知恵だよ」

カイが微かな眩暈を振り払うように苦笑いすると、リンはニカッと笑った。

「その知恵で、今の麦畑のことも、なんとかできない? お父さんたち、みんなすっごく困った顔してるよ。あんたなら、また何か凄いこと、思いつくんじゃない?」

リンの真っ直ぐな瞳に見つめられ、カイは不思議と心の迷いが晴れていくのを感じた。

(……そうだ。失敗を怖がってちゃ、何も始まらない。このちっぽけな手で、みんなの暮らしを少しでも良くするって、決めたんだから)

「うん。……方法はあるよ、リン。でも、僕一人じゃ絶対にできない。手伝ってくれる?」

カイがそう言うと、リンは待ってましたとばかりに、自分の小さな胸をドンと叩いた。

「もちろん! 猟師の娘を舐めないでよね。力仕事なら、あんたの十倍はできるから!」

***

カイとリンは、長老とザックのもとへ向かった。

「土を肥やすために、別の植物を植えるだと?」

カイの提案を聞き、ザックは怪訝そうな顔をした。

「ええ。長老の言う通り、土は疲れています。でも、ただ休ませるんじゃなくて、今年は麦の代わりに『大豆』を植えるんです」

カイは、森の入り口付近に自生していた野生の大豆の原種を指差した。村ではこれまで、食べにくいただの雑草扱いで、ほとんど省みられなかった植物だ。

「この豆の仲間はね、根っこに土を元気にする『小さな魔法』を持っているんだ。これを一年間植えて、収穫した後に残った茎や根っこを土に混ぜ込めば、土は今の何倍も元気になる。……そして来年、そこにもう一度麦を植えれば、きっと今の倍以上の麦が収穫できるはずだよ」

カイは、ふと思い浮かんだ知識を、村の人にも分かりやすい言葉に直して懸命に説明した。

「麦を休ませて、豆を植える……? そんなこと、聞いたこともないぞ」

ザックは半信半疑だ。主食の麦を減らすリスクは、村の命運を左右しかねない。

「でも、おじさん。このまま麦を作り続けたら、数年後には、本当に何も獲れなくなっちゃうよ。……僕を信じて。僕とリンで、まずは麦畑の隅っこ、少しだけ使わせて」

ここで、リンが助け舟を出した。

「そうだよ、お父さん! カイの言うことは、これまで全部本当だったじゃない! ろ過装置も、燻製のお肉も! 私も手伝うから、少しだけ試させてよ!」

ザックは娘の剣幕に押され、そして何より、カイがもたらしたこれまでの確かな実績を思い出し、長老の方を見た。

長老は、静かに目を閉じ、やがてカイとリンを見つめて、穏やかに微笑んだ。

「……カイ。お前の目には、我々には見えん『世界の仕組み』が見えているのかもしれんな。よし、麦畑の南側の隅、一反(約1000平方メートル)ほどの痩せた土地を、お前たちに任せよう。好きにやってみなさい」

「ありがとう、長老!」

カイとリンは顔を見合わせ、喜びの声を上げた。

***

翌日から、カイとリンによる「実験畑」作りが始まった。

任された土地は、長年麦を作り続けてきたせいで、土がカチカチに固まり、灰色く痩せ細っていた。

「よし、まずはこの土を掘り返して、柔らかくしなきゃね!」

リンはそう言うと、大人用の重いクワを軽々と持ち上げ、凄まじい勢いで土を耕し始めた。その姿は、まるで小さな猪が地面を勢いよく掘り返しているかのようだった。

「……すごいね、リン」

カイは、自分用の小さなクワで、リンの三分の一ほどの速さで土を掘りながら、感嘆の息を漏らした。

ごく普通の、いや平均よりも少しばかりひ弱な身体しか持たないカイにとって、クワを振り下ろす作業は、数分で息が切れる重労働だ。すぐに手のひらには豆ができ、腰はミシミシと悲鳴を上げた。

「あはは! カイはやっぱり、頭を使う方だね。力仕事はアタシに任せな!」

リンは汗を拭いながら、バテて膝をつくカイを見て笑った。彼女は、疲れたカイのために森から甘い野いちごを摘んできてくれたり、冷たい湧き水を汲んできてくれたりした。

その快活な明るさと、裏表のない優しさに、カイは幾度となく救われた。

(……この身体は、すぐに疲れるし、大した力も出ない。でも)

泥だらけになり、汗を流し、息を切らしながら、二人で一つの目標に向かって汗を流す。

その時間は、決して思い通りにはならない不便なものだったが、カイに強烈な「生きている実感」を与えていた。一人で何でもできてしまう絶対的な力などないからこそ、こうして誰かと補い合い、助け合うことの尊さが身に染みて分かるのだ。

固かった土を数日がかりで耕し終えると、二人は森から集めてきた野生の大豆の種を、一粒ずつ丁寧に土に埋めていった。

「大きくなれよー、土を元気にしてくれよー」

リンは、種を植えるたびに、まるでおまじないをかけるように声をかけた。

すべての種を植え終える頃には、すっかり夕暮れ時になっていた。

空が燃えるような黄金色に染まる中、二人は畑の横に座り込み、泥だらけの顔を見合わせて笑った。

「ふぅ……疲れたね」

カイが地面に大の字になると、リンもその隣にドサリと無防備に寝転がった。

「うん、疲れた! でも、なんかすごく楽しかった! 炭とか煙とか、カイの知恵って魔法みたいだけど、アタシたちが汗を流さないと形にならないんだね。そこが、すごくいい」

リンは、オレンジ色に輝く空を見上げながら、しみじみと言った。

「……ねえ、カイ。アタシ、決めた」

「何を?」

リンは上半身を起こし、真剣な目でカイを見つめた。

「アタシ、これからずっと、カイの相棒になる。カイが不思議な知恵を思いついたら、力がなくてひ弱なあんたの代わりに、アタシがそれを実現するための『手』と『足』になってあげる。猟師の娘だから、森の奥だって、険しい山だって、どこへでも連れて行ってあげるよ」

リンの突然の相棒宣言に、カイは目を丸くした。

けれど、その言葉は、驚くほど自然にカイの心に染み込んできた。知恵を絞るカイと、それを力強く形にするリン。これほど完璧なペアは、他にはいないだろう。

「……うん。よろしく、リン。最高の相棒になってね」

カイが手を差し出すと、リンは、その泥だらけの手を、力強く握りしめた。

「約束だよ! さぁ、帰って、美味しいお水を飲もう!」

リンはカイの手を引いて元気よく立ち上がった。

土を肥やす豆の種は、夕日に照らされた大地の中で静かに眠りについた。

けれど、カイの心の中には、リンという快活な相棒と共に、未来への新たな希望の種が、はっきりと、力強く蒔かれていた。

力なき少年のスローライフは、頼もしい相棒を迎え、さらに豊かで優しい物語へと歩みを進めようとしていた。

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