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第5話:風と水が回す車輪、命を挽く音

厳しい冬を越え、春の種蒔きを終えた村に、色鮮やかな夏がやってきた。

むせ返るような緑の匂いと、鼓膜を揺らすほどのけたたましい蝉時雨。照りつける太陽は容赦なく大地の水分を奪っていくが、カイの作ったろ過装置のおかげで、村の人々はいつでも冷たく澄んだ水を喉に流し込むことができた。

夏の初めは、秋に蒔いた冬麦ふゆむぎの収穫期である。

村の大人たちは総出で黄金色に実った麦の穂を刈り取り、広場に敷いたむしろの上で天日干しにする。そして、棒で叩いて脱穀し、殻を吹き飛ばして、ようやく食べられる「麦の粒」になるのだ。

だが、村の人々にとって、本当に過酷な労働はここからだった。

「ふぅ……っ、よい、しょ……っ」

村の共同作業小屋の中。熱気がこもる薄暗い土間で、カイは全身から滝のような汗を流しながら、巨大な石臼いしうすの木の取っ手を押し回していた。

ゴリ……、ゴリ……。

重い石と石が擦れ合う鈍い音が響く。上から一握りの麦の粒を入れ、石臼を回してすり潰し、下から粉になった麦を取り出す。この「粉ひき」の作業は、パンや粥を作るために絶対に欠かせないものだが、途方もない時間と労力を必要とする。

「カイ、大丈夫? 顔が真っ白だよ。やっぱりアタシが代わろうか?」

向かい側で一緒に石臼を回しているリンが、心配そうに声をかけてきた。彼女の額にも汗は浮かんでいるが、息一つ切らしていない。猟師の娘として野山を駆け回って鍛えられた彼女の体力は、並の大人すら凌駕していた。

「だ、だいじょうぶ……僕だって、少しは役に立たないと……」

カイは強がりを言って取っ手に体重をかけるが、ひ弱な10歳の身体では、重さ数十キロもある石臼は鉛のように重い。二時間も回し続けているため、腕の感覚はとうに麻痺し、手のひらには新しいマメが潰れて血が滲んでいた。

「もう、無理しちゃダメだってば!」

リンは強引にカイの手を取っ手から離させると、一人で石臼を回し始めた。ゴリ、ゴリ、という音が、先ほどよりも少しだけ早く、リズミカルに響き始める。

カイは土間にへたり込み、荒い息を吐きながらその様子を見つめていた。

(……粉ひきは、村の女の人や子供たちの仕事だ。でも、毎日毎日、食べる分だけの粉を挽くのに、一日の半分以上の時間を奪われている)

リンのように力のある人間ばかりではない。腰の曲がった老婆や、小さな子供たちが、生きるために必死でこの重い石を回し続けているのだ。これが、この村の、いや、この世界の「当たり前」の日常だった。

カイは、ふらつく足で立ち上がり、涼しい風を求めて小屋の外に出た。

小屋のすぐ裏手には、村の命の源である小川が、絶え間なく豊かな水を湛えて流れている。太陽の光を反射してキラキラと輝く水面。バシャバシャと音を立てて岩を打ち据える、力強い水の流れ。

(……ずっと流れている。疲れることもなく、文句を言うこともなく、とてつもない力で)

カイの視線が、川の流れに釘付けになった。

その瞬間、彼の脳裏に、かつての人生で見たかもしれない「巨大な歯車」と「回転する円盤」の設計図が、鮮明な映像としてフラッシュバックした。

(――川の流れるエネルギーを、回転の力に変える。それを、小屋の中の石臼に繋げば)

「……リン!」

カイは弾かれたように小屋の中へ戻り、石臼を回すリンの肩を掴んだ。

「リン、ちょっと来て! 手伝ってほしいことがあるんだ!」

「えっ? わ、わかったけど、粉ひきはどうするの?」

「後で何十倍、何百倍にもなって返ってくるから! 早く!」

カイは困惑するリンの手を引き、村でただ一人の大工である、トックおじさんの工房へと駆け出した。

***

トックの工房は、切り出された真新しい木材の香りと、ツンとする樹液の匂いに包まれていた。

トックは熊のように大柄で、無精髭を生やした無口な男だった。手先は誰よりも器用だが、気難しく、仕事中は大人であっても話しかけるのをためらうほどの威圧感がある。

「トックおじさん! お願いがあるんだ!」

息を切らして飛び込んできたカイとリンを見て、ノミで木を削っていたトックは、片方の眉をピクリと動かした。

「……子供の遊びに付き合ってる暇はねぇぞ。見りゃわかるだろう、冬に向けて屋根のはりを直す木材を削らなきゃならねぇんだ」

野太い声で追い払おうとするトック。だが、カイは怯まずに工房の土間にしゃがみ込み、落ちていた木片で地面に何かの絵を描き始めた。

「遊びじゃないよ。村のみんなの、粉ひきの仕事をなくすための『機械』の設計図なんだ」

「……機械?」

トックは、カイの言葉にわずかに反応し、削りかけの木材を置いて地面を覗き込んだ。

そこには、十歳の子供が描いたとは思えないほど、精密で理にかなった図面が描かれていた。

「川の流れに、この『水かき』をつけた大きな車輪を沈めるんだ。水が板を押す力で、車輪が回る。その車輪の中心に太い木の棒(心棒)を通して、小屋の中まで引っ張る。……ここまでは、わかる?」

カイの説明に、トックの目が徐々に真剣なものへと変わっていく。

「あぁ、水が車輪を回す理屈はわかる。だが、心棒が回ったところで、石臼はどうやって回すんだ? 臼は縦じゃなくて、横に回さなきゃならねぇんだぞ」

「だから、ここで『歯車』を使うんだよ」

カイは、心棒の先に、木製の杭をいくつも打ち込んだ別の車輪の絵を描いた。

「横に回る心棒の杭と、石臼にくっつけた縦に回る杭を、こうやって互い違いに噛み合わせるんだ。そうすれば、川が縦に回る力が、石臼を横に回す力に変換される……!」

トックは息を呑んだ。

木と木を噛み合わせ、力の向きを変える。それは、長年木を扱ってきたトックでさえ思いついたことのない、高度で、しかし極めて単純な物理法則だった。

「……おい、坊主。お前、この仕組みをどこで覚えた?」

トックは、カイの顔を食い入るように見つめた。

「わからない。でも、僕の頭の中に、ずっとあったんだ」

トックはしばらく地面の図面とカイを交互に見つめていたが、やがてニヤリと、猛獣が獲物を見つけたような笑みを浮かべた。

「……面白ぇ。屋根の修理なんか後回しだ。大工の血が騒ぎやがる。おい、リン!」

「は、はい!」

突然名前を呼ばれ、リンが背筋を伸ばす。

「お前さん、力自慢の猟師の娘だな? 坊主の頭ん中にあるもんを作るには、大量の木材と力仕事が必要だ。俺と坊主の『手足』になれるか?」

リンは一瞬カイと顔を見合わせ、それから太陽のように明るい笑顔で、自分の胸をドンと叩いた。

「任せてよ! カイの知恵を実現するためなら、山の木を全部切り倒してでも持ってくるから!」

***

その日から、三人の壮大なプロジェクトが始まった。

村人たちは「トックと子供たちが、川で何か妙なものを作っているぞ」と遠巻きに見ていたが、三人はそんな視線など気にも留めず、作業に没頭した。

リンの活躍は凄まじかった。

トックが指定した太さの丸太を森から切り出し、大人顔負けの力で引きずってくる。重い石材を運び、組み立ての際にはトックの補助として、重い部材を軽々と持ち上げて支えた。ステータス「1」のカイでは絶対に不可能な物理的なハードルを、リンの無尽蔵の体力と明るさが次々とクリアしていく。

「カイ! 次の板、どう組むの!?」

汗と泥まみれになりながらも、リンの瞳はキラキラと輝いていた。

「その板は、水を受け止める角度が大事なんだ! トックおじさん、もう少し斜め下に向けて固定して!」

「おう、わかってる!」

カイは頭の中にある映像と、現実の木材の動きを照らし合わせながら、ミリ単位の調整を指示していく。

トックの腕も神がかっていた。カイの抽象的な指示を即座に理解し、ノミとカンナを使って、巨大な「水輪」と、精巧な「木製歯車」を狂いなく削り出していく。

数週間が経過した。

真夏の太陽がジリジリと照りつける中、村の共同作業小屋の裏手に、それは完成した。

直径三メートルにも及ぶ、巨大な木製の車輪。

それに等間隔に取り付けられた水受けの板。車輪の中心から伸びる太い心棒は小屋の壁を貫通し、内部で複雑に噛み合う歯車へと接続され、最終的に重い石臼へと繋がっていた。

「……よし。準備はいいか、二人とも」

川の水を堰き止めていた土嚢どのうの前に立ち、トックがゴクリと喉を鳴らした。

「うん!」

カイとリンも、緊張で心臓をバクバクと鳴らしながら頷いた。

いつの間にか、噂を聞きつけた村人たちが、川岸に大勢集まって固唾を飲んで見守っていた。

「行くぞ……放水だッ!」

トックとリンが、川を堰き止めていた土嚢を一気に引き抜いた。

ドォォォッ! と音を立てて、豊かな川の水が、掘られた水路を通って巨大な車輪へと流れ込む。

水が、車輪の下部にある水受けの板に激突した。

ミシ……。

巨大な木製の車輪が、水の重みと圧力に耐えるように、低い軋み音を上げる。

「回れ……回ってくれ……!」

カイは両手をぎゅっと握りしめ、祈るように見つめた。

ミシ、ミシ、ミシ……。

ゆっくりと、本当にゆっくりと。

重力と水の力に押され、巨大な車輪が動き始めた。一枚の板が水に押されて下へ沈み、次の板が水を受け止める。

ザバーッ……、ザバーッ……。

規則正しい水しぶきの音と共に、車輪の回転は徐々に勢いを増し、やがて完全に一定のリズムで回り始めたのだ。

「回った……回ったぞ!!」

トックが両手を突き上げて歓声を上げた。

「カイ! 小屋の中を見て!」

リンに手を引かれ、カイは急いで小屋の中へと駆け込んだ。

そこには、奇跡のような光景が広がっていた。

外の車輪から繋がった心棒が回転し、木製の歯車が『ギゴ、ギゴ』と音を立てて噛み合っている。そして、その歯車に押されるようにして、あの重く、人力では回すのにあれほど苦労した巨大な石臼が、誰も触れていないのに、自動で力強く回転していたのだ。

ゴリ……、ゴリ……、ゴリ……!

リンが震える手で、石臼の上の穴から麦の粒を流し込む。

すると、石臼の下の隙間から、真っ白に挽かれた美しい麦粉が、滝のようにサラサラとこぼれ落ちてきた。

ほんの数分。たったそれだけの時間で、これまで村の女子供が半日かけて挽いていた量の粉が、いとも簡単に出来上がってしまったのだ。

「す、すげぇ……」

「なんだあのからくりは! 川の水が、勝手に臼を回してるぞ!」

小屋を覗き込んだ村人たちから、割れんばかりの歓声と拍手が巻き起こった。

「やったぁぁぁっ! カイ、大成功だよ!!」

リンは感極まってカイに飛びつき、そのまま思いきり抱きしめた。

「わわっ、リン、痛い痛い!」

カイはリンの怪力に骨が軋むのを感じながらも、その顔には満面の笑みが浮かんでいた。

トックも小屋に入ってきて、誇らしげに自分の作った歯車を眺めながら、二人の頭を乱暴に撫で回した。

***

その日の夕方。

水車すいしゃ」と名付けられたその機械の完成を祝して、村では出来立ての小麦粉を使ったパンがたくさん焼かれ、ささやかな宴が開かれた。

重労働から解放された村の女性たちからは、何度もお礼を言われ、カイとリンは村の英雄のように扱われた。

宴の喧騒から少し離れ、カイは一人で小屋の裏手へと歩いていった。

夕闇の中、水車は文句一つ言わず、ただ黙々と回り続けている。

コト、コト、コト。

ザバーッ、ザバーッ。

木が軋む素朴な音と、水が跳ねる優しい音。

その規則正しい音を聞いていると、カイの胸の奥底にあった、ひどく暗くて恐ろしい記憶の残滓が、チクリと痛んだ。

(……鉄が軋む音。爆発の音。人が悲鳴を上げる音)

前世の記憶。それは、すべてを破壊し、蹂躙し、焼き尽くすための、巨大で恐ろしい「暴力の機械」の音だった。あの音を聞くたびに、心は虚無に包まれ、退屈という名の絶望に沈んでいった。

だが、今、目の前で回っているこの機械はどうだ。

誰も傷つけない。何も壊さない。

ただ自然の力を借りて、人々の労働を和らげ、美味しいパンを生み出し、笑顔を作るためだけの、小さくて優しい機械。

「……全然、違うな」

カイは、水車にそっと手を触れた。

木の温もりと、水の冷たさが、手のひらから伝わってくる。

「あんな恐ろしい音より、この『コトコト』っていう音の方が、ずっといいや」

「カイ! 何一人で黄昏れてんの! パンがなくなっちゃうよ!」

遠くから、リンの元気な声が響いた。

「今行く!」

カイは振り返り、明るい焚き火の光が揺れる広場へと駆け出した。

背後では、風と水が回す命の車輪が、いつまでも優しく、村の未来を挽く音を立てていた。

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