31話 どうしても負けられないっぽいんだわ
「・・・さて、そろそろ俺らの番だ。」
この百メートル走を走り切ったら、後にはハンドボール投げを挟んで持久走が待ち構えている。その先の昼飯時を見据え、ここ三科目が踏ん張りどころである。
「揃いも揃って、女子にいいとこ見せるって躍起になりやがって。・・・俺も、気合入れてかないとな!!───」
そして走った百メートル、校庭を震わせるほどの歓声が上がった。
「佐藤天智、9秒49!!」
もちろん、佐藤の方にだ。
「速えええええええっ!?世界記録!?」
「やっぱり・・・区陸七連覇者の『天童』、佐藤天智ってアイツだったんだ・・・。」
アヤメ先生は目を飛び出させているし、アスリート志望の井口も数歩後ずさっておののいている。佐藤は歓声の中で拳を高く掲げ、低い声で叫んで言った。
「───『花壇高校の閃光』、錨壮也ッ!!50の壁は、俺が破ったぞッ!!!」
「え、錨壮也って・・・!!」
誰もが振り向いた先は、記録用の机に両手をついて立ち上がり、ゆっくりと手を打って近づく白衣の男。
「・・・佐藤君、君でしたか。かつての私が越えられなかった究極の壁、九秒台後半の限界を打ち破ってくれたのは。」
「え・・・えええぇぇぇぇっ!?」
大袈裟なほど驚くアヤメ先生と全生徒、長い前髪をたくし上げ、愚直な美青年の面影をどこかに残して笑うイカリ先生に、勝利と称賛を噛みしめる佐藤。そのグラウンド内でどういう顔をしていいか分からずに口を開けっ放していたのは、おそらく大敗者たる俺だけだったのだろう。
「・・・おっと、まだ走者が残っているんでした。私も少々昂ってしまいましたが、すみません。感傷に浸るのは一度ここまでにして、計測の続きをしましょう。」
実に五分後、イカリ先生の言葉でようやく一同の喧騒は収まった。俺はその間素直に称賛したい心持と、既に用済みの引き立て役が口を利いていいものかという疑問とを漂わせ、結果としてただポカンとしていた。
「・・・塩川・・・後でちょっと話があります・・・。」
皆が元の居場所に帰る最中、萌音が俺の横を通り過ぎながら小声で囁いて行った。俺は後頭部を掻いて口元を引きつらせ、ささやかな苦笑いを浮かべたのだった。
(萌音、あの感じだと結構怒ってるな・・・。)
そして、俺はややぎこちない所作でハンドボール投げを終える。佐藤のえげつない記録を聞きに来る人民をいなしきって、残すところあと一科目。女子千メートル、男子千五百メートルの同時持久走、最終過程前の十分休憩がやってきた。俺が一口水を含みに行くと、木陰で手招きする白髪が一人いた。
「どこ行くんだよ」
「いいから、こっち来てください・・・!!」
遠慮がちで温厚な平素の萌音とは打って変わって、彼女は俺の手を強引に引いていく。連れられて行った先は、人気のない部活棟裏の木陰だった。
「なんだよ、萌音。こんなとこに呼び出して」
「私、すっごく怒ってるんです・・・。これ以上もやもやしたくないので、単刀直入に言います。」
萌音は俺に向け、ビシッと人差し指を突き立てて言った。水を貯め続けたダムを、一思いに崩してしまうように。
「───なんですか、あのいい加減な走りは!!」
広葉樹に留まっていた雀たちが、透き通る罵声に煽られて飛び立った。
「・・・そのことか。」
「そうです、分かるでしょう!?百メートル走、佐藤君の記録が前代未聞の9秒49で、塩川は13秒13・・・塩川私より遅いじゃないですか!どういうことか説明してください!!」
脇目も降らずに詰めて来やがった。そういや、こいつはこういう奴だった。
「・・・やっぱ、萌音には気づかれちまうよな。」
「当たり前です!たかが計測だから、本気を出すのが馬鹿々々しかったですか!?それとも佐藤君に勝てないって理由で、全力出すのやめちゃったんですか!?」
曲がったことも許すが好めず、中途半端も譲歩するが決してその道に踏み入れない。俺と長いこと一緒に居た姉崎萌音という幼馴染は、既に愛想も小想も尽き果てさせてしまったためか、俺の怠慢に対しては容赦がないのである。
「佐藤は新たな伝説を残すってのを目標に、今までえげつない記録を連発してたんだ。怠け者の俺が下手に食い下がって、佐藤の世界一に水差したくなかったんだよ。」
俺はフロリス、佐藤や他のみんなの『青春』を護るために戦っている。その『保護対象』を自らの手で壊してしまうなら、身体張ったって虚しいだけだ。
「───それでも私はっ!塩川に頑張って欲しかったんです!!」
「っ・・・」
あぁ、久しぶりだ、この感覚。萌音が素直な感情を爆発させる時の、この清廉で雄々しい声。
「怠け者は頑張っちゃいけないんですか!?一番以外は格好悪いですか!?あの場で塩川だけは・・・自分のために全力を出しちゃいけなかったんですか!?」
ああそうだ、俺はフロリス。自分のために全力を出す暇があるんなら、戦場で死ぬ誰かの代わりに死にに行く役割だ。一位になりたいとか認められたいとか、そういう個性は日常サイドの人間が持ってる財産だろ。人間らしさ全部ひっくるめて護りたいんだ、観戦だって許されてくれ。
だが俺はこの声を聴くと、どうにも心が揺さぶられて落ち着かなくなってくるんだった。
「一人だけ高みの見物決め込まないで・・・塩川だってみんなと一緒でしょ・・・。」
俺だけフロリスならベンチで見守るのだって当たり前、保護対象だ。
「・・・」
木漏れ日は萌音の肩に注いでいる。俺の足元は光が当たらずジメジメしてる。それでいい、それが俺の望みのはずだ。しかし、何だ。何が心を揺らす。
(俺は、日常サイドの景色を護りたい。・・・いや待て、それなら俺は。)
───なんでこっちで平穏な日常なんか送ってんだ?
「・・・本気出すまで、もう口利きませんから!!」
「っ・・・!!」
何かが弾けた感覚に陥って、ハッとした。今まで何度もあった感覚で、何度でも忘れてきた感覚だった。
(萌音に無視されんのは・・・嫌だな。)
俺は自分で思ってる以上のエゴイストだったらしい。俺は、中途半端だ。完璧な立場じゃなかったみたいだ。ちょっと、いやかなり残念だ。
(ったくどうにかなんねぇかな、じれったさ)
でも、目指したらキリねぇとこは追っかけない。
(俺はフロリスだか学生だか分かんねぇ、どうしようもない半端者だけど。・・・萌音が許してくれるぐらいの奴にはなりたい。)
俺は仕方なく口火を切る。
「・・・分かったわぁったよ、学級委員。俺はもう行く。・・・ちょっと時間かけて、ちゃんと靴紐結び直したいからさ。」
萌音のいる木漏れ日の方にずけずけと押し入って、俺は彼女の横を通り過ぎた。
「・・・っはい!!」
彼女がした返事の声色だけでも、この選択に後悔することはないと確信した。ちゃっかり口利かないって言った直後に返事しやがって、ったくアイツらしいや。俺はポケットに手ェ突っ込んだまま、佐藤の元まで歩いて向かった。佐藤は校庭の地面を見つめながら、精神統一するように仁王立ちして風を受けていた。
「・・・塩川。どうした、辛気臭い顔をして。」
そして塩川亮、こいつは風格の違う絶対王者に向かって言い放ったわけだ。
「・・・すまん、佐藤。応援するって言ったけど、やめた。・・・お前が一位取るの、黙って見てるわけにはいかなくなった。次の持久走、俺どうしても負けられないっぽいんだわ。」
「なに・・・?」
「だから、・・・一位は俺が貰う。」
宣戦布告。佐藤からしたら、半端者が大言壮語してるようにしか見えなかったはずだ。しかし佐藤は怒らないどころか、むしろ強く表情筋を動かして笑った。
「・・・やってみろ。」
仰々しいチャイムが、校庭に鳴り響いた。




