本当に嫌ってるんですか?
燕太がバイトを始めて1か月。
初めてバイト代を貰った。
銀行口座は元から作っていたようだが、記帳しても口座開設時の預金金額しか印字されていなかった。
今回、初めて通帳に2行目が印字された。
あの母親に話さなければ。
お小遣いは、もう不要だと。
そして、何故息子にあのような態度なのに、お小遣いは渡していたのかと。
今日はバイトは休みだ。
学校が終わり、燕太は寄り道せずに帰路についた。
「ただいま」
庶民の、いや一般家庭の言葉使いにも少し慣れてきた。
「……お母さん?」
在宅していても、もちろん返事はない事も分かっている。
母親は今日もテレビをぼうっと眺めていた。
今日こそは、ちゃんと話をしなければ。
ずるずると解決しない状態が続いてしまう。
「話があるんだ。実はバイトを始めてて、給料を貰ったんだ」
一瞬、母親の体が強張ったように見えた。
「だから、お小遣いはもう要らない。それにワタシはあんな大金をずっと受け取れない」
「……バイト?給料?」
蚊の鳴くような声で母が呟いた。
「聞かせてほしい。この状況を続ける事をどう思っているのか」
息子を放任しているのに、何故小遣いは渡すのか。
そのように問うと母親は逆上する可能性がある。
エリオットは知らないが、何か決め事があったから、このやり取りの生活になっているのだろう。
それを改めて母親に確認して認識させるような事は避けたい。
「……バイトなんてする必要ないでしょうが」
体を震えさせながら母親は続ける。
「お金なら、あの人が家に振り込んでるでしょ。私が生活費や養育費を子どものために使ってないと思われるじゃない。それとも何?私が家の事もせず仕事もせずにいるから当てつけてるの?嫌味ったらしい方法しか知らないのね」
やはり会話にならない、か。
燕太は肩を落とした。
「道具よ。あの人を繋いでおくための道具。あんたも、あの子も」
母親は急に立ち上がり、燕太の目の前に迫った。
「あんたたちがいるから、あの人は私を捨てられない。でも、あんたたちがいるから、あの人は他所の女と二人きりになって過ごしてる。私の事だけを見てはくれない」
両手を燕太の首に伸ばし、力を込める。
「道具はいつでも処分できる」
「……なに、を」
呼吸が徐々に出来なくなり、声も出せなくなる。
「あんたたちがいるから、あんたがいるから、あんたがいるおかげで、何であんたは」
このままでは、殺される。
抵抗する余力は何とか、ある。
母親の手首を掴み、力を込めて首から手を離そうとした。
離そうとする前に、力が入らなかった。
いや、力を入れられなかった。
燕太の体がそれを拒否していたのだ。
『どうして……』
考察しようとしても、既に意識が遠のき始めた。
「……あんたはあの人の顔にそっくりなのよ!」
母親が両手を離してむせび泣いた。
「かっ……かはぁっ……」
あまりの苦しさに喘鳴が止まらなかった。
「ねえ、許して。あなた。私の気持ちも分かるでしょう?あなたがいてくれるなら、あの時みたいに一緒に暮らせるなら。だから、ねえ、そんな目で私の事を見ないでよぉ……」
母親の目には燕太は映っていなかった。
苦しみながら蔑むような眼で自分を見つめる夫が映っていた。
自室に戻った燕太は状況を整理した。
父親はおそらく不倫をして、相手の女性と暮らしている。家族には生活費を振り込んでいるようだ。その辺り、家族を切り捨てる程の嫌悪は持っていないのだろう。
母親とは離婚していない。今まで家の中を調べてみた結果、それは分かった。あの状態だ、父親は離婚の話がしたくても出来ないのだろう。
母親は父親の事を執着するように愛している。子供は道具と同じ存在価値と思うほどに。
そして最も有力な情報として、母親はひどく取り乱すと燕太を父親だと認識してしまう事。
これは利用価値が高い。
しかし一点、引っかかる事があった。
殺されそうになったにも関わらず、抵抗出来なかった事。
体が自分の意思とは関係なく反応する事はあった。
それはエリオットと『燕太』の意思が共通した時。
つまり、それは母親の存在を拒絶していないという事。
「あの母上を?ワタシが?」
苦笑するしか燕太には方法がなかった。
母に対しての感情を昇華する方法は、今はそれしか知らなかった。
自分の感情は一旦置いておいて、『燕太』は母親の事を嫌ってはいない。
その母親を利用するのは、どうなのか。
『燕太』も母親も傷つける事になる。
別の方法を考えよう。
でなければ、また自分の利害目的だけで動いてしまう。
その夜、燕太は夢を見た。
あれは過去の出来事だ。
6年前、あの戦争が終わった後の事。
フィル国王と軍師の末裔が密会していた場を偶然見つけた時の事。
「これしか見つからなかったか……」
「ああ。信頼出来る傭兵仲間にも捜索を頼んだが、ケイナの姿はなかった」
国王はサファイアのペンダントを握りしめた。
「婚約時に私が贈ったものだが、防御魔法が発動した形跡がない。彼女はこれをあの日から一時も離さず身に着けていたのに……」
「だが、これが事実だ」
国王は嗚咽を堪えた。
「お前には大変な苦労をかけた。礼を言う」
「いや……いいんだ。俺が望んで始めた事だ」
「言葉では足りないな。何か礼をしたいのだが」
「不要だ。もうここにも来ることはない。国も離れる」
軍師の末裔は踵を返し、その場から離れた。
国王は深く頭を垂れていた。
軍師の末裔が出ていこうとする際、物陰に隠れて見ていたエリオットとすれ違った。
その姿が忘れられない。
焼き付いている。憎しみを覚えるほどに。
エリオットが見ていた事に驚かず、無表情で冷たく一瞥した顔。
国王にあれほど深々と頭を下げさせておいて、何も感じていないような振る舞い。
身なりは整えていても、気分が悪くなるほどに体に染みついている血の臭い。
あんな奴、要らない。
もう二度と、あいつの姿は見たくない。
そして国王にここまでの事をさせた張本人である母の事も。




