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警衛高校の作家《リライター》  作者: 稲宮鹿
第1巻 紅の瞳《ルビーアイ》
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9/20

第三章 天秤《リブラ》の執行者 (2)

 帰宅した頃には、西の空が茜色に染まり始めていた。

 今夜の執行は午前一時。まだ八時間近くあるとはいえ、早々に名古屋港へ向かう必要もない。

 執行対象と現場周辺の情報は、一通り頭に入れてある。詳細は現地で確認すればいい。

 時間になれば迎えが来る。

 それまでは、普段通りに過ごしていればいい。

 俺は夕食と風呂を済ませ、読みかけの文庫本を手に取った。

 ここ二日ほどは千歳や琴乃葉に振り回され、帰宅が遅くなることが続いていた。こうして一人で過ごせる時間も、久しぶりに感じる。

 特に琴乃葉については、昨日だけで一週間分の面倒事を持ち込まれた気分である。

 できることなら、しばらく関わらずに済ませたいものだ。

 今日の欠席がその願いを叶えてくれるとは限らない。

 あの女のことだ。明日になれば、何食わぬ顔で隣の席に座っている可能性も十分にある。

 考えるだけ無駄だな。

 俺はベッドに腰を下ろし、文庫本の続きを開いた。

 今夜の仕事が気になって読書に集中できない、なんてことはない。

 仕事は仕事、読書は読書だ。

 今から何を考えたところで、現場の状況が変わるわけでもない。残りは実際に動く段階で判断すればいい。

 せっかくの自由時間を無駄にする理由もない。

 ページをめくる。

 ようやく静かな時間を取り戻したところで、枕元に置いていた携帯が震えた。

 画面に表示されていたのは、千歳の名前だった。

 無視をすると、後から何を言われるか分かったものではないので、仕方なく通話を繋いだ。


『先輩ッ! 大変です!』

「切るぞ」

『まだ何も言ってないです!』

「一言目で大体分かった」

『横暴です! せめて事情を聞いてから切るですよ!』

「じゃあ十秒だけ聞いてやる」

『短いです!』


 電話の向こうで千歳が騒いでいる。分かってはいたが、切羽詰まった用件ではなさそうだ。


「それで、どうした?」

『聞いてくださいです! この前買ったゲームが全然クリアできないんですよ!』

「切る」

『そうは問屋が卸さないです』

「びっくりな切り返しだな。昨日、六時間やってた奴が今さら何と戦ってるんだよ」

『己自身です』

「壮大に言えば誤魔化せると思うな。攻略サイトでもみたらどうだ」

『それが、どうやら今のステージまで進めた人がいないらしくてですね』

「そんな最近発売されたものなのか?」


 今のご時世、発売されたゲームの攻略情報など、調べればいくらでも見つかるだろう。

 それが存在しないとなれば、発売から日が浅いか、よほど知名度の低い作品かと思えば。


『発売自体は五年くらい前です。ただ、余りにもバグが多すぎてまともにプレイできないせいで、世間のクソゲーハンターさん達も諦めた一品なんです』

「——それは、そもそもクリアできるのか?」

『ゲーマーたるもの諦めたら、そこで試合終了なのです!』

「たく、変なところで頑固なやつだ。それなら、ゲームのバグをまず直してみたらどうだ? お前のパソコンスキルがあればできるだろ」

『ッ! 先輩は天才です! 確かにそれならいけますです!』

「自分で言っててなんだが、ゲームをクリアするより先に、ゲーム自体を攻略ってそれでいいのか?」

『勝てば官軍なのです!』

「それ、使い方合ってるか?」

『細かいことを気にしたら負けです。では早速、解析してみるです!』

「まぁ、千歳がいいならいいんだが。それじゃあ頑張ってくれ」

『はいです! あ、先輩先輩』

「なんだ?」

『先輩は明日は学校きますです?』

「残念ながら明日は金曜日だ。行きたくなくても学校はある」

『それじゃあ明日、お昼ご飯一緒に食べましょうです。明日までにクリアして、感想を全部先輩にぶつけるです!』

「勘弁してくれ。感想は三行にまとめろ」

『無理です。最低でも三時間は必要です!』

「なおさら聞きたくなくなった。じゃあな、千歳。また明日」

『はいです! また明日です、先輩!』


 通話を切ると、部屋が静まり返った。

 五年前の欠陥ゲームを買い求め、挙げ句の果てには自分で修正してまで攻略しようとするのだから、千歳のゲームに対する情熱には恐れ入る。

 本人が楽しんでいるなら、それでいいか。

 俺だって、他人から見れば理解しがたいほど読書に時間を費やしている自覚はある。

 人の趣味に口を出せる立場ではない。

 それでも、三時間もゲームの感想を聞かされるのは御免だ。

 明日の昼休みについては、明日考えればいい。

 今夜の予定があるとはいえ、迎えが来るまではまだ時間が残っている。

 俺は携帯を枕元へ戻し、文庫本の続きを開いた。

 静かな部屋に、紙をめくる音だけが響く。

 どうせ数時間後には、嫌でも仕事に集中することになる。

 それまでは、もう少しだけ物語の世界に浸っているとしよう。


              ※


 時刻は二十三時。

 家を出てから数分ほど歩き、近所のコンビニへ到着した。

 駐車場には、事前に聞いていた通り白いワゴンが停まっている。周囲の様子を一通り確認してから近づくと、運転席には見慣れた人物が座っていた。

 俺は後部座席の扉を開け、車内へ乗り込んだ。


「やぁやぁ、執行者! 元気にしてたかい? 学校では虐められていないかい? 会えなくて寂しかったよぉ!」


 扉を閉めるなり喧しい声を浴びせられ、思わず顔を顰める。

 彼女は天秤(リブラ)に所属する掃除屋であり、今夜の仕事を共にする人間だ。

 犬塚と名乗っているが、それが本名なのか偽名なのかすら分からない。

 仕事上の付き合いは長いが、何度顔を合わせてもこの調子である。


「仕事前は騒ぐなと言ってるだろ」

「ごめんごめん。でも、執行者が元気そうで安心したよ!」

「お前のせいで元気がなくなりそうだがな」

「ひどい! せっかく犬塚さんがお迎えに来てあげたのに!」

「そもそもお前の仕事だろ」

「もう、相変わらず冷たいなぁ。少しくらい感謝してくれてもいいんだよ?」

「感謝なら仕事が終わってからいくらでもしてやる」

「言ったね? 絶対だよ!」


 ——余計な約束をしてしまった気がする。

 こいつとまともに会話しようとする方が間違っている。

 普段の言動はふざけているとしか思えないが、仕事の腕だけは確かだ。特に、その能力は掃除屋の役割に恐ろしいほど適している。

 店長さんが加入を認めたのも、そこを評価したからと聞いている。

 ただ、性格に難があるのは別問題だ。

 俺は座席に置かれたトランクケースへ目を向けた。


「装備はこれか?」

「うん。忘れ物もなし! 犬塚さんは仕事ができる女なのです!」

「自分で言わなければ、もう少し評価するんだがな」

「えへへ。それじゃ、褒められたということで!」


 どういう解釈をすれば、そうなるのか。

 俺は溜息を吐きながら、後部座席に置かれたトランクケースを開いた。

 中には、仕事用の装備一式が収められている。

 ただし、武器の類いは一つもない。

 武器は執筆で用意できるため、持ち歩く理由がないのだ。その代わり、身元を隠すための装備には気を遣っている。

 後部座席の窓には遮光カーテンが下ろされ、運転席との間にも簡易の仕切りがある。これなら、犬塚の目を気にせず着替えられる。

 防弾・防刃仕様のインナーに着替え、その上から全身を覆う黒いローブを羽織る。足元を専用の防火靴へ履き替え、両手には黒いグローブ。

 最後に取り出したのは、口から目元を覆う仮面(マスク)だった。

 見た目は仮装用と大差ないが、単なる飾りではない。

 内部に変声機が組み込まれており、装着中は本来の声とは異なる声で会話することになる。

 素顔を隠すだけならローブでも十分だ。俺の場合は声にも気を配る必要があった。

 何しろ、相手にしているのは金と権力を持った連中だ。

 その気になれば、些細な手掛かりからでも身元を探る。

 こちらから余計な情報を与えてやる理由はない。

 俺は仮面(マスク)を装着し、最後にローブのフードを深く被った。

 これで準備は整った。


「おぉー! 完成! 今日も怪しい!」

「褒めてるのか?」

「もちろん! 夜道で会ったら全力で逃げるくらい格好いいよ!」

「それは完全に不審者だろ」

「職務質問されたら終わりだね!」

「縁起でもないことを言うな」


 仕事を始める前から、疲れさせてくれる。

 犬塚は楽しそうに笑うと、車のエンジンを掛けた。

 白いワゴンがゆっくりと駐車場を出る。

 装備を整えた今の俺は、全身を黒で覆った正体不明の人物にしか見えない。

 そこに浅瀬光希の面影はほとんど残っていない。

 学校では、ただの検挙科(アレスト)の生徒。

 今の俺は天秤(リブラ)の執行者。

 組織が下した裁定を実行する、それが今夜の仕事だった。


「それじゃあ、現場へ向かうよ。忘れ物はない?」

「それより、現場の状況を教えてくれ」

「了解、執行者。ここからは遊びなしでいこうか」


 その一言を境に、犬塚の声からふざけた調子が消えた。落ち着いた声が車内に響く。

 切り替えだけは早い奴である。

 俺も背もたれから身体を起こした。


「現在の人数は?」

「倉庫内にいるのは七人。執行対象が二人、護衛が二人。それから、売られる予定の女性が三人です」

「対象は資料にあった売り手と買い手だな?」

「はい。二人とも確認できています」

「護衛については?」

「二人とも能力者。一人は身体強化系で、もう一人は詳しい能力が分かっていません。ただ、どちらも今回の組織に直接所属しているわけじゃないと思われます」

「金で雇われただけか」

「はい。少なくとも今回の裁定には含まれていません」

「つまり、執行対象は二人だけだな?」

「許可が出ているのは売り手と買い手だけです」

「護衛が邪魔をすれば退ける。逃げるなら追わない」

「そちらで問題ありません」


 犬塚の返答に頷く。

 多少の面倒は覚悟しておく必要がある。


「それで、女性たちの状態は?」

「三人とも生きています。多少の怪我はあるみたいですが、今すぐ命に関わるような状態ではありません。倉庫へ運び込まれたのは一時間ほど前です」

「居場所は?」

「倉庫の奥にある事務室。今のところ見張りはいないそうです」

「不用心だな」

「護衛を二人も雇ってますからね。そもそも、取引を邪魔されること自体、考えてないのでは?」


 確かに、これまで何度も捜査の手を逃れてきた連中だ。

 こちらとしては好都合である。

 救出を優先する以上、余計な騒ぎは起こしたくない。


「運び込んだ連中は?」

「既に撤収しています。売り手は必要以上に人を立ち会わせない主義みたいですね」

「買い手は三人をどうやって運ぶつもりなんだ?」

「取引が終わった後、別の輸送班が来る予定です。そちらは、既に手を打ってあります」

「了解」

「ただ、ゆっくりしてると増援を呼ぶ可能性もあるので、お早めに」


 敵が増えれば増えるだけ、救出は難しくなる。

 何より、今回の目的は単に執行対象を排除することではない。

 三人の女性を無事に助け出すことが重要だ。


「ルートは?」

「現場の見取り図は既に送信済みです」


 携帯を取り出すと、倉庫の間取りを示した資料が届いていた。

 正面には大型の搬入口。そのほか東西に従業員用の通用口があり、倉庫中央には執行対象と護衛がいる。

 三人が閉じ込められている事務室は、建物の最奥。

 外に面した窓も一つある。

 資料を頭へ入れながら、経路を確認する。

 正面から入れば、嫌でも護衛たちと鉢合わせる。

 それでは本末転倒だ。

 騒ぎを起こし、三人を危険に晒す理由もない。

 ならば、取るべき行動は決まっている。


「先に三人を逃がす。俺が安全を確認したら連絡するから、犬塚は外で待機していてくれ」

「賢明な判断です。三人を預かったら、そのまま保護班へ引き渡します」

「ああ。任せた」


 犬塚が小さく笑った。

 それ以上の確認は不要だ。

 街の明かりは、いつの間にか少なくなっていた。

 代わりに目立つのは、暗闇の中に並ぶ倉庫とコンテナ。遠くには港湾設備の照明が浮かび、夜の海をぼんやりと照らしている。

 名古屋港——今夜の仕事場だ。

 これまでにも何度も天秤(リブラ)の仕事を引き受けてきたが、慣れたからといって気楽に構えられるようなものではない。

 一つ判断を誤れば、救えるはずの人間を救えなくなる。

 まして、今夜は三人の被害者。

 執行対象のことを考えるのは、その三人を助け出してからでいい。


「そろそろ着くよ。これ以上近づくと目立つから、少し離れたところに停めるね」

「ああ。予定通りで頼む」


 口調を普段通りに戻した犬塚が短く頷き、前方へ視線を戻した。

 白いワゴンが倉庫から離れた場所へ入り、ゆっくりと速度を落としていく。

 車体が止まり、エンジン音が消えると、車内が静かになった。

 現場の状況に変化がないか確かめながら待機し、時計が午前一時を示したところで顔を上げた。

 運転席から振り返った犬塚の表情には、ふざけた笑みはなかった。


「それじゃあ——お仕事、始めようか」

「ああ」


 俺は後部座席の扉へ手を掛けた。


                 ※



 車を降りると、潮の匂いを含んだ夜風がローブを揺らした。

 目先には暗闇に紛れるように、一棟の古びた倉庫が建っている。外壁には錆が浮き、周囲にはコンテナや木製のパレットが無造作に積まれていた。

 昼間なら、港でよく見かける光景の一つに過ぎない。今夜あの中で取引される商品は、輸入雑貨のようなものではない。

 人間が三人。

 本人たちの意思とは関係なく値段を付けられ、これから誰とも知らない人間へ売られようとしている。

 つくづく胸糞の悪い話だ。

 腹を立てたところで状況が好転するわけでもない。今は余計なことを考えず、目の前の仕事に集中するとしよう。

 俺は倉庫から一定の距離を保ちつつ、西側へ回り込んだ。

 犬塚から送られてきた見取り図は既に頭へ入っている。資料と現場が完全に一致するとは限らないため、外から確認できる範囲で建物の配置や人影を確かめていく。

 幸い、事前情報との食い違いは見当たらなかった。

 倉庫中央にいる四人を避け、西側の通用口から倉庫内へ入り込んだ。古い木材と機械油の匂いが鼻を突く。薄暗い室内には大量の木箱や資材が積み上げられ、その向こうから男たちの話し声が聞こえてくる。

 俺の侵入には気づいていない。

 能力者の護衛を二人も雇っている。余程腕に自信があるとみえる。

 まあ、こちらとしてはありがたい。

 油断してくれているなら、その分だけ仕事が楽になる。

 俺は積み上げられた資材の陰を抜け、倉庫の最奥へ向かった。中央から聞こえてくる会話は相変わらず呑気なもので、こちらを警戒している様子はない。

 そうして誰とも鉢合わせることなく、目的の事務室へ辿り着いた。

 見取り図通りの位置に、古びた扉が一つ。

 向こうからは微かな物音が聞こえていた。

 犬塚の情報が正しければ、中にいるのは被害者だけだ。

 俺は周囲に人影がないことを確かめ、扉へ近づいた。鍵は掛かっていたが、蹴破って自分の居場所を知らせてやるほど親切ではない。

 事前に用意していた解錠道具(ピッキングツール)を取り出し、静かに扉を開ける。

 薄暗い室内には使い古された机や棚が並び、その奥で三人の女性が身を寄せ合うように座っていた。

 全員、無事だ。

 今すぐ命に関わるような状態には見えなかった。犬塚から聞いていた情報とも食い違いはない。

 しかし、向こうからすれば話は別だった。

 俺の存在に気づいた三人が、一斉に身体を強張らせた。

 一人は壁際へ身体を引き、もう一人は隣の女性を庇うように身を乗り出す。残る一人に至っては、こちらを見上げたまま動こうともしない。

 当然だ。

 全身を黒いローブで覆い、顔には仮面。しかも、鍵の掛かった部屋へ音もなく入ってきた正体不明の男である。

 我ながら、助けに来た人間には見えない。

 むしろ、連中の仲間と勘違いされても文句は言えない格好だった。

 三人とも手足を拘束され、口元には布が当てられている。まともに会話ができる状態ではない。

 さて、どうしたものか。


「静かにしてくれ。俺は連中の仲間じゃない。今から拘束を外すから、少しだけ大人しくしていてくれ」


 変声機を通した声が室内へ響くと、三人の表情がさらに強張った。

 ——逆効果だったか。

 困ったものである。

 すぐに信用してもらうのは難しい。まずは、助けに来たことを伝えるしかない。

 俺は手を開き、頭の中で一本の小型ナイフを思い描いた。

 ——執筆。

 淡い光が掌に集まり、瞬く間に一本の刃を形作る。

 途端に、三人が怯えたように身を引いた。

 ——しまった。

 今の状況で突然刃物を出せば、こうなるに決まっている。

 仕方なく俺はナイフを見せ、拘束を切るだけだと身振りで伝えた。隣の女性を庇っていた人物が恐る恐る頷き、それを見た残りの二人も小さく首を縦に振る。

 ひとまず了承は得た。

 三人の拘束を順番に切り、口元を塞いでいた布も取り除く。

 最初に解放した女性は、自由になった手を確認すると、すぐに隣の女性へ身体を寄せた。その手を握り、何かを小声で伝えている。

 よく見れば、彼女自身の手も小さく震えていた。

 自分だって怖いはずなのに、他人を気に掛けている。

 最後の一人を解放したところで、俺は執筆したナイフから手を離した。役目を終えた刃が、その場で光の粒となって消えていく。

 すると、隣の女性を庇っていた彼女が恐る恐る口を開いた。


「——あの、警察の人、ですか?」

「違う。ただ、少なくともお前たちを売りに来たわけじゃない。それより、三人とも歩けるか?」

「私は大丈夫です。でも、この子が——」


 女性が心配そうに隣へ視線を向ける。

 そこには、一言も発していない女性がいた。

 目立った外傷は見当たらないものの、顔色が悪い。何より、俺が視線を向けただけで身体を強張らせてしまう。

 これは厄介だ。

 無理に立たせることはできるが、下手に刺激して騒がれでもしたら発見される可能性が高くなる。

 俺は女性の前にしゃがみ込み、できるだけ穏やかに声を掛けた。


「外に仲間がいる。そいつが安全な場所まで連れていってくれるから、もう少しだけ頑張ってくれ」

「——本当に、帰れるんですか?」


 か細い声だった。

 その問いに、俺は僅かに考える。

 帰れるか、か。

 元いた場所へ戻れば、全てが元通りになるわけではない。これから先の生活まで保証することは、さすがの俺にもできなかった。

 ただ、今夜のことなら話は別だ。


「少なくとも、ここには置いていかない。三人とも連れて帰る」


 女性はしばらく俺を見つめていたが、やがて小さく頷いた。

 ひとまず問題ない。

 俺のような不審者に手を引かれるより、隣にいた女性の方が、まだ安心できる。俺はそちらへ視線を向けた。


「悪いが、少し手を貸してくれ。お前が支えた方が、あの子も安心できる」

「——分かりました」


 女性は頷くと、隣に座る彼女の手を握った。

 何事かを小声で話し掛け、ゆっくりと身体を起こす。動こうとしなかった女性も、今度は抵抗することなく立ち上がった。

 やはり、こういうことは適任者に任せるに限る。

 三人とも立ち上がったことを確認し、携帯で犬塚へ合図を送る。程なくして返信が届いた。

 準備はできている。

 事務室には外へ面した窓がある。連中のいる倉庫中央を通って戻る必要はなかった。

 俺は窓の外を確認し、三人へ視線を戻した。


「今から外へ出てもらう。慌てなくていいから、一人ずつ頼む」

「——はい。分かりました」


 女性は小さく頷くと、隣の二人へ声を掛けた。

 幸い、三人とも歩行に大きな問題はなさそうだ。

 俺は窓を開き、一人ずつ外へ送り出していく。

 窓の向こうには、予定通り犬塚が待っていた。もちろん俺と同じ漆黒のローブを深く被っているが。

 普段のふざけた調子は鳴りを潜め、女性たちに落ち着いた声で何かを説明している。

 こうして見ると、あいつも頼れる人間だ。

 普段からそうしてくれれば、俺ももう少し信用できるのに。

 最後の一人が窓を越えたところで、犬塚がこちらへ顔を向けた。


「三人とも預かったよ、後は任せて」

「ああ。俺は予定通り残る」

「気をつけてね」


 犬塚は短く頷くと、三人を連れて倉庫の陰へと歩き出した。

 途中、一人の女性がこちらへ振り返った。

 何かを言いかけたものの、結局言葉にはならなかった。

 別に構わない。

 礼なんて必要ない。三人が無事に帰れるなら、それで十分だ。そもそも、俺の名前も顔も知らないのだから、後から礼を言われることもない。

 俺は三人が見えなくなるまで待ち、静かに窓を閉めた。

 これで人質を気にする必要はなくなった。

 あとは、残された仕事を片付けるだけだ。

 俺は事務室の扉へ向き直る。

 まずは第一目標——救出成功(クリア)だ。


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