第三章 天秤《リブラ》の執行者 (1)
翌朝、教室へ入って最初に気づいたのは、隣の席が空いていることだった。
昨日転校してきたばかりの琴乃葉エイルの席だ。
机の横に鞄はなく、椅子も綺麗に収まっている。単なる遅刻かとも思ったが、ホームルームが始まっても彼女が姿を見せることはなかった。
ここは警衛高校だ。依頼の都合で授業を欠席する生徒も珍しくなく、教師がいちいち事情を説明することもない。
俺が気にする必要もない。
昨日は一日付き合わされた挙げ句、最後には妙な勝負まで持ち掛けられた。
逃げたことで、興味を失ってくれたのなら御の字だ。
今日は、邪魔されずに本が読める。
そう結論づけた俺は、鞄から文庫本を取り出した。
久しぶりに静かな一日を過ごせそうだ。
「光希くん!」
昼休み。
自席でパンを齧りながらページをめくっていると、教室の入り口から聞き慣れた声が飛んできた。
顔を上げれば、薄いファイルを抱えた輝夜がこちらへ歩いてくる。相変わらず周囲の視線を集めているが、本人はまるで気にした様子がない。
その手にある資料には、心当たりがあった。
「それ、昨日言ってた指名依頼か?」
「一通り資料を読んでみたんだけど、ちょっと気になることがあって」
「確か、泥棒の心理分析だったか?」
「最近この辺りで立て続けに起きている窃盗事件なんだけど、どうにも犯人の目的が分からないんだよね」
輝夜がファイルを開き、数枚の資料を俺へ差し出した。
昨日聞いたのは、犯人の行動を分析し、次の犯行を予測してほしいとの依頼だった。
心理分析は輝夜の得意分野である。人の相談に乗ることも多く、相手の立場から物事を考えるのが上手い。
その輝夜が頭を悩ませている。簡単な案件ではなさそうだ。
「金目の物を狙ってるわけじゃないのか?」
「高価な物も盗まれているよ。でも、現金や宝石には手をつけていない事件もあるの。逆に、どうしてそんな物を持っていったのか分からない事件もあってね」
「妙な選り好みをする泥棒だな」
「なんだか、泥棒というより怪盗みたいなんだよね」
「怪盗? 予告状でも残していくのか?」
「ふふっ、そういう意味じゃないよ。手当たり次第に盗むんじゃなくて、何かを選んで持っていってるように思えるんだけど、その基準が全然分からなくて」
輝夜は困ったように笑い、手元の資料を捲った。
確かに、単純な金目当てとして考えるには不自然だ。
泥棒が必ずしも金銭的な価値だけで動くとは限らない。
犯人にしか分からない価値があるとも、盗むこと自体が目的とも考えられる。
今の情報では、どれも推測の域を出ない。
「盗まれた物に共通点は?」
「種類も用途もばらばら」
「なら、盗品だけを見ていても答えは出ないかもしれないな」
「どういうこと?」
「盗めたのに残した物だよ。そっちも比較すれば、犯人が何を基準に選んでいるのか、多少は見えてくるだろ」
「——なるほど。何を盗んだかだけじゃなくて、何を盗まなかったか、だね」
輝夜が頷く。
選ばれなかった物も比較するには、まず犯人が何を盗める状況だったのかを調べる必要がある。
「それを調べるには、現場の情報が必要になりそうだな」
資料だけでは判断できないなら、実際に見て調べるのも一つの手だ。ただし、それをするかどうかは依頼を受けた本人が決めることである。
そもそも、俺は相談に乗っただけだ。
仕事を増やすつもりはない。
「じゃあ、もう少し調べてみるね。また何か分かったら相談してもいい?」
「構わないが、次からは相談料を取るぞ」
「じゃあ明日にでも晩ご飯を作りに行こうかな」
「交渉成立だ」
「安いなぁ、光希くん」
輝夜は楽しそうに笑うと、ファイルを抱え直した。
俺の相談料は、晩飯一食で決まった。
輝夜の料理は普通に美味い。外食するより余程ありがたいし、何より俺が食事を用意する手間も省ける。
これを安いと言うのなら、世の中の物価について一度じっくり話し合う必要がある。
軽く手を振って去っていく輝夜を見送り、俺は読みかけの文庫本へ視線を戻した。
さて、昼休みも残り僅か。
午後もこのまま読書を続けたいが——生憎、昨日は特殊授業をサボってしまった。
さすがに二日連続で欠席すれば、あの魔人に目をつけられかねない。
下手をすれば、補習という名の肉体教育が待っている。
——それだけは勘弁してほしい。
俺は小さく溜息を吐き、文庫本へ栞を挟んだ。
※
警衛高校では、一般高校と同じ教科に加え、警衛として活動するための専門教育が組み込まれている。
捜査、救助、能力犯罪への対処、各種装備の扱い。
学科によって内容は異なるが、俺たち検挙科の場合、犯罪者と直接対峙することを想定した授業が多い。
そして、本日の特殊授業は拳銃を使った射撃訓練だった。
今さら珍しい授業ではない。
二年目ともなれば、実銃を扱うだけで浮き足立つ生徒もほとんどいなくなっている。
それを当たり前だと思っている時点で、俺たちも大概だ。
「今日は射撃か」
屋内射撃場へ向かう途中、隣を歩いていた榊原が軽く肩を回した。
「まだ飽きないのか?」
「飽きるとか飽きないとかの話じゃないだろ。現場じゃ、俺の一発で誰かが助かるかもしれない。何度練習したって、上手くなるに越したことはないよ」
「その一発で誰かを傷つけるかもしれないぞ」
「だから真剣なんだよ」
即答だった。
榊原は俺を見たまま、表情を変えなかった。
こいつにとっては当然の答えなのだ。
榊原拓徒という男は、こういう奴だ。
普段は騒がしく、余計なことに首を突っ込み、妙なところで格好をつけたがる。黙っていれば女子から人気が出そうな顔をしているくせに、中身を知れば知るほど残念さが露呈していく男。
だが正義感だけは本物だ。
困っている人間を見過ごせず、悪事を許さない。自分に力があるのなら、その力は誰かを守るために使うべきだと本気で信じている。
物語の主人公にでも憧れているのかと呆れるくらい、真っ直ぐな男である。
俺には到底真似できない。
「浅瀬、榊原。私語はそこまでだ」
前方から教官の声が飛んできた。
「悪いのは榊原です」
「おい!?」
周囲から笑い声が上がる。
やはり、こいつは静かにしていた方が格好いい。
射撃場へ入ると、生徒たちは教官の指示に従い、それぞれの持ち場へ移動した。
横一列に並んだ射撃区画。その先には訓練用の標的が配置され、周囲は分厚い防護設備で隔てられている。
警衛には非能力者も多く、能力犯罪への対処にも一般的な装備や技術が必要になる。
だからこそ、警衛高校では拳銃を含む各種装備の扱いも学ぶわけだ。
高校の時間割に『拳銃』という科目が存在するのだから、一般人から見れば十分に物騒な学校だ。
「今日は射撃精度を中心に確認する。訓練とはいえ、扱っている物の意味を忘れるな。警衛が武器を持つ目的は、犯罪者を傷つけることじゃない。市民を守り、事件を終わらせるためだ。撃たずに済むのなら、それが一番いい」
教官の言葉に、それまで騒がしかった生徒たちの表情が引き締まる。
隣では榊原が真剣な顔で耳を傾けていた。
あいつにとっては、今さら言われるまでもないことだ。
一方、俺は説明が終わったところで壁際のベンチへ腰を下ろし、持参した文庫本を開いた。
別に教官の話を軽んじているわけではない。
武器の危険性くらい、嫌というほど理解している。
ただ、榊原ほど立派な思想を持ち合わせていないだけだ。
拳銃でも刀でも、武器は武器でしかない。
その価値を決めるのは、結局のところ使う人間だ。
教官の言う通り、撃たずに済むのならそれが一番いい。警衛の立場では、なにも間違っていない。
訓練が始まり、射撃場に乾いた音が断続的に響き始めた。
俺は読書を続けながら、自分の順番が回ってくるのを待つ。
しばらくして、榊原の名前が呼ばれた。
立ち上がった奴は、騒いでいたのが嘘のように真剣な表情をしている。
普段から今みたいに真面目にしていれば、周囲の評価も上がるのに。
肝心の射撃結果も悪くなかった。
標的の中心付近に着弾した記録を確認した榊原は、上機嫌で俺のところへ戻ってくる。
「見たか光希! ほぼ中心だ!」
「二発外してただろ」
「細かいぞ! 犯罪者なら戦意喪失してる!」
「お前の声量にな」
「射撃を褒めろよ!」
訂正しよう。
やはり残念な奴だ。
とはいえ、その実力については素直に評価している。
榊原は元から身体能力が高く、実技の成績も優秀だ。それでいて才能に胡座をかくこともなく、授業にも訓練にも真面目に取り組んでいる。
実際、今の結果も以前より良くなっていた。
まあ、本人に伝えれば調子に乗るだけなので黙っておくが。
「次、浅瀬」
教官に呼ばれ、文庫本を閉じる。
立ち上がると、入れ替わるように榊原がベンチへ腰を下ろした。
「俺より下だったらジュース奢れよ」
「勝手に賭け事を始めるな」
「逃げるのか?」
「安い挑発だな。俺が勝ったら、今度昼飯を奢れ」
「——光希、意外と乗り気だな」
「勝てる勝負の報酬を吊り上げるのは当然だろ」
いつも通りに済ませればいいだけの話である。
指定された射撃区画へ向かうと、教官が記録用の端末から顔を上げた。
「浅瀬、準備はいいか?」
「いつでも」
目の前にあるのは、ただの人型の的。
これといって緊張する理由もなければ、余計なことを考える必要もない。
開始の合図とともに、射撃場へ乾いた発砲音が響いた。
何度も繰り返してきた動きだ。今さら一発ごとに意識を向けるまでもなく、身体が自然に動いていく。
最後の一発を撃ち終え、拳銃を下ろした。
区画を離れようとしたところで、背後から教官に呼び止められた。
「浅瀬」
「何ですか?」
「——お前」
「偶然ですよ」
「全弾、急所に撃ち込んでおいてか?」
「狙う場所は自由ですから」
「——たく」
さすがに気づかれたか。ただ、こんな時は適当に誤魔化す方が無難だ。教官もそれ以上は追及してこなかった。
ベンチへ戻ると、榊原が何とも言えない表情で俺を見ていた。
「光希——」
「昼飯、忘れるなよ」
「そこじゃねえよ!」
射撃場に榊原の声が響き渡った。
直後、教官から叱責され、奴は慌てて口を閉じる。
俺は何事もなかったかのように文庫本を開いた。
拳銃の扱いには多少慣れている。
学校で教わる拳銃は、人を守るためのもの。
榊原も、心からそう考えている。
それは正しい——警衛としては。
俺は次のページへ視線を落とした。
自分の手で、誰かの人生を奪う。
その意味を知らないわけではない。
むしろ、知っているからこそ、あいつのように真っ直ぐな正義を口にすることはできなかった。
榊原の考えを否定するつもりはない。
あいつを見ていると、時々嫌でも自分の立場を思い知らされる。
だからこそ、俺は——榊原を好きにはなれない。
※
放課後。
校門を抜け、ようやく帰宅できると思った矢先、ポケットの中で携帯が短く震えた。
普段使っている携帯ではない。仕事用のものだ。
この番号を知っている人間は限られている。輝夜や千歳からの連絡ではないことだけは確かだった。
周囲を一瞥してから画面を確認すると、そこには意味を成さない文字列が並んでいた。
一見すれば、文字化けした迷惑メールと大差ない。俺にとっては見慣れた形式である。
決められた規則に従って文字列を読み替えると、短い指示が浮かび上がった。
——十六時半。
簡潔な内容だった。
時刻は十五時五十二分。今から向かえば、徒歩でも十分間に合う。
俺は携帯をポケットへ戻し、自宅とは反対方向へ足を向けた。
※
商店街を抜け、遠峰雑貨店の前まで来た頃には、約束の時間まで十分ほどになっていた。
相変わらず、何の店なのか分かりにくい外観である。
店内へ入れば、所狭しと並ぶ商品棚に、床まで侵食した雑貨の数々。売る気があるのか疑わしい品も混ざっており、初めて来た人間なら店主の趣味部屋と勘違いしてもおかしくない。
俺にとっては見慣れた光景だ。
適当に積まれた商品を避けながら、カウンターへ向かう。
「いらっしゃ——なんだ、光希か」
「客に対する第一声としては最低だな」
カウンターの向こうで頬杖をついていた店長さんが、露骨に興味を失った顔をする。
やはり失礼な男である。
「勘違いするな。俺は誰が来てもこの態度だ」
「女優が来てもか?」
「馬鹿野郎。一発狙って、全力で口説くに決まってんだろ」
「そういう欲望に素直なところは尊敬できるよ、店長さん」
「お前もあと十年もすりゃ分かる。男ってのはそういう生き物だ」
「十年後も同じこと言ってたら軽蔑するけどな」
店長さんは鼻を鳴らすと、カウンターの下から煙草を取り出した。
一本咥えたところで、俺が無言で店内を見回す。
その視線に気づいた店長さんが、怪訝そうに眉を寄せた。
「——なんだよ」
「店内禁煙じゃなかったか?」
「店長特権だ」
「都合のいい規則だな」
「は、ここじゃ俺がルールだからな」
黙っていれば整った顔立ちをしているものの、口を開けば女とギャンブルの話ばかり。おまけに接客態度までこの有様なのだから、せっかくの外見も台無しだった。
「それで店長さん。俺を呼んだ理由は?」
「ん? 可愛い光希の顔が見たくなってな」
「見れたな。じゃあ帰る」
「待て待て、冗談だ」
踵を返そうとしたところで、慌てて引き止められた。
暗号まで使って呼び出しておきながら、いつまで遊ぶつもりだ。
「最初からそう言ってくれ」
「世間話も大事だろ。そういや光希、最近ファーストの噂って聞いたか?」
「ファーストって、あの第一級特別捜査班か? いや、聞いてないな」
「やっぱりか」
「そもそも表に出てくるような連中じゃないだろ。構成員の顔も名前も公表されてないし」
「それでも、でかい事件を片付けりゃ噂くらいにはなるだろ」
「言われてみれば、最近は聞かないな」
「だろ?」
「それがどうかしたのか?」
「いや。ちょっと気になっただけだ」
「何だそれ」
「世間話だっつっただろ」
「世間話で物騒な名前を出さないでくれ」
そう返すと、店長さんは小さく笑った。
何を考えているのか分からない、いつもの笑みだ。
第一級特別捜査班。
一般の警衛では対処が難しい犯罪者を専門に追う、特殊な捜査組織である。
俺が知っているのはその程度だ。構成員はもちろん、具体的な活動内容についてもほとんど公表されていない。
そんな組織の噂を、どうして突然持ち出したのか。
気にはなるが、話す気がなければ適当に誤魔化される。
それに、今は別の用件で呼ばれている。
そう考えていると、店長さんが咥えていた煙草を箱へ戻した。
「裏に行くぞ」
「ああ」
それまでの軽薄さが消えた声に、俺も短く答える。
店長さんはカウンターから立ち上がると、入り口に掛かっていた札を『営業中』から『休憩中』へ裏返し、扉に鍵を掛けた。
続けて店内の照明をいくつか落とし、俺へ顎をしゃくる。
ここからが本題だ。
俺はその背中を追い、店の奥へ向かった。
商品棚の間を抜け、関係者以外立入禁止と書かれた扉を開けると、一見何の変哲もないバックヤードが現れた。
段ボールや在庫品が雑然と積まれ、その隙間には古びた机と椅子が置かれている。
何も知らない人間なら、単なる物置としか思わない。
店長さんは机の前まで歩くと、そこに置かれていた一冊のファイルを俺へ放った。
「仕事だ」
受け取ったファイルを開く。
最初に目に入ったのは、数枚の顔写真と個人情報だった。
その後ろには、目を通すだけでも気分の悪くなる記録が続いている。
人身売買、誘拐、監禁。
被害者の人数と、現在も行方が分からない人間の記録。
さらに、それらの事件に関与した人物と組織の情報まで、細かくまとめられていた。
胸糞の悪い案件だ。
ページをめくると、過去にも何度か捜査の手が伸びていたことが分かった。逮捕歴すらあるのに、肝心なところまで辿り着く前に証言が覆り、証拠が消え、事件そのものが立ち消えになっていた。
一度や二度なら偶然で済むが、ここまで繰り返されれば話は別だ。
誰かが意図的に事件を揉み消している。
相当な金と人脈を持った人間が関与していると考えるべきだ。
便利な世の中である。
金さえあれば、犯した罪まで帳消しにできる。
だからこそ、俺がここに呼ばれた。
さらにページをめくり、二枚の顔写真で手を止めた。
「こいつらか?」
「ああ。今回の執行対象だ」
店長さんの返答を聞き、二人の顔を記憶してから残りの資料にも目を通した。
ここまで調べがついていれば、天秤がどのような裁定を下したのか、聞くまでもない。
俺はファイルを閉じた。
「場所は?」
「名古屋港だ」
「時間は?」
「日付が変わって午前一時。寝過ごすなよ」
店長さんの軽口に、思わず口元が歪んだ。
笑ったのか、嗤ったのか。
自分でもよく分からない。
「冗談きついぜ。これを読んだ上で寝過ごせるほど、俺は強くない」
そう告げて、ファイルを机へ戻した。
既に必要な情報は頭へ入っている。
あとは予定通り、現場へ向かうだけだ。
店長さんに背を向け、出口へ歩き出す。
その背中に、静かな声が掛けられた。
「ああ——知ってるよ。だから、お前は『天秤の執行者』なんだ」
俺は足を止めなかった。
天秤。
国から依頼を受け、通常の捜査では対処しきれない案件を秘密裏に引き受ける組織。
対象について徹底的に調査し、その罪を精査したうえで裁定を下す。
そして。下された裁定を実行する人間を執行者と呼ぶ。
俺には人を裁く権利なんてない。
そんなものが欲しいと思ったこともなかった。
ただ、法の手を逃れた人間が、その先でも誰かの人生を踏みにじり続けるのなら。
それを終わらせる人間が必要になる。
俺は人を裁かない。
下された裁きを、執行する。




