第二章 紅の瞳《ルビーアイ》(2)
警衛高校でも、午前中は主に国語や数学といった一般科目を学ぶ。犯罪者を捕まえる技術だけ身につけても、高校を卒業することはできないのだ。
専門授業や依頼は午後からで、本日最後の一般科目は体育だった。
体育館では、床を叩くボールの音とシューズの擦れる音が絶え間なく響いている。担当教師が「球技ならなんでもいい」と言った結果、今日はバスケットボールになったらしい。
——らしい、というのは。
教師本人が「適当にやっとけ」と言い残して、どこかへ消えてしまったからだ。
真面目に参加する生徒は多くない。コートの隅で駄弁る者、ステージの上で昼寝する者、壁際で筋トレを始める者。それぞれが好き勝手に時間を潰している。
かく言う俺もその一人で、体育館の端に腰を下ろし、ダムダムと床を叩くボールの音を聞きながら本を読んでいた。
「やっべえな、琴乃葉さん」
「何メートル跳んでんだ?」
周囲の声につられて本から顔を上げると、コートでは長い紅髪をポニーテールに結んだ琴乃葉が、ゴールへ向かって走っていた。
味方からのパスを受け、そのまま勢いよく床を蹴る。小柄な身体が一気に宙へ舞い、リングまで届いた両手がボールを豪快に叩き込んだ。
ダンッ、とゴールが大きく揺れる。
——どんな脚力してんだ。
体育では事故防止のため、能力の使用は禁止されている。つまり今の跳躍は、琴乃葉自身の身体能力によるものだ。
俺が同じことをやれば、リングに触れるより先に腰を痛めるだろう。
遺伝子変化が身体能力にまで及ぶかは、人によって違う。現に俺は、一般人の平均より多少マシな程度だ。能力者なら誰でもあんな真似ができると思われては困る。
コートでは二対二のミニゲームが行われている。琴乃葉と組んでいるのは佐々木で、相手側には——榊原拓徒がいた。
それだけで琴乃葉側に同情したくなる。
再び本へ目を落とそうとして、ふと手を止める。何となく、琴乃葉の動きに違和感を覚えたからだ。
身体能力そのものは高い。動きも速く、一つ一つのプレーを見れば文句の付けようもないのだが、何故かやりづらそうに見える。佐々木と致命的に噛み合っていないわけではない。ただ、互いの考えている位置が半歩ほどズレているような、そんな微妙なもどかしさがあった。
「あっ」
「おっと」
佐々木の放ったパスが琴乃葉の手を抜け、こちらへ飛んでくる。片手で受け止めたが、本を読んでいたら顔面に直撃していたところだ。
ボールを追って琴乃葉がこちらへ走ってくる。今のパスも佐々木が大きく外したわけではない。ただ琴乃葉は、もう一歩先で受けようとしていた。
なるほど。
琴乃葉の判断に、周囲の動きが追いついていないのか。
その小さなズレが積み重なって、動きの硬さに繋がっているんだな。
近づいてきた琴乃葉へ、ボールを軽く放る。
「貴方、手伝いなさい」
俺は顔を右へ向け、それから左へ向けた。
残念ながら近くには誰もいない。
「断る」
「もう一回断ったら、貴方と付き合ってるって言いふらすわよ?」
「おい、やめろ」
冗談でも洒落にならない。
ただでさえ琴乃葉は、転校初日から校内中の注目を集めている。休み時間になる度、他のクラスどころか別学科の生徒まで教室を覗きに来ていたほどだ。
そんな奴と付き合っているなんて噂を流されたら——想像するだけで背筋に冷たいものが走る。
「もし向こうのチームに勝てたら、お昼を奢ってあげるわ」
「これは立派な脅迫だからな?」
「負けるより断然いいわ」
脅した直後に買収までしてきやがった。
とはいえ、金欠の俺にとって昼飯を奢ってもらえるのは存外に大きい。面倒事と昼飯を天秤に掛け、しばし考えた結果。
——仕方ない。
俺は本を閉じ、重い腰を上げた。
コートへ入ると、既に息を切らしていた佐々木と交代する。
「まさか光希が試合に参加するなんてね」
「脅されたから仕方なくだ」
声を掛けてきたのは榊原拓徒。
百八十センチある長身に、無駄なく鍛えられた身体。階級は金星で、身体能力は学年でもトップクラス。頭の回転も速く、おまけに能力者ときた。
正義感も強く、検挙科二年の実質的なまとめ役。ここまで聞けば非の打ち所のない優等生なのだが——朝っぱらから美少女ゲームに熱中し、現実でも可愛い女を見つければとりあえず口説くナンパ野郎。
そのせいで女子からの評判は絶望的。
残念微笑女と対を成す、残念なイケメンである。
「光希が出てくるなら、俄然負けるわけにはいかないな」
「たかが遊びだろ」
「たかが遊び、でもだよ」
何故か俺が入った途端、榊原のやる気が目に見えて上がった。
勝ちたいなら、俺を入れない方が良かったんじゃないか?
ちなみに榊原の相方は箕浦という男子生徒だ。普段は目立たず口数も少ないが、依頼の完遂率だけは異様に高く、派手さはなくとも警衛としての評価は高い男だ。
「おいおい、浅瀬が参加するぞ」
「あのやる気のないことで有名な浅瀬が?」
「どっちが勝つか賭けようぜ。俺は榊原に千円」
「テメェ、狡いぞ。じゃあ浅瀬が勝ったら二千円寄越せ」
「うちらも混ぜて!」
外野では早くも賭場が開かれていた。
さて、現在五点差。やるからには、昼飯のために多少真面目にやるとしよう。
「マークは?」
「貴方は榊原くんをお願い」
「おい。あの超人を俺がどうにかできると——」
「できるできないじゃないわ。やるのよ」
「へいへい」
「へいは一回!」
へいであることは許された。
そんなやり取りをしている間にも、ボールは榊原へ渡っていた。
「行くよ、光希!」
高速でドリブルをしながら、榊原が左右に身体を振ってこちらとの間合いを測る。
速い。いや、速すぎる。
ボールを目で追うだけでも一苦労だ。
真正面から止めるのは——まず無理だな。
なら絡め手といこう。
「そういえば、一昨日は楽しそうだったな」
「ん? なんのこと?」
「放課後の教室で、神坂とイチャイチャしてたじゃ——」
「ち、違う違う! あれはそういうのじゃなくて!」
「貰ってくぞ」
「あっ!」
慌てて否定した瞬間、榊原のドリブルが僅かに乱れる。その隙に手を伸ばし、ボールを掠め取った。
正攻法で勝てないなら、正攻法に付き合う必要もない。
神坂とは榊原の幼馴染で、輝夜と同じ追跡科の二年生。放課後に二人でいる姿をよく見かけるが、交際関係があるわけではないようだ。
どうでもいい情報を頭の隅へ追いやり、ボールを奪った俺は、琴乃葉にパスを出そうとするが——彼女は既に相手ゴールへ向かって走り出していた。
不思議な感覚だ。
初めて一緒にプレーしているはずなのに、どこへボールを欲しがっているのかが何となく分かる。位置だけではない。高さも、タイミングも、何故か直感的に理解できた。
コートを縦に切り裂くように、ゴールリングの上へ向かってボールを投げる。
「いいパスねっ!」
琴乃葉が跳んだ。
空中でボールを掴み、その勢いのままリングへ叩き込む。
これで三点差。
「うお、すげえアリウープ」
「まぐれだろ。あんな馬鹿みたいなパス、成功する方が珍しいぞ」
俺もそう思う。
華麗にダンクを決めた琴乃葉は、何事もなかったように自陣へ戻ってくる。
「さ、守るわよ」
「俺は仕事したぞ。次はそっちの番だろ」
さすがにもう一度榊原からボールを奪うのは現実的ではない。あの手は、一度だから通用した。
ここは琴乃葉へ丸投げする。
「任せなさい」
箕浦がハーフコートまでボールを運び、すぐさま榊原へパスを出す。しかし、その軌道へ琴乃葉が先回りしていた。
楽々とボールを奪い、そのままこちらへバックパス。
——俺が決めろってことか。
「行かせないよ、光希」
榊原が目の前へ回り込んでくる。腰を落とし、ハーフラインから先へ入れまいと進路を完全に塞がれた。
バスケ初心者が、こいつを華麗なドリブルで抜くのは到底不可能。
だったら、別の方法を使えばいい。
「なぁ、榊原。俺の得意科目を知ってるよな?」
「ああ、射撃だろ」
「ご名答」
「なっ——」
その場からボールを放る。
フォームなんてない。上段投げ。
精密な射撃をするために必要なのは、対象までの距離と射線を正確に把握すること。拳銃とバスケットボールでは勝手がまるで違うが、狙った場所へ物を飛ばす点ではまったく無関係でもない。
ハーフコート付近から放ったボールは高い弧を描き——スパンッ、とリングにも触れずネットだけを揺らした。
これで同点。
「やるじゃない」
「残念ながら次はないぞ。あの距離でも警戒されたら、榊原のジャンプ力なら余裕で止められるからな」
何より、榊原の目が完全に変わっている。スポーツ漫画だったら、目から光が迸りそうだ。
つまり——マジになってやがる。
たかが体育の授業で、どうしてそこまで燃えられるのか。
「——ッ!」
次の瞬間、榊原が一気に加速した。
俺の横を抜け、そのままゴール下までノンストップで駆け抜ける。琴乃葉が正面からブロックへ跳ぶ。
ボールを持っている分だけ榊原の方が空中では不利——そう思った直後だった。
榊原が空中で琴乃葉を軸に一回転して、そのまま片手でボールをリングへ叩き込んだ。
着地した琴乃葉が、唖然とした顔で榊原の背中を指差す。
「なによ、あれ」
「あれは創作の主人公とか超人の類だ。深く考えない方がいいぞ」
残り時間から考えて、次が最後のプレイになる。
今の得点で点差は二点。勝つならスリーポイントが必要になるが、本気になった榊原を前に普通に決められるとは思えない。
「私に案があるわ」
琴乃葉が小声で作戦を伝えてくる。
上手くいけば——いや、こいつならやるか。
ゲームが再開し、俺がボールを運び、その間に琴乃葉は一気に敵陣へ入り込む。
榊原は俺をマークしながらも、彼女の動きを警戒して距離を取っていた。
それでも榊原なら、俺がシュートを放った瞬間に詰められる距離だ。
——作戦開始だ。
琴乃葉がこちらへ走ってくる。すれ違いざまにボールを渡すと、それに合わせてマークが入れ替わった。
ここまでは予定通り。
琴乃葉はドリブルで榊原を抜く——と見せかけ、こちらへボールを戻した。
受け取った瞬間、ノータイムでゴールへ向かって放る。
これはシュートじゃない。
琴乃葉へのパスだ。
「だと思ってたよ!」
榊原はそこまで読んでいたらしく、琴乃葉の進路を塞ぐように空中へ飛び出した。いくら琴乃葉の身体能力が高いとはいえ、検挙科でも屈指の身体能力を持つ榊原と真正面からぶつかれば、弾き飛ばされるのは目に見えている。
「ええ、私もよ!」
琴乃葉はボールを取らなかった。
空中で腕を振り抜き、飛んできたボールへ肘打ちを叩き込む。
プロ選手が顎を外す様なプレイだ。
弾き返されたボールは、狙い澄ましたようにこちらへ一直線に飛んできた。
榊原は空中。
箕浦は琴乃葉へ意識を向けている。
俺は完全にフリー。
——終わりだ。
昼飯の掛かったシュートを放つ。
綺麗な軌道を描き、ボールがゴールへ向かって飛んでいく——はずだった。
ドゥンッ!
床を踏み砕くような音が、体育館全体を揺らした。
「上昇ッ!」
さっきまで離れた場所にいたはずの榊原が、あり得ない速度で俺の眼前へ現れ、そのまま跳び上がると、ゴールへ向かっていたボールを真上から床へ叩き落とした。
「————」
「あれ?」
体育館が静まり返った。
床へ叩きつけられたボールが、ぽん、ぽん、と間の抜けた音を立てて弾む。その音と、何が起きたのか理解していない榊原の素っ頓狂な声だけが、やけに大きく聞こえた。
数秒の沈黙を挟んで——。
「能力使うのは反則だろッ!」
検挙科全員からの総ツッコミが、体育館いっぱいに響き渡った。
※
体育の授業が終わる頃には、昼休みを告げるチャイムが鳴っていた。
能力を使った榊原は反則負けとなり、結果だけ見れば俺たちの勝利。これで昼飯代が浮く——と、俺としては満足のいく結果だったのだが、琴乃葉はそうでもないようだ。
「納得いかないわ」
「勝ったんだからいいだろ」
「よくないわよ。最後のシュートで勝つはずだったのに、反則で勝敗が決まったじゃない」
「勝ちは勝ちだろ」
「貴方、勝負事に情緒ってものがないの?」
「腹は情緒じゃ膨れないからな」
「現金な人ね」
「自分に正直と言ってくれ」
そんな軽口を言い合ったあと、琴乃葉は約束の昼飯を買いにいってくれた。
警衛高校の食堂は校舎一階にあり、昼休みになると各学科の生徒で一気に混雑する。依頼の都合で昼食の時間がずれる生徒も珍しくないため、一般的な高校より営業時間は長いが、それでも今が一番混み合う時間帯だ。
どうにか空いている席を確保して待っていると、琴乃葉が二人分の昼食を載せたトレーを持って戻ってきた。
「ほら、約束の昼食よ」
「待遇に差がないか?」
俺の前へ置かれたのは、三百円のかき揚げうどん。
対して琴乃葉の手元には、八百円のBLTサンド。
「活躍に応じた報酬よ」
「詐欺師の才能があるな」
「褒め言葉として受け取っておくわね」
別に文句を言うほどでもない。元々昼飯代が浮けばそれで十分だ。
しばらくうどんを啜っていると、妙に周囲から視線を感じることに気づいた。正確には俺ではなく、真正面に座る琴乃葉へ向けられている。
「それより琴乃葉は気にならないのか?」
「なんのこと?」
きょとんとした顔で首を傾げる。本当に気にしてないようだ。
転校初日から、琴乃葉の存在は既にそれなりの噂になっている。何より紅い髪と瞳は人混みの中でも嫌でも目立つ。男子だけでなく女子からも好奇の視線が集まり、その真正面で飯を食っている俺までついでに観察されていた。
非常に居心地が悪い。
「まぁいい。俺は飲み物を買ってくる」
「私はアイスの缶コーヒーで」
「都合良くパシリに使うな」
「ケチな男は嫌われるわよ?」
「——ったく」
かき揚げうどん、と喉まで出かかったが何とか堪える。奢ってもらった手前、缶コーヒー一本くらいで文句を言うのも大人げない。
席を立って食堂内の自動販売機へ向かい、アイスコーヒーを二本買っていると、横から聞き慣れた声が飛んできた。
「先輩が学食に来るなんて珍しいですね」
千歳だった。
視線を落とせば、昨日買った指輪が右手の指に嵌められている。昨日は人差し指に嵌めていたが、収まりが悪かったのか右手の薬指へ移していた。
気に入ったようで何よりだ。
「そっちこそ学食は珍しいんじゃないか?」
「実は寝坊しちゃいまして。コンビニでパンを買う余裕もなかったんです」
「昨日は夕方から歩き回ってたからな」
「お陰さまでゲームが六時間しかできなかったです」
「自業自得だな——俺は戻るぞ」
昨日の買い物より、その後の六時間のゲームが原因だと思うが、指摘したところで聞く耳を持つとも思えない。
それより、このまま立ち話を続けていると、せっかく奢ってもらったうどんが伸びる。
缶コーヒーを持って席へ戻ろうとすると、とことこと後ろから足音がついてきた。振り返れば、当然のような顔をした千歳も立ち止まる。
「早く行きますですよ?」
逆に不思議そうな顔で急かされた。
昼食を共にすることは、千歳の中で既に確定事項のようだ。
まぁ、今更追い返す理由もない。
「遅かったじゃ——後ろにいるのは幽霊とかじゃないわよね?」
俺の後ろを見て一瞬だけビクッとする琴乃葉。
「安心しろ。ちゃんと生身の人間だ」
「うぅ——」
幽霊と間違われた残念微笑女は、人見知りを発揮して俺の背中に隠れて呻いている。
こうなる予感はしていたが、多少なりとも改善する良い機会だと思い、琴乃葉がいることを知らせずに連れてきた。
説明するのが面倒だったわけでは——きっとない。
「な、なんで先輩が知らない女性とご飯を食べてるんですか! しかも昨日、私に調べさせた人ですよねッ」
そんな千歳は、俺の耳を口元まで引っ張り小声で文句を言ってきた。
そもそも、飯を奢ってもらうだけで一緒に食べるとは思っていなかったのは俺も同じなのだから、文句は琴乃葉に言ってもらいたい。
「成り行きでな。一応年上相手なんだから、挨拶くらいしとけ」
「——うぅ」
千歳は目をきょろきょろと彷徨わせていたが、逃げ道がないと悟ったのか、諦めたように俺の横へ出ると、おずおずと琴乃葉へ頭を下げた。
「あ、あの! 探索科一年の千歳雪名です。よろしくお願いしますです」
「ええ、こちらこそ。検挙科二年の琴乃葉エイルよ。転校生でまだ分からないことも多いから、教えてもらえると助かるわ」
「は、はい! 任せてくださいです!」
緊張で声が上擦っている。慣れるまでには時間がかかりそうだ。
「ほれ、注文の品だ」
「ありがとう」
琴乃葉へ缶コーヒーを渡して席へ戻り、俺もようやく昼食を再開する。
しかし、目を離した隙にうどんは汁を吸ってすっかり伸び、かき揚げも形を失い始めていた。
——切ない。
千歳はまだ昼食を買っていなかったらしく、それを知った琴乃葉が「お近づきの印に」と奢ることになった。俺の背中に隠れていた千歳も、昼食を奢ってくれると分かれば多少は警戒心が薄れたらしく、琴乃葉と一緒に券売機へ向かっていく。
ようやく静かになった。
今のうちに伸びきったうどんを片づけよう。
「あれ、光希くん。今日は学食なんだね」
顔を上げると、弁当袋を手にした輝夜が立っていた。
今朝、校門で別れたばかりだが、昼に顔を合わせるのは珍しい。普段なら互いに図書室で済ませてしまうことが多いのだ。
「輝夜も今から昼飯か?」
「うん。空いてる席を探してたところなんだ」
「なら、ここで食えばいい」
「いいの? 誰かと一緒じゃない?」
輝夜が向かいのトレーへ目を向ける。
「千歳と、今日転校してきた奴だ。今は二人で昼飯を買いに行ってる。席は空いてるから、お前もどうだ?」
「あ、紅い髪の転校生さん? 私のクラスでも話題になってたよ」
「もう追跡科まで広まってるのか」
「うん。光希くんと同じクラスだったんだね」
「残念なことにな。戻ってきたら紹介する」
「ふふっ。じゃあ、ご一緒させてもらうね」
輝夜は空いている席へ腰を下ろし、弁当箱を取り出した。
琴乃葉は朝からあれだけ人に囲まれていたのだ。隣の棟まで噂が広まっていても不思議ではない。
俺のことまで余計な話が回っていなければいいが。
輝夜と午前中の授業について話しながら、止まっていた箸を動かす。
食堂の混雑も幾分落ち着いてきた頃、琴乃葉と千歳が昼食を受け取って戻ってきた。
「あ、輝夜さんです!」
「雪名ちゃん、こんにちは」
千歳の声が明るくなる。
琴乃葉の前では借りてきた猫のようだったが、知った顔が増えて安心したのだろう。輝夜とは昨日の依頼に限らず、何度も顔を合わせている。
「お知り合い?」
琴乃葉が輝夜へ会釈をしてから、俺に尋ねた。
「読書仲間だ」
「初めまして、三嘉月輝夜です。二年の追跡科だよ」
「琴乃葉エイルよ。よろしく、三嘉月さん」
「うん、よろしくね」
琴乃葉が元の席へ戻り、千歳も残った席へ腰を下ろす。
三人はそのまま話し始めた。
ちなみに、琴乃葉が千歳に奢った昼食は——俺と同じ、かき揚げうどんだった。
いや、かき揚げうどんは美味いんだがな。
千歳が箸の袋を開ける横で、輝夜は弁当箱を少し手元へ寄せた。四人分の昼食が並ぶと、卓上も随分賑やかになる。
「琴乃葉さん、学校はもう見て回った?」
「まだ教室と体育館くらいね。棟が多くて、覚えるのが大変そうだわ」
「そうだよね。私も最初はよく迷ったから」
「輝夜さんでもですか?」
「うん。教室を間違えて、知らない先生の授業を受けそうになったこともあるよ」
千歳が笑い、琴乃葉もつられるように笑みをこぼした。
成績は学年一位、教師からの信頼も厚い輝夜だが、何でもそつなくこなすわけではない。本人は隠す気もないらしく、失敗談を話す顔も楽しそうだった。
「私も気をつけるわ。転校初日から、知らない教室で返事をしたくないもの」
「迷ったら、その辺の奴に聞けばいい」
「あら、貴方が教えてくれるの?」
「犬のおまわりさんを紹介してやる」
「確かに貴方よりは役に立ってくれそうね」
紅い髪と瞳を持つ転校生に、校内に親衛隊まで存在する大和撫子、そして黙っていれば大人しそうに見える残念微笑女が仲良く笑う。
ただでさえ目立っていたところに二人が加わり、周囲の注目はさらに集まった。特に、輝夜の親衛隊らしき連中からの視線が痛い。
もはや殺気に近い。
俺は三人の会話を横目に、ようやく伸びきったうどんを食べ終え、会話に混ざるのも野暮なので、鞄から本を取り出した。
アニー・レニー著——『|醜悪故の世界《Optimus World》』。
「それって、この前話してた人の本?」
「ああ。昨日手に入ったんだ」
「でも、洋書かぁ。ちょっと私には読めないかな」
輝夜も俺と同じ読書家ではあるが、好むジャンルは少し違う。純文学や恋愛小説を好み、文章の情緒や人物の機微を楽しむタイプで、洋書にはあまり手を出さない。
「貴方、洋書も読めるのね」
「ある程度はな」
「へぇ、意外ね」
読むだけなら特に困らない。
会話もできるが、そちらは人前で披露したいものではなかった。海外で暮らしていた頃の環境がよろしくなかったせいで、俺の英語は訛りもスラングも酷い。意思疎通には困らないが、学校の授業で使えば教師から発音より先に言葉遣いを注意される自信がある。
「どんな内容なんですか?」
「そうだな。簡潔に言えば、正義のために殺人を犯した男が、罪を隠しながら生きていく話だ」
「な、なんか怖いお話ですね」
「罪と罰みたいなお話なのかな?」
輝夜の言葉に、小さく頷く。
主人公は強い正義感を持った男だ。
法では裁けない人間を自らの手で殺し、それを正しい行いだと信じていた。世の中から悪を減らしているのだから、自分のしたことは間違っていない——そう自分に言い聞かせながら、罪を隠して日常を生きていく。
しかし、どれだけ正当化したところで、人を殺した事実まで消えるわけではない。
自分の行いは正義だったのか。
それとも、ただ自分の正義を他人へ押しつけただけなのか。
答えを出せないまま、男は罪と後悔を抱えて生き続ける。
そんな物語だ。
「如何なる理由があれ、人を殺めた者は法の裁きを受けるべきよ」
それまで黙って聞いていた琴乃葉が、アイスコーヒーの缶をテーブルへ置いた。
「真面目なんだな」
「当然のことでしょ?」
即答だった。
正義を振りかざしているわけでも、俺たちに同意を求めているわけでもない。ただ琴乃葉にとっては、それが疑う必要すらないほど当たり前のことなのだろう。
俺はしばらく琴乃葉を見た後、何も言わず本へ視線を戻した。
——如何なる理由があれ、人を殺めた者は法の裁きを受けるべき。
ただの小説に対する感想だ。
その言葉だけが妙に耳に残った。




