第二章 紅の瞳《ルビーアイ》(1)
「光——起きて」
「ん——」
「光希くん! おーきーて!」
耳元で名前を呼ばれ、意識が深い眠りの底から引き上げられる。
重い瞼を開くと、こちらを覗き込む漆黒の瞳が映り込んだ。
「——いつから不法侵入するような悪い女になったんだ」
「違うよ。寝坊助さんを起こしに来てあげた、優しいお友達だよ」
輝夜はくすりと笑い、俺の腕を掴むと、半ば強引に身体を起こしてベッドの縁へ座らせた。
欠伸を噛み殺しながら目元を擦ると、ぼやけていた視界が徐々に晴れ、見慣れた少女の姿がはっきりしてきた。
三嘉月輝夜。
腰まで伸びた漆黒の髪に、同じ色の瞳。
整った容姿もさることながら、学力テストでは毎度学年一位。図書委員長まで務め、教師からの信頼も厚い。
まさしく才色兼備。
古風な言い方なら、大和撫子がぴったりだ。
——ただし。
「いや、それと男の家に週一で侵入するのは別の話だろ」
「あ、朝ごはんできてるよ」
「おい」
華麗に話を逸らした輝夜は、何事もなかったかのようにリビングへ歩いていった。
逃げやがった。
安さと学校への近さだけでこのアパートを選んだのは失敗だったかもしれない。
もっとも、入学前の俺に『ピッキング技術を持った同級生が週一で侵入してくる』なんて未来を予測しろとは無茶な話だ。
首と肩を軽く回して立ち上がると、ベッドの横には何故か綺麗に畳まれた制服が置かれていた。
——いつからいたんだ。
深く考えると負けな気がして、そのまま袖を通す。
警衛高校の制服には、防刃・防弾性能を持つ特殊な繊維が使われている。
見た目こそ普通の学生服と大差ないが、生地は多少厚い。夏場にはありがたくない代物だ。
それでも、昨日のようにいつ犯罪者と鉢合わせるか分からない以上、文句ばかりも言っていられない。
警衛にとって、この制服は学生服であると同時に命綱でもある。
「ほーら、早く顔洗ってご飯食べて! 洗い物する時間なくなっちゃうから!」
リビングから、母親じみた声が飛んできた。
「分かったよ」
人の家に勝手に入り、勝手に朝食を作り、挙げ句の果てには寝坊まで叱る。
相変わらず世話焼きにも程がある。
とはいえ、せっかく作ってくれた料理を冷ますのも悪いので、俺は洗面所へ向かい、眠気の残る顔を冷水で洗った。
※
食器を洗い終えた頃には、もう家を出る時間だった。軽く寝過ごしたせいで、朝食後にゆっくりする暇もない。
「じゃあ、昨日の依頼は成功したんだね」
「ああ。本当に偶然だけどな」
「鳥類の帰巣本能なのかな?」
「普段が不運だからな。偶の幸運だと思っておくさ」
昨日のインコ捕獲について話すうちに、見慣れた警衛高校の校舎が見えてきた。アパートから学校まではそう遠くない。
「あ、そうだ! 今日は図書室には行けないんだ!」
「珍しいな」
輝夜は放課後の大半を図書室で過ごしている。
図書委員長だから——というだけではなく、家で一人きりで過ごすのが、あまり好きではないらしい。
そのせいか、校内では『図書室の主』なんて呼ばれることもある。
さらに真偽不明の噂まであり、利用者の減少で閉鎖寸前だった図書室が、輝夜が頻繁に顔を出すようになってから男子生徒で賑わい始め、閉鎖を免れた——とか。
本当なら、一人の読書家として感謝しかない。
「ちょっと指名依頼が入っちゃってね」
「なるほど。さすがは優等生だな」
輝夜は追跡科に所属している。
犯罪者の追跡や行動心理、諜報活動などを専門とする学科で、階級は銀星。在校生の約五パーセントしか到達しない上位階級だ。
その銀星から、さらに十人に一人しか昇れないのが金星。そこまで至れば、犯罪捜査の指揮権まで認められる。
俺のような赤星とは違い、優秀な生徒には指名依頼も珍しくない。
指名されたからといって必ず受ける必要はないが、断り続ければ評価にも響く——逆に依頼をこなせば、それだけ階級を上げる機会にもなる。
「放課後に光希くんに会えないのは寂しいけどね」
「いつから俺の彼女になった?」
「私を救ってくれた時からかな?」
「存在しない過去を作り出すな」
「これから起きることかもしれないよ?」
「俺はそんな大層な役を担える器じゃない」
「ふふ、そんなことないよ」
朝の校門に、輝夜の声がよく響く。
まだ登校している生徒が少ないとはいえ、当然ゼロではない。
ただでさえ、三嘉月輝夜親衛隊なる集団が存在すると、残念なイケメンから聞いたばかりなのだ。
余計な誤解を招けば、俺の平穏な学校生活がさらに遠のく。
——それはともかく。
「現場には出ないんだよな?」
「大丈夫だよ。難易度も黄星だし、最近この辺りで話題になってる泥棒の心理分析みたいだから」
心配が顔に出ていたのか、輝夜は現場へ出るかどうかだけでなく、依頼の内容まで教えてくれた。
心理分析が中心なら、危険な現場へ直接赴く可能性も低いだろう。
それなら問題ない——とは思うが。
「そうか。でも気をつけろよ。輝夜は拳銃すらまともに使えないんだから」
「うっ——」
痛いところを突かれたらしく、輝夜が露骨に顔をしかめる。
容姿端麗、成績優秀、人当たりもいい。
天から二物どころか三物くらい与えられた輝夜だが、運動神経だけは綺麗に置き忘れてきたらしい。
体力そのものがないわけではない。
単純に動く物を捉えたり、自分の身体を思い通りに動かしたりするのが致命的に苦手なのだ。
俗に言う運動音痴だ。
「と、そろそろ教室に行くか」
「そうだね」
校内の時計を見ると、始業まで残り十分。
警衛高校は敷地が広い。
余裕をこいていると、校門をくぐってから教室までの移動だけで遅刻しかねない。
輝夜とはここで別れる。
「じゃあ、またね。光希くん!」
「ああ。依頼、気をつけろよ」
軽く手を振る輝夜を見送り、俺は検挙科の教室へ向かった。
※
検挙科の教室の扉を開くと、喧騒が耳を打った。
「なぁ、九ミリ弾余ってる?」
「余ってるけど、入り用ならカモるぞ」
「ぬぉー。背に腹は代えられない! 持ってけ泥棒!」
銃弾を消しゴムか何かのように売り買いする者。
「おい! 報酬は折半って話だっただろ!」
「悪いな。賭けで増やそうとして溶けた」
「んだと、コラ!」
「まぁ待て待て。次の賭けは堅い。勝てば元の報酬の倍どころか十倍だぞ?」
「マジか! 俺も一枚噛ませろ!」
依頼で得た報酬を巡って揉めたかと思えば、懲りずに次のギャンブルへ走る者。
「あああ、空ちゃんマジ天使。早くキスさせ——なんで振られた! どこで選択肢を間違えた! 空ちゃん行かないで! 空ちゃーん!」
朝っぱらから携帯ゲーム機で美少女ゲームをプレイし、画面の中の女に本気で振られている残念なイケメン。
他にも拳銃を分解して手入れする者、机の上でナイフを研ぐ者、朝から筋力トレーニングに励む者。
色物ずらりと勢揃いだ。
警衛高校において、生徒が許可された銃器や武器を所持すること自体は珍しくない。
それでも、朝の教室で見る光景として正しいかと聞かれれば、首を縦には振れないが。
俺は騒がしい連中を横目に、窓際最奥にある自分の席へ腰を下ろした。
ここは、ただでさえ問題児の多い警衛高校の中でも、特に癖の強い人間が集まる検挙科。
情報収集を担う探索科や、追跡・行動分析を専門とする追跡科とは違い、仕事は極めて単純だ。犯罪者のいる現場へ赴き、制圧し、逮捕する。
入学条件は驚くほど緩い。筆記試験の要求水準は他学科より低く、身体能力も高校生の平均程度で構わない。戦闘に有用な能力があれば、その条件にも考慮が入る。
それでも志望者は多くない。昨日の強盗のような能力者を相手に、現場で生き残らなければならないからだ。依頼の難易度が実際の危険度と食い違うこともあり、判断を一つ間違えれば、高校生だろうと容赦なく死ぬ。
門戸が広くても、全員が卒業まで残れるわけではない。もっとも、普通の高校に居場所を作れなかった人間でも受け入れてくれる場所だと考えれば、悪い面ばかりでもない。
考え事をしていると、始業を告げるチャイムが鳴った。
教室の扉が開き、好き勝手に騒いでいた連中が一斉に口を閉ざした。
協調性の欠片もない検挙科にも、数少ない共通認識がある。
——魔人をイラつかせるべからず。
下手をすれば、当事者以外まで巻き添えを食らう。
全員、それを身をもって知っていた。
「そんじゃホームルームを始める——と言いたいところだが、嬉しいサプライズだ。入っていいぞ」
嫌な予感しかしない。
その直感の答え合わせに、教室へ一人の少女が入ってくる。
長く鮮やかな紅髪と、同じ色を宿した双眸。
昨日、職員室ですれ違った——紅の瞳。
「——嘘だろ」
思わず天井を仰いだ。
見間違えるはずもない。
昨日、たった一度すれ違っただけで、俺に恐怖心を植え付けた少女がそこにいた。
「さて、面食らった奴が多くて何よりだ。挨拶してやってくれ」
魔人は教卓の椅子を引っ張り出すと、そこへどっかり腰を下ろす。
少女は教室を見渡してから、綺麗に一礼した。
「ご紹介にあずかりました。琴乃葉エイルです。東京警衛高校からの転校です。本日からよろしくお願いします」
淀みのない挨拶。
慣れているのか、四十人近い人間から視線を向けられても一切物怖じしていない。
挨拶が終わると、教室のあちこちから拍手が上がった。
紅髪紅瞳。
その特徴的な容姿を、検挙科の連中が見逃すはずもない。
遺伝子変化自体は珍しくないが、ここまではっきりと容姿に現れる能力者は極めて稀だ。
——転校生か。
こんなことなら、千歳の提案を受けて少しくらい調べておくべきだったかもしれない。
まぁ、過ぎたことを考えても仕方がない。
俺としては、今後関わるつもりもないし、他のクラスメイトと同じように、適度に距離を置けばいいだけだ。
「せっかくだし、一時間目は自習にしてやる。その間にコミュニケーションでも取っとけ。他の時間に騒ぐようなら容赦なく潰すからな」
教師が生徒に向かって『潰す』はどうなんだ。
おそらくクラス全員が同じことを思っただろう。
誰一人、口には出さなかったが。
そんな物騒な言葉にも動じず、琴乃葉が小さく手を挙げる。
「私の席はどこでしょうか?」
「あー、そうだな。ちょうどこの前、退学になった奴の席が空いてたか」
魔人が教室を見渡し、一つの空席を指差した。
その席の元持ち主は、検挙科の中でも特に評判が悪く、追い詰めた犯罪者から金を巻き上げて、押収すべき物まで持ち逃げして退学。
今頃は学生ではなく、別の立場で国の世話になっているだろう。
問題なのは、そいつが使っていた席が、俺の隣だってことだ。
「分かりました」
魔人に答えた彼女と、一瞬だけ視線がぶつかる。
その口元が、ほんの僅かに歪む。
——笑った?
俺を見た瞬間、笑みを浮かべた気がした。
そして、彼女がこちらへ歩いてきたことで、もう一つ気づく。
胸元に付けられた星形の校章。
その色は——金。
「——マジかよ」
金星。
警衛高校で至れる最高階級だ。
尚更、関わりたくない。
そんな俺の願いなど知る由もなく、彼女は隣の席へと腰を下ろした。
そして鞄を置くなり、こちらへ顔を向ける。
「奇遇ね。昨日、職員室ですれ違ったわよね」
「気のせいじゃないか?」
「間違いないわ。貴方みたいなやる気のない顔が二人もいるとは思えないもの」
「双子なんだ。きっと昨日会ったのは弟だな」
「嘘。すぐバレる嘘をつくのはタラシの手口よ?」
「生憎だが、俺に複数人を相手できる甲斐性はないぞ」
「ええ、見れば分かるわ。一人でも難しそう」
「余計なお世話だ」
初対面同然の相手にひどい言われようだった。
しかし、琴乃葉は気を悪くした様子もなく、こちらへ右手を差し出した。
「隣の席が面白い人で良かったわ。名前を聞いてもいいかしら?」
適当に会話していれば、頭のおかしい奴だと判断して興味を失ってくれるかと思ったが——逆効果だったみたいだ。
クラスメイトが見ている手前、差し出された手を無視するわけにもいかず、仕方なくその小さな手を握り返す。
「浅瀬光希だ。階級は赤星だから、金星の琴乃葉と同じ依頼を受けることはまずないだろうが、普通の同級生として接してくれ」
要約すれば、格下なので放っておいてくれ。
そう伝えたつもりだったが。
「階級なんて飾りよ。下げる分には、いくらでも調整できちゃうんだし」
「どういうことだ?」
「あら、そのままの意味よ? 私の名前はもう覚えてるみたいだし、大丈夫よね?」
「ああ」
琴乃葉は小さく笑うと、握っていた手を離した。
それを合図にしたかのように、会話が終わるのを待っていたクラスメイトが、一斉に彼女の周囲へ押し寄せた。
俺はその喧騒を横目に、先ほどの言葉を反芻する。
——階級なんて飾り。
俺が意図的に階級を落としていることは、既に知られているようだ。それ自体は検挙科の連中も知っているし、隠しているわけでもない。
昨日、すれ違ったタイミング的に、魔人から俺の愚痴でも聞いたのだろう。
そう考えれば別に不自然ではない——が。
こうして、できる限り関わりたくなかった紅の瞳との学校生活が始まった。




