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警衛高校の作家《リライター》  作者: 稲宮鹿
第1巻 紅の瞳《ルビーアイ》
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4/19

第一章 警衛高校の赤星《レッド》(3)

 ——数分後。

 警察が到着し、強盗の引き渡しと事情聴取を終えた頃には、店内を包んでいた物々しい空気もすっかり薄れていた。

 相手が能力者だったこともあり、説明にはそれなりに時間を取られた。取り押さえるより面倒に思えた。

 幸い、サキノへの被害は皿が数枚割れた程度。

 床に散らばっていた破片も片付けられ、倒れていた椅子も元の場所へ戻されている。明日からの営業にも問題はないようだ。

 そして現在。

 俺と千歳は、せめてものお礼にとマスターから晩飯をご馳走になっていた。

 マスターは事情聴取が終わってからも何度となく礼を言ってくれたが——赤星(レッド)とはいえ警衛だ。

 職業として役目を果たしたまで。

 最終的には、晩飯をご馳走になることで今回の一件はチャラにして、半ば無理やり納得してもらった。

 料理の匂いと食器の触れ合う音が戻った店内を見渡す。

 ついさっきまで強盗が暴れていたとは思えない。

 いつものサキノだ。

 それだけ確認できれば十分だった。

 そして、この場には俺たちの他にもう一人。


「光希さん、お爺ちゃんとお店を守ってくれてありがとうございます」

「気にするな。サキノに来たのは偶然だしな。礼を言うなら、そっちで人見知りを発揮している残念微笑女にしてやってくれ」


 マスターの孫娘である崎野詩織が、ポニーテールを揺らしながらこちらへ頭を下げる。

 警衛高校の近所にある、一般校の暁高校に通う一年生。

 先の一件ではマスターの判断で休憩室へ隠れていたらしく、直接的な被害はなかった。

 いち早く強盗に気づき、詩織を避難させたマスターの機転には脱帽する。

 もし詩織まで店内に残っていれば、俺も強盗だけに集中するわけにはいかなかったし、今日千歳と行動していなければ、俺がこの時間にサキノへ来ることもなかった。

 そういう意味では、礼を言われるべきなのは千歳の方だ。

 話を振ると、千歳の肩がビクッと跳ねた。

 ギギギ——と、聞こえるはずのない擬音が聞こえてきそうなほど角張った動きで詩織へ顔を向ける。


「え、えーと。その——」

「初めまして! 崎野詩織って言います。暁高校の一年で、光希さんと輝夜さんには日頃からお世話になってます! 今日はありがとうございました!」


 モゴモゴと言い淀む千歳とは対照的に、詩織は明るい笑顔で自己紹介する。

 さすがはサキノの看板娘。

 初対面の相手を前にしても物怖じする様子がない。


「は、はいなのです! 警衛高校の一年で、光希先輩の後輩の千歳雪名と申しますです。えっと、その——仲良くしてくれたら嬉しいです!」

「もちろん! 同い年だし、雪名ちゃんって呼んでもいい?」

「は、はいなのです!」


 そう言って、勢いよく立ち上がった千歳の両胸が、詩織の眼前で大きく揺れた。


「やっぱり雪名ちゃんは敵みたいです」

「唐突ですッ! 宝箱を開けたと思ったらミミックだった時くらいの衝撃です!」


 ものの数秒で詩織から敵認定を受けていた。

 そういえば、二人は同じ高校一年生だったな。

 片や引き籠もり気質のゲームオタク。

 片や祖父と二人で店を切り盛りする看板娘。

 残念微笑女に詩織の爪の垢でも煎じて飲ませれば、少しくらい生活態度が改善されるかもしれない。

 もっとも、初対面から数十秒で敵認定されるあたり、詩織も詩織で何かしら思うところがあったらしいが。

 同じ一年生としての格差は、中身だけでは測れないようだった。


              ※


「そうなんです! 先輩ってば学校でも本ばっかり——」

「光希さんってばね! この前も——」


 同学年だからか、それとも妙に波長が合ったのか。僅かな時間ですっかり打ち解けた二人は、共通の話題を見つけて会話に花を咲かせていた。

 本人を目の前にして、好き勝手言ってくれる。

 マスターが作ってくれた料理は既に食べ終わっている。

 わざわざ女子高生二人の会話に混ざる理由もないので、俺は鞄から読みかけの本を取り出していた。

 自分の読書癖について話している二人の前で読書を始めるのもどうかと思ったが、別に間違ったことを言われているわけでもない。

 数ページほど読み進めたところで——。


「光希くん、ちょっといいかな?」

「どうしたんだ?」


 洗い物を終えたマスターが、厨房から俺だけを手招いていた。

 本を閉じ、その後を追う。


「実はお願いがあってね」

「頼み?」


 マスターが言いにくそうに間を置いた。


「週に一度だけでもいいから、このお店で働いてくれないかい? もちろん給料は払わせてもらうから」

「——」


 バイトの誘いか。

 確かに万年金欠の俺にとって、知り合いの店で働けるのは悪くない。

 俺の出費の大半は本だ。新刊だの古書だのと節操なく買っていれば、財布が厚くなる暇なんてあるはずもない。

 その点、サキノなら店の勝手も知っているし、マスターも詩織も顔馴染み。

 接客ができる気はしないので、できれば皿洗い専属にしてもらいたいところだ。

 ただ、すぐに頷く気にはなれなかった。

 問題は条件ではなく、マスターが俺を誘った理由。

 強盗を取り押さえた直後にバイトへ誘われれば、嫌でもそこに結びつけて考える。

 黙っている俺の意図を察したのか、マスターはテーブル席へ視線を向けた。

 千歳と楽しそうに話している詩織を一目見たあと、再び俺を見る。


「今日みたいなことが今後起こってほしくはないけど、万が一もある。だから、この店に私たちだけじゃなく、若い男の子も働いているという予防策が欲しいんだ。私に何かある分には構わないが、詩織もいるからね」

「俺を警衛として雇いたいわけじゃないんだな?」


 マスターは静かに首を横へ振った。


「光希くんを危険な目に遭わせたいわけじゃないよ。ただ、今日みたいな人間が店を狙おうとした時に、少しでも思い止まる理由になればと思ってね」


 マスターの深く刻まれた皺の奥にある目に、嘘は見えなかった。


「はぁ、分かったよ。来られる日は限られるが、お言葉に甘えて働かせてもらうよ」


 詩織のため。

 ただ、それだけなのだろう。

 もし俺の力を番犬代わりにしようとしているのなら、相手がマスターでも首を縦に振るつもりはなかった。

 詩織のためなら断る理由もない。

 何より、本代の足しになる。


「ありがとう、光希くん」

「詳しい話は後日聞かせてくれ。電話番号を渡しておくから」


 そう言って、今ではすっかり懐かしい代物になった愛用のガラケーを取り出す。

 電話とメールが使えれば俺には十分だ。

 マスターに連絡先を教えて席へ戻ると、ガラケーが短く震えた。一通のメールだ。差出人を確認し、本文を開く。


『頼まれてたもんが入荷したぞ』


「ッツ!」

「せ、先輩! どうしたんですか!」


 メールを見た瞬間、飛び上がるように立ち上がった。

 椅子が床を擦り、大きな音を立てる——が、それどころではない。

 まさか本当にアレが手に入ったのか。

 半ば無理を承知で頼んでいた代物だ。一刻も早く、この目で現物を確認したい。


「すまないマスター、急用ができた。行くぞ千歳」

「ちょ、ちょっと待ってください!」


 千歳の買い物袋を持ち上げ、そのまま出口へ向かう。


「あ、ああ。気をつけるんだよ」


 マスターの声を背に、急ぎ足でサキノを出た。目的地はそう遠くないが、自然と歩幅が大きくなる。

 今日ばかりは、のんびり歩いていられない。


「待ってくださいです! せんぱーいッ!」


 遠く後ろから聞き覚えのある声がした。

 足を止めて振り返る。

 こちらへ走ってくる小さな人影。

 俺の両手には千歳の買い物袋。

 荷物は忘れていない。

 ——本人を忘れていた。

 肝心の千歳をサキノに置き去りにしたことに気づいたのは、店を出て数分ほど経ってからのことだった。


              ※


「悪かったって言ってるだろ」

「むぅ、先輩のやる気スイッチはどこにあるんですか。あんな俊敏に動く先輩初めて見たですよ」


 既に時刻は十九時を回っている。

 初夏とはいえ太陽は沈み、昼間の熱気も少しずつ鳴りを潜めていた。

 商店街には街灯が灯り、店先から漏れる明かりの向こうで、綺麗な半月が夜空に浮かんでいる。

 機嫌を損ねた千歳と並び、その下を歩く。


「実は知り合いの雑貨店の店長が、世に出回ることがないと言われていた『アニー・レニー』の小説を入荷したらしくてな——」

「あー、はいですはいです」

「人の話は最後まで聞くもんだぞ」

「先輩に言われたらおしまいです」


 デジャブを感じるが、きっと気のせいだろう。

 アニー・レニー。

 二十年以上前に突如として現れ、人の犯した罪にスポットを当てた作品を書くことで知られる小説家だ。

 この情報社会においても、作者本人の情報は一切公表されていない。

 しかも、十冊ほどあると言われている作品は、いずれも原本しか存在しないそうだ。

 本屋に行けば買えるような代物ではない。

 だからこそ、知り合いの雑貨店の店主にまで頼んで探してもらっていた。

 それが見つかった。

 読書家として急がない理由がない。

 先に千歳を家まで送ることも提案したが、せっかくだからついて行くとのことだった。

 ——歩くこと数分。


「ここだ」

「え、本当にここですか? 私、霊能力とかオカルト話はまったくと言っていいほど信じていないのですが、なぜか此処から凄く禍々(まがまが)しいオーラの様なものを感じるんですが」


 千歳が無意識に一歩後ずさる。

 まぁ、それも無理はない。

 目の前に佇むのは、『古びた(レトロ)』と評するには些か物足りない建物。

 例えるなら、捨てられた民家が三十年近く放置された末、そのまま雑貨屋を始めたような外観だ。

 初見で入りたがる人間はそういない。


「千歳」

「なんですか?」


 尻込みしながら返事をする彼女に、俺らしくない笑顔で問いかける。


「虫とか大丈夫か?」

「なんでこのタイミングでそんな事を聞くんですか! この鬼畜先輩はッ!」


 俺的には無理について来なくてもいいと、良心からの言葉だったのだが。千歳はムキーッと顔を赤くしながら「行ってやりますですよ。虫でもお化けでも魔人でもかかって来いです!」と一人何やら覚悟を決めていた。

 さすがに魔人は勘弁して欲しい。


「付いてくるっていうなら止めはしないけどな。あと結構散らかってるから商品を踏まないように気をつけろよ」

「踏む位置にあるのって、商品の枠組みで大丈夫なんです?」


 それには俺も同意だ。

 立て付けの悪い横開きの扉へ手を掛ける。

 ガタガタと不安になる音を立てながら開くと、後ろから小さな声が聞こえた。


「空き巣(ヒルトビ)してる気分です」

「奇遇だな。俺もだ」


 店内へ入ると、乱雑に散らかった商品と、何故か中に立て掛けられた看板が目に入る。

 千歳がそこに書かれた文字を読み上げた。


「遠峰雑貨店?」


 普通なら外に掲げるであろう看板を、この店は店内に置いている。

 そのせいもあって、ここへ買い物に来る人間の大半は店長の知り合いだ。

 以前聞いた話では、昼休憩(ギャンブルタイム)でも鍵を掛けないそうだ。

 不用心だとは思うが、本人曰く対策はしているとのことなので、気にするだけ損だ。

 床にまで侵食した商品を避けながら、店の奥へ声を掛けた。


「店長さん、俺だ」

 

 声をかけるとガラクタの奥から、中肉中背の男が片手を上げながら姿を現した。

 店長さんは俺から後ろの千歳へ視線を移すと、ニヤリと口角を上げた。

 ——嫌な予感がする。


「あ? 珍しいな、女連れかよ。ここをホテルと間違えてるんじゃねえか?」

「人を何だと思ってるんだ。こいつは学校の後輩だ」


 登場早々に失礼なことを言ってくるこの男こそ、遠峰雑貨店の店長——遠峰銀次。

 銀色の髪と無精髭のせいで実年齢より老けて見えるが、まだ三十になったばかりだったはずだ。

 店の外観からも分かる通り、客商売をしている人間とは思えないほど適当な性格をしている。

 その割に、俺が探している本を見つけてくる辺り、仕事ができないわけではない。

 むしろ妙なところで顔が広い。


「初めましてです」

「おう。こんな愛想のねえ先輩じゃ苦労してんだろ」

「否定できないのが悲しいところです」


 初対面なのに、既に意気投合している。

 俺を共通の話題にすれば誰とでも仲良くなれるのか、こいつは。


「千歳、その辺の適当な商品でも見て回ってていいぞ」

「そうさせてもらいますです!」


 千歳は物珍しそうに店内を見渡しながら、ガラクタ——ではなく商品が積み上げられた棚の方へ歩いていく。

 これでようやく本題に入れる。


「それで、入荷したってのは本当か?」

「商売で嘘はつかねえよ。ほれ、これだろ」


 店長さんが店の奥へ引っ込んだかと思えば、すぐに一冊の本を手に戻ってきた。

 そして——投げた。


「おっと。たく、売り物を雑に扱うなよ」

「生憎、その本を売る気にはなれなくてな。タダでやるよ」


 慌てて両手で受け止める。

 この本がどれだけ貴重な品だと思っているんだ。それを平然と放り投げる神経が理解できない。

 手にした本の表紙は古く、傷んでいた。

 決して保存状態が良いとは言えない——が、タイトルと著者名を確認した瞬間、そんなものはどうでもよくなった。

 間違いない。

 ずっと探していた一冊だ。


「店長さんも読んだのか?」

「読んでねえよ。どうにもその作者が好きになれなくてな」


 手にした本を開きたい気持ちはあるが、店長さんを無視して読み始めるほど非常識ではない。


「まぁ、小説は書き手と読み手の相性があるからな」

「ま、そんなとこ——」

「あああああ!」


 店長さんの言葉を掻き消すように、店内の隅から奇声が響いた。

 俺と店長さんが同時にそちらを見る。

 また強盗でも入ってきたのか。

 いや、この店へ強盗に入るような物好きがいるとは思いたくない。

 声の主は考えるまでもなく一人しかいなかった。

 俺は本を大事に抱えたまま、声のした棚へ向かう。


「何かあったのか?」

「あ、あれですよあれ! 私の原点であるゲームの超絶激レア装備『祝福の指輪』ですよ!」


 埃を被った棚の前で、千歳が興奮した様子で一つの商品を指差している。


「とうとう現実とゲームの区別がつかなくなったか?」

「違いますです! ちゃんと見てくださいです!」


 失礼な、とでも言いたげに千歳が頬を膨らませる。

 言われるがまま、その指先を追った。

 そこで俺の認識も変わる。

 銀色の指輪で中央には白い玉が一つ。

 その白玉を囲うように、枝を模した黄金の装飾が施されている。

 ゲームに登場する装備かどうかは俺には分からないが、一目見ただけで安物ではないことくらいは分かった。

 こんなガラクタの山——もとい雑貨店に置かれている方が不自然に思えるほど、精巧な代物だ。


「懐かしいもんを見つけやがったな」

「店長さん、これ何なんだ?」


 いつの間にか後ろまで来ていた店長さんを見る。

 軽薄そうな雰囲気が、僅かに薄れていた。


「昔、知り合いから預かったもんだ。売り物じゃねえよ」

「売り物じゃないですか——」


 千歳の肩が目に見えて落ちる。

 分かりやすい奴だ。

 つい数秒前まで目を輝かせていたのに、今では捨てられた子犬みたいな顔をしている。

 さすがに店長さんも気まずくなったのか、頭を掻いた。


「悪いな、嬢ちゃん」

「い、いえ。勝手に商品だと思った私が悪いです」


 そう答えるものの、視線は指輪から離れない。

 余程気に入ったようだ。

 ゲームの装備に似ている。

 俺にはそれだけのことにしか思えないが、千歳にとっては違うようだ。


「ほら千歳。目的の本も手に入ったし、そろそろ帰るぞ」

「——はいです」


 名残惜しそうに何度も振り返りながら、千歳は店の外へ向かっていった。

 ガタガタと立て付けの悪い扉が閉まる。

 その姿が見えなくなったところで、店長さんが棚から指輪を手に取った。

 何かを確かめるような目に変わっていた。


「運命は偶然では無く必然である、か」

「何か言ったか?」


 聞き返すと、店長さんはいつもの調子に戻って肩を竦める。


「いんや、なんでもねえよ。それより嬢ちゃんに指輪を持っていってやりな」

「いいのか? 大事な物なんだろ」


 売り物ではない。

 しかも知り合いから預かった物だと、ついさっき自分で言っていたはずだ。

 それを初対面の千歳に渡す。

 いくら店長さんでも、気まぐれだけで決めることとは思えない。


「俺の商売のモットーは、欲しい物を欲しい人間が手に入れることだしな。それに、俺が持っててもしょうがないのも事実だ——ただ」

「ただ?」


 そこで一度、店長さんが言葉を区切った。

 その目から、普段のふざけた色が消える。


「嬢ちゃんを守ってやりな」

「——それは指輪と何か関係があるのか?」

「さぁな」


 それ以上、店長さんは何も語ろうとしない。

 ただ、指輪をこちらへ差し出していた。

 こういう時のこの人は嫌いだ。

 大切なことほど言わない。

 問い詰めたところで、話す気がなければ何も出てこないことも、長い付き合いで分かっている。

 俺は小さく息を吐き、指輪を受け取った。


「できる限り努力する」

「それでいい」


              ※


 店の外へ出ると、すっかり暗くなった軒先で、千歳は買い物袋を脇に置き、その場に座り込んでスマホを操作していた。

 俺が出てきたことにも気づいていない程に集中している。

 後ろから画面を覗いてみれば、あの指輪について調べているようだった。

 探索科(サーチ)として優秀な千歳が、これだけ調べても何も見つけられていない。

 少なくとも、そこらの店で普通に売られている代物ではなさそうだ。


「すまない。待たせたな」

「あ、光希先輩。勝手に外に出ちゃってごめんなさいです」


 余程集中していたのか、千歳の肩がビクッと跳ねる。


「俺じゃなくて、今度店長さんに謝ってやってくれ」

「はいです」


 素直に肩を落とす。

 いつも無駄に元気な姿ばかり見ているせいか、こうして大人しくしている千歳は妙に新鮮だ。

 やはりこいつには普段の生意気なくらいがちょうどいい。


「千歳、手を出せ」

「手ですか?」


 言われるがまま、千歳が右手を差し出した。

 何故か手の甲を上にしている。

 手の平を出してほしかったんだけどな。

 まぁ、いいか。

 俺はポケットから祝福の指輪を取り出し、その人差し指へ嵌める。


「サイズもピッタリだな」

「え、これ。——なんで」


 千歳が目を見開き、指輪から俺、もう一度指輪へと視線を往復させる。


「店長さんの気が変わって譲ってくれたんだ」

「あ、ありがとうございます——です」


 ちなみに、本をタダにする代わりに指輪代は払えと店長さんに言われ、俺の財布から数人の諭吉が旅立っていった。

 元々、本を買うために用意していた金だ。

 そう考えれば出費そのものは予定通り。

 予定通りなのだが——。

 財布を開けば、寂しい現実が待っている。

 今日サキノでバイトを始めることにしておいて本当によかったかもしれない。


 目の前では、千歳が指輪を大事そうに眺めている。

 何度も角度を変え、確かめるように眺めていたかと思えば、その目元が僅かに潤んだ。

 まったく。

 たかが指輪一つで、そこまで喜んでくれるとはな。


「女の涙は、もっと大事な時まで取っておけ。安売りは良くないぞ」

「先輩のくせに、たまに格好つけるのズルいです」


 そう言った直後、千歳が不意に抱きついてきた。


「おい」

「——バカ先輩」


 突然のことに反応が遅れ、俺は思わず動きを止める。

 千歳は俺の胸元に顔を埋めた。

 周囲を見れば、通りかかった人々がちらちらとこちらへ視線を向けていた。

 さすがに居心地が悪い。

 悪いのだが——。

 今ばかりは、無理に引き離す気にもなれなかった。

 しばらくして、ようやく千歳が顔を上げた。

 目元にはまだ僅かに涙の名残があったものの、そこにはいつもの笑顔が戻っていた。

 女心と秋の空——ならぬ、夏の夜空か。

 俺は小さく息を吐き、脇に置かれていた千歳の買い物袋を持ち上げる。


「帰るぞ」

「はいです!」


 千歳が嬉しそうに右手の指輪を眺めながら、俺の隣へ並ぶ。

 街灯の光を受け、小さな指輪がきらりと輝いた。

 こうして、俺たちの長い一日が終わった。

 何故だか俺にしては珍しく幸運な一日だった、なんて思いながら。


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