第六章 遊水の都 (2)
サービスエリアを出てからは、千歳も眠らずに起きていた。買ってきたパンを食べ終えると、今度は後ろの二人と一緒に案内図を眺め始める。俺が見るべきものは道路だけだというのに、横から何度も写真を見せようとしてくるのは勘弁してほしかった。
そうして辿り着いた『遊水の都』は、プールと遊園地を一度に楽しめるレジャー施設だ。入口の向こうにはジェットコースターのレールが伸び、その隣ではガラス張りの大きな建物が日差しを反射していた。
絶叫アトラクションなんて、仕事柄散々経験してきている。それこそ魔人の怒りを買えば、生身で地面と平行に飛べるのだ。——命の保証はないが。
優勝賞品のチケットで入場を済ませると、エイルは案内図を確かめるまでもなく、プールの方へ歩き出した。
「先に泳いで、午後から遊園地を回りましょう。着替えたら、更衣室を出た所で待ち合わせね」
「了解。迷子になるなよ、千歳」
「私だけ名指しなの、納得いかないです!」
「雪名ちゃん、行こっか。光希くん、また後でね」
三人が女子更衣室へ入るのを見送り、俺も反対側へ向かう。
ロッカーの前では、父親が子供に急かされながら着替えていた。その横を通り過ぎ、奥の空いた場所でリュックを下ろす。
Tシャツを脱ぐと、古い銃創や刃物傷が露わになった。
どれも傷口は塞がっている。ただ、人に見せて気分のいいものではないし、見た相手を困らせるだけだ。さっさとラッシュガードを被り、白黒のチェック柄の水着へ穿き替えた。
財布と防水カバーをつけた本を一冊手に取り、残りの荷物をロッカーへ押し込む。これで準備は完了だ。
更衣室を抜けると、水の跳ねる音と、子供たちの歓声が広い室内に響いていた。ガラス張りの天井から光が差し込み、足元にも揺れる水面の模様が映っている。
外ほど暑くはない。読書をするにも、悪くない場所だ。
「光希先輩、こっちです!」
声の方へ向けば、千歳が手を振っていた。
胸元と裾にフリルのついた白い水着に、髪はいつものツーサイドアップではなくポニーテール。その隣の輝夜は黒いビキニ姿で、俺に気づくと控えめに手を上げた。
「悪い、待たせたか?」
「ううん。私たちも今来たところだよ」
「エイルは?」
「少し遅れるって言ってたです。何やら調整が必要だそうで」
「水着に調整? ああ、パッドか」
「光希くん。そこは気づかないふりをしてあげよ?」
輝夜に微笑まれ、追及は諦める。
空いている休憩場所を探しながらエイルを待っていると、ほどなく本人が姿を見せた。
「ごめんなさい。待たせたわね」
臙脂色のワンピース型の水着に着替えたエイルが、髪を背中へ払いながら近づいてくる。普段の制服よりも、小柄な体つきがよく分かった。だが、態度は変わらず堂々としている。
その胸は、時間を掛けただけあって、自然に盛られていた。
「全員揃ったな。先に荷物を置く場所を決めるか」
「それなら、あっちでサマーベッドが借りられるですよ。浮き輪もあります!」
「じゃあ、私と琴乃葉さんで場所を見てくるね」
「本を置いたら、光希もちゃんと来るのよ。荷物番を口実にしないでちょうだい」
「荷物番も立派な役目なんだが」
エイルは聞こえないふりをして、輝夜と歩いていった。
早速、俺の休日の過ごし方に干渉してくるらしい。二人を見送り、千歳と貸出受付へ向かう。
「先輩、何か言うことはないんですか?」
「浮き輪は自分で運べよ」
「そうじゃないですよ! 水着です、水着!」
千歳が両腕を少し広げ、こちらへ向き直った。
細かなフリルと白い生地がよく似合っている。髪をまとめたせいで首筋が見え、制服の時より心持ち大人びた印象だった。
「似合ってるぞ」
「熟考してた割に答えが淡白すぎてびっくりです。なんですか笹身系男子なんですか」
「似合ってるから、そう言ったんだが」
「もう一声くらいあってもいいと思うんですよね。頑張って選んできたわけですし」
千歳は不満そうに唇を尖らせたが、受付の順番が来ると、すぐに浮き輪へ目を向けた。その横顔は、さっきまでの文句に反して緩んでいる。大きさを比べ、色を選び、ビーチボールまで追加していく。
結局、俺が借りたサマーベッドを運び、千歳は大きな浮き輪を抱えて二人の元へ戻ることになった。
※
なんともいい気分だ。
プールサイドのサマーベッドに寝そべり、水の音を聞きながら本を読む。
生きていることを実感できる、充実した時間だ。
少し離れた場所では子供が歓声を上げ、時折、監視員の笛が鳴っていた。騒がしくはあるが、教室で魔人に怒鳴られることを思えば、実に穏やかな読書環境である。
何より、チョークが飛んでこない。
荷物番を引き受けた俺を残し、三人は流れるプールへ向かった。
「ちょっと、琴乃葉さん! 顔は駄目だって!」
「先に掛けてきたのは三嘉月さんでしょう?」
聞き慣れた声に顔を上げる。
水を掬った輝夜が、笑いながらエイルへ掛け返していた。エイルも逃げるどころか、そのまま距離を詰めていく。二人とも、こちらなど見ていない。
その少し先では、千歳が浮き輪に身体を預けていた。流れに任せたまま、気持ちよさそうにしている。
あいつは何のために車内で二時間も寝たんだ。
「雪名ちゃん、流されてるよ!」
「大丈夫です! 一周したら合流するですよ!」
手を振る千歳が、緩いカーブの向こうへ消えていく。
輝夜とエイルは顔を見合わせ、笑いながらその後を追い始めた。円形のプールなのだから、待っていれば戻ってくると思うのだが。
楽しそうで何よりだ。俺は読書を再開した。
「ねえ、お兄さん。一人?」
不意に声を掛けられ、そちらへ顔を向ける。
薄いタオルを肩に掛けた女性が、サマーベッドの脇に立っていた。俺より年上に見える。屈んで顔を覗き込まれ、返事が一拍遅れた。
綺麗な人だった。輝夜やエイルを見慣れている俺でも、すぐには本へ目を戻せなかった。
「今は一人だ」
「よかったら、一緒に遊ばない?」
これが逆ナンというやつか。正直、是非ともご一緒したい。
だが、三人を放ってついて行けば、後で何を言われるか分かったものではない。いくら俺でも、そこまで好き勝手に振る舞う気はなかった。
「悪い。女と来てるんだ。見つかったら殺される」
「——え?」
女性の笑みが止まった。俺の返事が意外だったのか、目を丸くしている。
「どうした?」
「気にしないで! 振られて残念だっただけだから!」
言うなり女性は身体を起こし、タオルを翻して去っていった。
惜しいことをした気分にはなるが、今更引き止めるわけにもいかない。
俺は本のどこまで読んでいたか探した。
「光希。今の人、誰?」
顔を上げると、エイルが立っていた。濡れた髪を片側へ寄せ、タオルで水気を取っている。
「知らん。声を掛けられただけだ」
「あら、読書をしてても女の人は寄ってくるのね」
「俺だって驚いてる。お前らは、もう上がったのか?」
「休憩よ。三嘉月さんと雪名は、飲み物を買いに行ってるわ」
エイルは隣の空いた椅子へ腰を下ろした。泳ぎ足りないのか、足先を揺らしながらプールを眺めている。
「楽しいか?」
「ええ。次は向こうのスライダーに乗るつもりだけど」
「そうか。気をつけて行ってこい」
「何を他人事みたいに言ってるのよ。光希も来るの」
「俺には荷物番という大役があるんだが」
「三嘉月さんが交代するって言ってたわ。ほら、本を閉じて」
「まだ読み終わってないぞ」
「続きは後でも読めるでしょう。せっかく水着まで持ってきたんだから」
泳ぐ約束までした覚えはないのだが、ここで粘っても読ませてはもらえなさそうだ。
俺は観念して栞を挟み、本を閉じて脇のテーブルへ置いた。
飲み物を買って戻ってきた輝夜に本と財布を預け、エイルと千歳に連れられてスライダーへ向かう。
階段の上から見下ろすと、水路は途中で曲がりくねり、滑り終えるまで先が見えない造りだった。こんな物に並んでまで乗りたがる気持ちは、正直よく分からない。
だが、いざ滑ってみれば、考えている暇などなかった。曲がるたびに身体が振られ、最後には勢いよく水の中へ放り出される。
顔を上げて息をつくと、先に滑り終えていたエイルが、プールの縁からこちらへ笑いかけていた。俺も水から上がり、隣へ並ぶ。
「どう? 本を読んでるだけより楽しいでしょう?」
「鼻に水が入った。次は防水カバーを被って乗る」
「その減らず口は防水なのね。ほら、雪名が来るわ」
出口の方から千歳の声が響き、派手な水飛沫が上がった。千歳は水から上がってくると、顔を拭うなり階段の方を指差す。
「もう一回です! 今度は輝夜さんも誘いましょう!」
「今降りてきたばかりだぞ」
「だからですよ。道も覚えたし、次はもっと上手く滑れるはずです!」
「ゲームじゃないんだから、攻略しようとするな」
今度は俺が荷物番へ戻り、輝夜と交代することになった。千歳に手を引かれていく輝夜を見送り、サマーベッドへ腰を下ろす。
本を開く前にスライダーへ目を向けると、階段の途中からエイルがこちらへ手を振っていた。
その後も三人は場所を変えながら遊び続け、エイルが休憩場所へ戻ってきたのは、昼を少し過ぎた頃だった。俺も読みかけの一冊を終え、次をロッカーから取ってこようか考えていたところだ。
「そろそろお昼にしない? 午後は遊園地も回りたいし」
「そうだな。お前も満喫したみたいだし」
これは確信に近い想像だが、エイルがこれまで、同世代の友達と遊ぶ機会に恵まれてきたとは思えない。
俺も、輝夜に出会うまでは似たようなものだった。ただ、俺は他人に興味がなかったのが大きい。
エイルには、そもそもそんな時間があったのか。
十歳で高卒の資格を取り、その後は訓練に明け暮れていたと聞いている。学校へ通うことさえなかった奴が、今は千歳や輝夜と水を掛け合い、笑っている。
仲間が行方不明になっている状況を、よかったなどと言う気はない。それでも、今日くらいは何も考えず、ああして笑っていてもいいじゃないか。
「うるさいわね。たまに羽を伸ばすのは大事なのよ! さっさと二人を呼びに行くわよ」
「へいへい」
「へいは一回!」
「へいであることはいいんだな」
エイルはふんっと鼻を鳴らし、プールの方へ歩き出した。
可愛い奴めと思いながら、俺も財布を持って後を追う。輝夜と千歳は、浅いプールでビーチボールを打ち合っていた。
「二人とも! お昼ご飯の時間よ」
「分かりましたです!」
「はーい、今上がるね!」
輝夜がボールを抱え、千歳と出口へ向かう。二人が上がってくるのを待ちながら、隣のエイルへ声を掛けた。
「そういえば、お前らはナンパされなかったのか?」
「されたわよ。光希が読書してる間にね。でも、学校を聞かれて警衛高校って答えると、大体逃げていったわ」
「そりゃそうか」
銃や刀の携帯を認められ、犯罪者を追い回す高校生。世間からすれば、わざわざ関わりたくはない相手なのか。声を掛けた美少女が、自分より遥かに強い可能性まであるのだ。
「警衛高校で、他校の人と付き合ってる話をあまり聞かない理由が分かった気がするわ」
「付き合うなら警衛同士って風潮はあるな。例外もいるんだろうが」
「そういう恋の方が燃えそうなのに」
「ロミオとジュリエットじゃあるまいし。現実でまで面倒な恋愛をしたがる奴は少ないんだろ」
こいつと付き合う相手は、大恋愛をする羽目になりそうだ。
そんな話をしているうちに、二人が水を滴らせながら戻ってきた。
「お待たせしましたです!」
「いっぱい遊んじゃったね。私、お腹空いちゃった」
「あれ、エイルさん。もう髪の毛乾かしたんですか?」
「私、濡れたままなのが苦手ですぐ乾かしちゃうのよ。雪名もやってあげるわね」
千歳が背を向けると、エイルは髪を束ねていたゴムを外し、指を通した。濡れてまとまっていた髪が、梳かれるたびにほぐれていく。こちらまで温かな空気が届き、ほどなく毛先がふわりと広がった。
「わ、すごいです! もう乾いてる!」
「家に一人欲しいな」
「光希の髪だけ燃やしてあげてもいいのよ?」
「目立つからアフロは勘弁だ」
「琴乃葉さん、私もお願いしていいかな?」
「ええ、もちろんよ」
俺との対応の差は気になるが、文句を言って頭を燃やされるのも御免だ。
戦っている時は厄介極まりない熱を操る力も、こうして見ると便利なものだった。地獄祭りで水の温度を加減していたくらいだ。髪を乾かす程度の調整など、エイルには造作もないはずだ。
輝夜が髪を乾かしてもらっている間に、俺は浮き輪とビーチボールを返しに向かった。
※
更衣室で私服へ着替える。濡れた水着とラッシュガードを袋に詰めると、朝よりリュックが重くなった。
読書をしに来たはずが、結局泳がされてしまった。鼻の奥には、まだ水が残っている気がする。
待ち合わせ場所で三人と合流し、屋外へ出た途端、日差しに目を細めた。さっきまでの水の冷たさが、早くも恋しくなる。
「お昼にしましょうか。お腹が空いたわ」
エイルに促され、フードコートへ向かう。
昼時だけあって、店先には家族連れや若者が並んでいた。ソースの焼ける匂いを辿って進むと、千歳が頭上の看板を指差す。
「あれ食べたいです、富士サンド!」
「私は桜海老の焼きそばにしようかな。名物なんだって」
「じゃあ、私は紅富士の押し寿司ね。せっかく来たんだから、普段食べられない物にしたいわ」
「適当に買って、皆で分けるか?」
三人とも異論はないらしく、それぞれ目当ての店へ向かっていった。
席も決めていないのに、気の早い連中だ。俺は空いた四人席を見つけ、リュックを置いて腰を下ろした。
さて、何を買おうか。
富士サンドは気になる。
桜海老の焼きそばも悪くない。
押し寿司にも惹かれる。
榊原や千歳が好きなゲームなら、ここで誰と同じ物を選ぶかによって、その後の展開が変わったりするのだろうが、俺の目的は好感度を上げることではなく、腹を満たすことだ。
なので、四つ目の選択肢を選ぶ。
皆が買ってきた物を、少しずつ分けてもらえばいい。
そうして席を守ることに専念していると、十分ほどで三人が戻ってきた。
テーブルに並んだのは、先ほど話していた三品だけではない。ニジマスの塩焼き、つけナポリタン、しぐれ焼き。置く場所を作っている間にも、次の皿が差し出される。
「——買いすぎじゃないか?」
「少しずつ分ければ、色々食べられると思ったのよ」
「私もそう思って。ごめん、琴乃葉さんと同じの買っちゃったね」
エイルと輝夜が、それぞれ持っていた皿を見比べる。つけナポリタンとしぐれ焼きが、見事に二つずつ並んでいた。
さらに二人の袋から、飲み物が四本ずつ出てくる。
しかも、全てが静岡コーラ。
テーブルを埋め尽くす料理を前に、地獄祭りの記憶が蘇ってきた。集合体恐怖症の親戚で、集合食恐怖症と名付けることにしよう。
「飲み物までかぶってるですよ」
「お前は富士サンドだけか?」
「はいです。写真より大きかったので、追加はやめておいたです」
千歳が持ってきた皿の上には、具を何層にも挟んだサンドイッチがそびえていた。それ一つでも十分な存在感である。
「光希は何を買ってきたの?」
「何も。お前らが戻ってきてからにしようと思ってた」
「それなら、一緒に食べようよ。私たちだけじゃ多いし」
「ああ。先に待ってて正解だったな」
「次からは、お互いが何を頼んだか確認しましょう。飲み物まで八本は要らなかったわね」
俺は箸を取り、目の前へ回ってきた焼きそばから手をつける。名物と銘打つだけあって、海老の香りがよく、つい次の一口へ手が伸びた。
料理はどれも美味かった。ただし、腹には限界がある。
最初こそ互いの選んだ物を楽しんでいた俺と千歳も、皿が空くにつれて口数が減っていった。輝夜も焼きそばを少し残し、困ったように箸を止めている。
その中で、エイルだけは変わらず食べ続けていた。
「三嘉月さん、もう食べられないなら貰ってもいい?」
「いいの? 助かるけど、無理しなくて大丈夫だよ」
「無理なんかしてないわ。美味しいもの」
「お前がいてよかったと、心から思ってる」
「そういうことは、もっと早く言ってちょうだい」
エイルが引き受けた皿は、一枚ずつ綺麗になっていった。
地獄祭りでも世話になった胃袋に、こんな所でまた助けられるとは。俺は椅子の背にもたれ、最後の押し寿司が消えていくのを見届ける。
「先輩、今コーヒーカップに乗ったら、私、ゲロインになれる自信があるです」
「そのデビューはやめてくれ」
血反吐ならいくらでも構わんが、ゲロ吐くヒロインは流石に勘弁だ。
「二人とも、ご飯を食べる所でそういう話は駄目だよ」
「雪名、そのサンドイッチも残すなら貰うわよ」
まだ入るらしい。
料理はエイルのお陰で片づいたが、飲み物は余った。輝夜が隣の席の家族へ声を掛け、未開封の四本を貰ってもらう。
サービスエリアを出てからは、千歳も眠らずに起きていた。買ってきたパンを食べ終えると、今度は後ろの二人と一緒に案内図を眺め始める。俺が見るべきものは道路だけだというのに、横から何度も写真を見せようとしてくるのは勘弁してほしかった。
そうして辿り着いた『遊水の都』は、プールと遊園地を一度に楽しめるレジャー施設だ。入口の向こうにはジェットコースターのレールが伸び、その隣ではガラス張りの大きな建物が日差しを反射していた。
絶叫アトラクションなんて、仕事柄散々経験してきている。それこそ魔人の怒りを買えば、生身で地面と平行に飛べるのだ。——命の保証はないが。
優勝賞品のチケットで入場を済ませると、エイルは案内図を確かめるまでもなく、プールの方へ歩き出した。
「先に泳いで、午後から遊園地を回りましょう。着替えたら、更衣室を出た所で待ち合わせね」
「了解。迷子になるなよ、千歳」
「私だけ名指しなの、納得いかないです!」
「雪名ちゃん、行こっか。光希くん、また後でね」
三人が女子更衣室へ入るのを見送り、俺も反対側へ向かう。
ロッカーの前では、父親が子供に急かされながら着替えていた。その横を通り過ぎ、奥の空いた場所でリュックを下ろす。
Tシャツを脱ぐと、古い銃創や刃物傷が露わになった。
どれも傷口は塞がっている。ただ、人に見せて気分のいいものではないし、見た相手を困らせるだけだ。さっさとラッシュガードを被り、白黒のチェック柄の水着へ穿き替えた。
財布と防水カバーをつけた本を一冊手に取り、残りの荷物をロッカーへ押し込む。これで準備は完了だ。
更衣室を抜けると、水の跳ねる音と、子供たちの歓声が広い室内に響いていた。ガラス張りの天井から光が差し込み、足元にも揺れる水面の模様が映っている。
外ほど暑くはない。読書をするにも、悪くない場所だ。
「光希先輩、こっちです!」
声の方へ向けば、千歳が手を振っていた。
胸元と裾にフリルのついた白い水着に、髪はいつものツーサイドアップではなくポニーテール。その隣の輝夜は黒いビキニ姿で、俺に気づくと控えめに手を上げた。
「悪い、待たせたか?」
「ううん。私たちも今来たところだよ」
「エイルは?」
「少し遅れるって言ってたです。何やら調整が必要だそうで」
「水着に調整? ああ、パッドか」
「光希くん。そこは気づかないふりをしてあげよ?」
輝夜に微笑まれ、追及は諦める。
空いている休憩場所を探しながらエイルを待っていると、ほどなく本人が姿を見せた。
「ごめんなさい。待たせたわね」
臙脂色のワンピース型の水着に着替えたエイルが、髪を背中へ払いながら近づいてくる。普段の制服よりも、小柄な体つきがよく分かった。だが、態度は変わらず堂々としている。
その胸は、時間を掛けただけあって、自然に盛られていた。
「全員揃ったな。先に荷物を置く場所を決めるか」
「それなら、あっちでサマーベッドが借りられるですよ。浮き輪もあります!」
「じゃあ、私と琴乃葉さんで場所を見てくるね」
「本を置いたら、光希もちゃんと来るのよ。荷物番を口実にしないでちょうだい」
「荷物番も立派な役目なんだが」
エイルは聞こえないふりをして、輝夜と歩いていった。
早速、俺の休日の過ごし方に干渉してくるらしい。二人を見送り、千歳と貸出受付へ向かう。
「先輩、何か言うことはないんですか?」
「浮き輪は自分で運べよ」
「そうじゃないですよ! 水着です、水着!」
千歳が両腕を少し広げ、こちらへ向き直った。
細かなフリルと白い生地がよく似合っている。髪をまとめたせいで首筋が見え、制服の時より心持ち大人びた印象だった。
「似合ってるぞ」
「熟考してた割に答えが淡白すぎてびっくりです。なんですか笹身系男子なんですか」
「似合ってるから、そう言ったんだが」
「もう一声くらいあってもいいと思うんですよね。頑張って選んできたわけですし」
千歳は不満そうに唇を尖らせたが、受付の順番が来ると、すぐに浮き輪へ目を向けた。その横顔は、さっきまでの文句に反して緩んでいる。大きさを比べ、色を選び、ビーチボールまで追加していく。
結局、俺が借りたサマーベッドを運び、千歳は大きな浮き輪を抱えて二人の元へ戻ることになった。
※
なんともいい気分だ。
プールサイドのサマーベッドに寝そべり、水の音を聞きながら本を読む。
生きていることを実感できる、充実した時間だ。
少し離れた場所では子供が歓声を上げ、時折、監視員の笛が鳴っていた。騒がしくはあるが、教室で魔人に怒鳴られることを思えば、実に穏やかな読書環境である。
何より、チョークが飛んでこない。
荷物番を引き受けた俺を残し、三人は流れるプールへ向かった。
「ちょっと、琴乃葉さん! 顔は駄目だって!」
「先に掛けてきたのは三嘉月さんでしょう?」
聞き慣れた声に顔を上げる。
水を掬った輝夜が、笑いながらエイルへ掛け返していた。エイルも逃げるどころか、そのまま距離を詰めていく。二人とも、こちらなど見ていない。
その少し先では、千歳が浮き輪に身体を預けていた。流れに任せたまま、気持ちよさそうにしている。
あいつは何のために車内で二時間も寝たんだ。
「雪名ちゃん、流されてるよ!」
「大丈夫です! 一周したら合流するですよ!」
手を振る千歳が、緩いカーブの向こうへ消えていく。
輝夜とエイルは顔を見合わせ、笑いながらその後を追い始めた。円形のプールなのだから、待っていれば戻ってくると思うのだが。
楽しそうで何よりだ。俺は読書を再開した。
「ねえ、お兄さん。一人?」
不意に声を掛けられ、そちらへ顔を向ける。
薄いタオルを肩に掛けた女性が、サマーベッドの脇に立っていた。俺より年上に見える。屈んで顔を覗き込まれ、返事が一拍遅れた。
綺麗な人だった。輝夜やエイルを見慣れている俺でも、すぐには本へ目を戻せなかった。
「今は一人だ」
「よかったら、一緒に遊ばない?」
これが逆ナンというやつか。正直、是非ともご一緒したい。
だが、三人を放ってついて行けば、後で何を言われるか分かったものではない。いくら俺でも、そこまで好き勝手に振る舞う気はなかった。
「悪い。女と来てるんだ。見つかったら殺される」
「——え?」
女性の笑みが止まった。俺の返事が意外だったのか、目を丸くしている。
「どうした?」
「気にしないで! 振られて残念だっただけだから!」
言うなり女性は身体を起こし、タオルを翻して去っていった。
惜しいことをした気分にはなるが、今更引き止めるわけにもいかない。
俺は本のどこまで読んでいたか探した。
「光希。今の人、誰?」
顔を上げると、エイルが立っていた。濡れた髪を片側へ寄せ、タオルで水気を取っている。
「知らん。声を掛けられただけだ」
「あら、読書をしてても女の人は寄ってくるのね」
「俺だって驚いてる。お前らは、もう上がったのか?」
「休憩よ。三嘉月さんと雪名は、飲み物を買いに行ってるわ」
エイルは隣の空いた椅子へ腰を下ろした。泳ぎ足りないのか、足先を揺らしながらプールを眺めている。
「楽しいか?」
「ええ。次は向こうのスライダーに乗るつもりだけど」
「そうか。気をつけて行ってこい」
「何を他人事みたいに言ってるのよ。光希も来るの」
「俺には荷物番という大役があるんだが」
「三嘉月さんが交代するって言ってたわ。ほら、本を閉じて」
「まだ読み終わってないぞ」
「続きは後でも読めるでしょう。せっかく水着まで持ってきたんだから」
泳ぐ約束までした覚えはないのだが、ここで粘っても読ませてはもらえなさそうだ。
俺は観念して栞を挟み、本を閉じて脇のテーブルへ置いた。
飲み物を買って戻ってきた輝夜に本と財布を預け、エイルと千歳に連れられてスライダーへ向かう。
階段の上から見下ろすと、水路は途中で曲がりくねり、滑り終えるまで先が見えない造りだった。こんな物に並んでまで乗りたがる気持ちは、正直よく分からない。
だが、いざ滑ってみれば、考えている暇などなかった。曲がるたびに身体が振られ、最後には勢いよく水の中へ放り出される。
顔を上げて息をつくと、先に滑り終えていたエイルが、プールの縁からこちらへ笑いかけていた。俺も水から上がり、隣へ並ぶ。
「どう? 本を読んでるだけより楽しいでしょう?」
「鼻に水が入った。次は防水カバーを被って乗る」
「その減らず口は防水なのね。ほら、雪名が来るわ」
出口の方から千歳の声が響き、派手な水飛沫が上がった。千歳は水から上がってくると、顔を拭うなり階段の方を指差す。
「もう一回です! 今度は輝夜さんも誘いましょう!」
「今降りてきたばかりだぞ」
「だからですよ。道も覚えたし、次はもっと上手く滑れるはずです!」
「ゲームじゃないんだから、攻略しようとするな」
今度は俺が荷物番へ戻り、輝夜と交代することになった。千歳に手を引かれていく輝夜を見送り、サマーベッドへ腰を下ろす。
本を開く前にスライダーへ目を向けると、階段の途中からエイルがこちらへ手を振っていた。
その後も三人は場所を変えながら遊び続け、エイルが休憩場所へ戻ってきたのは、昼を少し過ぎた頃だった。俺も読みかけの一冊を終え、次をロッカーから取ってこようか考えていたところだ。
「そろそろお昼にしない? 午後は遊園地も回りたいし」
「そうだな。お前も満喫したみたいだし」
これは確信に近い想像だが、エイルがこれまで、同世代の友達と遊ぶ機会に恵まれてきたとは思えない。
俺も、輝夜に出会うまでは似たようなものだった。ただ、俺は他人に興味がなかったのが大きい。
エイルには、そもそもそんな時間があったのか。
十歳で高卒の資格を取り、その後は訓練に明け暮れていたと聞いている。学校へ通うことさえなかった奴が、今は千歳や輝夜と水を掛け合い、笑っている。
仲間が行方不明になっている状況を、よかったなどと言う気はない。それでも、今日くらいは何も考えず、ああして笑っていてもいいじゃないか。
「うるさいわね。たまに羽を伸ばすのは大事なのよ! さっさと二人を呼びに行くわよ」
「へいへい」
「へいは一回!」
「へいであることはいいんだな」
エイルはふんっと鼻を鳴らし、プールの方へ歩き出した。
可愛い奴めと思いながら、俺も財布を持って後を追う。輝夜と千歳は、浅いプールでビーチボールを打ち合っていた。
「二人とも! お昼ご飯の時間よ」
「分かりましたです!」
「はーい、今上がるね!」
輝夜がボールを抱え、千歳と出口へ向かう。二人が上がってくるのを待ちながら、隣のエイルへ声を掛けた。
「そういえば、お前らはナンパされなかったのか?」
「されたわよ。光希が読書してる間にね。でも、学校を聞かれて警衛高校って答えると、大体逃げていったわ」
「そりゃそうか」
銃や刀の携帯を認められ、犯罪者を追い回す高校生。世間からすれば、わざわざ関わりたくはない相手なのか。声を掛けた美少女が、自分より遥かに強い可能性まであるのだ。
「警衛高校で、他校の人と付き合ってる話をあまり聞かない理由が分かった気がするわ」
「付き合うなら警衛同士って風潮はあるな。例外もいるんだろうが」
「そういう恋の方が燃えそうなのに」
「ロミオとジュリエットじゃあるまいし。現実でまで面倒な恋愛をしたがる奴は少ないんだろ」
こいつと付き合う相手は、大恋愛をする羽目になりそうだ。
そんな話をしているうちに、二人が水を滴らせながら戻ってきた。
「お待たせしましたです!」
「いっぱい遊んじゃったね。私、お腹空いちゃった」
「あれ、エイルさん。もう髪の毛乾かしたんですか?」
「私、濡れたままなのが苦手ですぐ乾かしちゃうのよ。雪名もやってあげるわね」
千歳が背を向けると、エイルは髪を束ねていたゴムを外し、指を通した。濡れてまとまっていた髪が、梳かれるたびにほぐれていく。こちらまで温かな空気が届き、ほどなく毛先がふわりと広がった。
「わ、すごいです! もう乾いてる!」
「家に一人欲しいな」
「光希の髪だけ燃やしてあげてもいいのよ?」
「目立つからアフロは勘弁だ」
「琴乃葉さん、私もお願いしていいかな?」
「ええ、もちろんよ」
俺との対応の差は気になるが、文句を言って頭を燃やされるのも御免だ。
戦っている時は厄介極まりない熱を操る力も、こうして見ると便利なものだった。地獄祭りで水の温度を加減していたくらいだ。髪を乾かす程度の調整など、エイルには造作もないはずだ。
輝夜が髪を乾かしてもらっている間に、俺は浮き輪とビーチボールを返しに向かった。
※
更衣室で私服へ着替える。濡れた水着とラッシュガードを袋に詰めると、朝よりリュックが重くなった。
読書をしに来たはずが、結局泳がされてしまった。鼻の奥には、まだ水が残っている気がする。
待ち合わせ場所で三人と合流し、屋外へ出た途端、日差しに目を細めた。さっきまでの水の冷たさが、早くも恋しくなる。
「お昼にしましょうか。お腹が空いたわ」
エイルに促され、フードコートへ向かう。
昼時だけあって、店先には家族連れや若者が並んでいた。ソースの焼ける匂いを辿って進むと、千歳が頭上の看板を指差す。
「あれ食べたいです、富士サンド!」
「私は桜海老の焼きそばにしようかな。名物なんだって」
「じゃあ、私は紅富士の押し寿司ね。せっかく来たんだから、普段食べられない物にしたいわ」
「適当に買って、皆で分けるか?」
三人とも異論はないらしく、それぞれ目当ての店へ向かっていった。
席も決めていないのに、気の早い連中だ。俺は空いた四人席を見つけ、リュックを置いて腰を下ろした。
さて、何を買おうか。
富士サンドは気になる。
桜海老の焼きそばも悪くない。
押し寿司にも惹かれる。
榊原や千歳が好きなゲームなら、ここで誰と同じ物を選ぶかによって、その後の展開が変わったりするのだろうが、俺の目的は好感度を上げることではなく、腹を満たすことだ。
なので、四つ目の選択肢を選ぶ。
皆が買ってきた物を、少しずつ分けてもらえばいい。
そうして席を守ることに専念していると、十分ほどで三人が戻ってきた。
テーブルに並んだのは、先ほど話していた三品だけではない。ニジマスの塩焼き、つけナポリタン、しぐれ焼き。置く場所を作っている間にも、次の皿が差し出される。
「——買いすぎじゃないか?」
「少しずつ分ければ、色々食べられると思ったのよ」
「私もそう思って。ごめん、琴乃葉さんと同じの買っちゃったね」
エイルと輝夜が、それぞれ持っていた皿を見比べる。つけナポリタンとしぐれ焼きが、見事に二つずつ並んでいた。
さらに二人の袋から、飲み物が四本ずつ出てくる。
しかも、全てが静岡コーラ。
テーブルを埋め尽くす料理を前に、地獄祭りの記憶が蘇ってきた。集合体恐怖症の親戚で、集合食恐怖症と名付けることにしよう。
「飲み物までかぶってるですよ」
「お前は富士サンドだけか?」
「はいです。写真より大きかったので、追加はやめておいたです」
千歳が持ってきた皿の上には、具を何層にも挟んだサンドイッチがそびえていた。それ一つでも十分な存在感である。
「光希は何を買ってきたの?」
「何も。お前らが戻ってきてからにしようと思ってた」
「それなら、一緒に食べようよ。私たちだけじゃ多いし」
「ああ。先に待ってて正解だったな」
「次からは、お互いが何を頼んだか確認しましょう。飲み物まで八本は要らなかったわね」
俺は箸を取り、目の前へ回ってきた焼きそばから手をつける。名物と銘打つだけあって、海老の香りがよく、つい次の一口へ手が伸びた。
料理はどれも美味かった。ただし、腹には限界がある。
最初こそ互いの選んだ物を楽しんでいた俺と千歳も、皿が空くにつれて口数が減っていった。輝夜も焼きそばを少し残し、困ったように箸を止めている。
その中で、エイルだけは変わらず食べ続けていた。
「三嘉月さん、もう食べられないなら貰ってもいい?」
「いいの? 助かるけど、無理しなくて大丈夫だよ」
「無理なんかしてないわ。美味しいもの」
「お前がいてよかったと、心から思ってる」
「そういうことは、もっと早く言ってちょうだい」
エイルが引き受けた皿は、一枚ずつ綺麗になっていった。
地獄祭りでも世話になった胃袋に、こんな所でまた助けられるとは。俺は椅子の背にもたれ、最後の押し寿司が消えていくのを見届ける。
「先輩、今コーヒーカップに乗ったら、私、ゲロインになれる自信があるです」
「そのデビューはやめてくれ」
血反吐ならいくらでも構わんが、ゲロ吐くヒロインは流石に勘弁だ。
「二人とも、ご飯を食べる所でそういう話は駄目だよ」
「雪名、そのサンドイッチも残すなら貰うわよ」
まだ入るらしい。
料理はエイルのお陰で片づいたが、飲み物は余る。
結局、輝夜が隣の席の家族へ声を掛け、未開封の四本を貰ってもらうことになった。




