第六章 遊水の都 (1)
地獄祭りを乗り越えて数日。
待ちに待った夏休みに入ったというのに、夏の暑さは休む気がないらしい。今朝の天気予報では、最高気温が三十八度まで上がると話していた。あの地獄祭りより、さらに一度高い。
こんな日は冷房の効いた部屋で、読書に明け暮れるのが正解だ。それが分かっていながら外を歩いているのは、店長さんから呼び出されたせいである。用件を尋ねても「来りゃ分かる」としか返ってこなかった。
遠峰雑貨店の入口に張り付いた蝉を避け、扉を開く。
中から流れてきたのは、外と大して変わらない熱気だった。
「いい加減、冷房くらいつけたらどうなんだ」
「文句があるなら買ってくれ」
店の奥で、店長さんが椅子にもたれたまま答えた。目の前には扇風機。シャツの襟元を広げ、一人で風を浴びている。
「給料は出てるだろ。店以外の方から」
「出てるよ。ほとんど残らねえけどな」
「何に使ってるんだ?」
「お前と同じだ」
丸椅子へ座ろうとして、手が止まった。
店長さんは机の上の煙草を引き寄せながら、続ける。
「保護する人数が増えりゃ、それだけ金も要るだろうが。お前の稼ぎだけで足りてたと思ってんのか」
「——店長さんも出してたのか」
「ガキが懐空っぽにしてる横で、大人が知らん顔してるわけにもいかねえだろ。お陰で冷房も買えやしねえ」
俺が執行者として得ていた報酬は、保護された人間が施設を出た後の支援に回されていた。
治療や社会復帰に必要な費用は国が負担する。ただ、その先の生活までいつまでも面倒を見られるわけではない。そこへ俺の報酬を使ってもらうことが、仕事を引き受けた際に出した条件だった。
人を殺して得た金を、自分のために使う気にはなれなかった。
とはいえ、俺一人の金で足りていたのか、確かめたことまではなかったのだが。
「ありがとう」
「お前のために出してるわけじゃねえよ」
「ああ。それでも、ありがとう」
店長さんは煙草を咥えたまま、嫌そうに顔を逸らした。
俺もそれ以上は言わず、丸椅子へ腰を下ろす。扇風機から外れた場所では、座っているだけで汗が滲んでくる。
「それで、今日は何の用だ?」
「ああ、お前の後任が決まった。その報告だ」
「——もう仕事はしてるのか?」
「三件終わらせた。今のところ、しくじりもねえ」
後任は必ず見つける。
港で交わした約束を、この男は守ってくれた。俺が辞めた後も仕事が続いていると聞いて、胸を撫で下ろした。
「どんな奴なんだ?」
「腕はいい。金も要らねえ、契約条件はこっちに任せるときた。話が早すぎて、かえって気味が悪いくらいだ」
「どこかのスパイじゃないよな」
「素性は調べてる。何も出てこねえけどな」
「——よくそんな奴を見つけたな」
店長さんはライターを鳴らし、珍しく憂鬱そうに煙草に火をつけた。
「見つかったのはいいんだけどな。腕は申し分ねえが性格に難ありだ。今は犬塚に面倒を見させてる」
「犬塚より厄介なのか?」
「あいつが愚痴を言いに来る程度には」
「——それは重症だな」
「強い相手とやるのが好きなんだよ。厄介な標的の話をすると、やたら食いついてきやがる」
「仕事は遊びじゃないのにな」
「言って聞くなら苦労しねえよ」
煙草を持った手で、店長さんが後ろ髪を掻いた。
腕が立つからといって、任せていい人間とは限らない。その様子を見ていると、一つだけ確かめずにはいられなかった。
「関係のない人間まで殺してないよな」
「殺すのは標的だけだ。そこは守らせてる」
「なら、いい」
もし一般人まで巻き込んで殺していたら、俺と、ついでにエイルで全面戦争を仕掛けていたところだ。何故エイルを連れていくかと問われれば、俺よりも強いからという弱者の戯言なのだが。
執行者を辞めた俺に、後任を選ぶ権利はない。そいつがどんな性格だろうと、救うべき人間が救われるなら文句を言うつもりもなかった。
「ただ、もしそいつと揉めることがあっても、銃は使うなよ」
「何だ、それ」
「忠告だ。銃じゃお前に勝ち目はねえ」
「能力者なのか?」
「いいや。銃の扱いで、お前より上だって話だ」
思わず店長さんを見返した。
能力の相性で銃が通じないことはある。だが、純粋な銃の腕で負けると断言されるのは、面白くなかった。俺だって、昨日今日握り始めたわけではない。
「——言ってくれるな」
「試そうとすんじゃねえぞ。面倒が増える」
「こっちから会いに行くほど暇じゃないさ」
店長さんは短く笑い、灰皿へ灰を落とした。
「そっちはどうだ。第一級特別捜査班の件」
「まだ何も。エイルが調べてるが、手掛かりは掴めてない」
「そうか。何か分かったら知らせろ」
「ああ」
二人で動くのは手掛かりを掴んでからでいいと、エイルには言われていた。
店長さんが煙草を灰皿へ押しつけ、財布と携帯をポケットへ突っ込んだ。
「話は終わりだ。帰っていいぞ」
「呼び出しておいて、追い出すのは早いな」
「俺も出るんだよ。パチ屋なら冷房も効いてるしな」
「その金を冷房に回せ」
「増やしてから買うんだよ」
買えない理由が分かった気がする。
呆れながら俺も腰を上げたところで、明日の予定を思い出した。
「そうだ、車を一台借りられないか」
「車? 何に使う」
「地獄祭りの賞品で、静岡にあるレジャー施設のチケットを貰ったんだ。明日、学校の連中と四人で行くことになってな」
「お前が?」
店長さんが、財布を入れたポケットを押さえたまま固まった。
「そんなに意外か」
「そりゃな。お前の口から遊びに行くなんて聞くとは思わなかったぜ」
「誘われたんだよ」
「断らなかったんだろ?」
妙に楽しそうな顔をされると、頼む相手を間違えた気がしてくる。
「貸せるのか、貸せないのか」
「貸してやるよ。四人乗れりゃいいんだな?」
「ああ。普通の車で頼む。帰りが遅くなっても、電車の時間を気にせずに済むからな」
「明日の朝までに用意しとく。鍵は犬塚に渡しとくから、あいつから受け取れ。場所と時間は連絡させる」
「助かるよ」
「ガソリンは満タンで返せよ」
「分かってる」
「あと、変なもん置き忘れんなよ。女物の——」
「分かってると言っただろ」
最後まで聞かずに扉を開けると、背後で店長さんが笑った。
外へ出た途端、照りつける日差しに目を細める。帰ったら冷房をつけよう。明日持っていく本も、まだ選んでいなかった。
※
翌朝、枕元の携帯に起こされた。
画面に表示されていたのは、犬塚からのメール。車の用意ができたので、五時半に近所のコンビニへ来てほしいとのことだった。
窓の外は既に明るい。顔を洗って着替え、昨日のうちに用意したリュックを肩に掛ける。水着とラッシュガードにタオル、それから防水カバーをつけた文庫本が三冊。忘れ物がないことを確かめ、部屋を出た。
コンビニの駐車場では、犬塚がアイスコーヒーを片手に待っていた。高く結んだ髪を揺らし、こちらを見つけるなり空いた腕を広げて駆け寄ってくる。
「光希くーん! お姉さんの胸に飛び込んでおいでぇ!」
横へ避けると、犬塚の腕が空を切った。犬塚は伸ばした手を見つめ、不思議そうに首を傾げる。
「朝飯を買ってくる。そこで空気でも抱いてろ」
「ひどぉい! 朝から乙女に恥をかかせて! 責任取ってください、婚姻届と示談書どっちにします?」
「示談書。金はお前が払え」
「私が被害者なんですけどぉ!」
背中に飛んでくる抗議を聞き流し、店内でパンと缶コーヒー、それからアイスを買う。
外へ戻ると、犬塚はストローを咥えたまま、恨めしそうにこちらを見ていた。
「待たせたな。鍵をくれ」
「その前に合言葉をお願いします」
「警察を呼ぶぞ」
「はい、正解でーす!」
即答した犬塚が、俺の掌へ鍵を落とす。正解なら最初から聞くな。
「車はどれだ?」
「あそこの黒いアクアです。ガソリン満タン、車内も清掃済み。あとは助手席に私を乗せれば完成です」
「悪いが満席だ」
「膝の上でも大丈夫ですよぉ。ハンドルは私が握りますから」
「俺が大丈夫じゃない。朝早くから悪かったな、助かったよ」
「あら、急に素直。もう一回言ってください、録音するので」
「仕事はないのか?」
「ありますよぉ。あるからこうして、現実逃避してるんじゃないですか」
犬塚はコーヒーを啜ろうとして、氷しか残っていないカップを揺すった。溜息を吐く。
俺は買い物袋からアイスを取り出し、その頬へ押し当てる。
「ひゃっ! 何するんですかぁ!」
「朝早くから手間をかけた礼だ。溶ける前に食え」
犬塚は頬から離したアイスと俺を見比べ、にやりと笑った。
「やだ、私のために? 惚れちゃいますよぉ?」
「安上がりだな。それでも食って、仕事を頑張れ」
「うぅ、行きたくないです。今日くらい光希くんと遊んでたい」
「新人の相手か?」
「遠峰さんから聞いたんですか? もー大変なんですよ。話しかけても、はいとか、いいえとか。それだけ。こっちは頑張って話題を探してるのにぃ」
「まともな話題なんだよな」
「失礼な。好きな食べ物とか、趣味とか、休日は誰と何してるのか、とか」
「取り調べじゃないか」
「まだ序の口ですよ。ここから恋愛遍歴と初恋の相手を聞き出す予定です」
「愚痴を言いたいのは向こうかもしれんな」
犬塚が不服そうに頬を膨らませる。
あの質問攻めに、はいといいえだけで付き合っているなら、俺より辛抱強い奴だ。
「光希くんまで冷たくするんですかぁ。私、もう泣きますよ? このまま駐車場に寝転がって、光希くんの名前を叫び続けますからね」
「分かった。その愚痴はまた今度聞くから、店に迷惑をかけるな」
「約束ですよぉ? じゃあ車は明日返してもらえれば大丈夫です。鍵も私にお願いしますね」
「了解した」
ポケットの携帯が震えた。
エイルから『もう集まってるわよ』と催促が届いている。まだ集合時間の十分前だというのに、三人とも早い。
遅刻したわけでもないのに、小言を言われる姿が目に浮かんだ。
「今日は遊びに行くんだってね。熱中症にならない様に気をつけて行っておいで」
携帯の画面に苦笑していると、犬塚が言った。
いつになく優しい声だった。まるで母親の様な言い方に顔を上げると、犬塚は目を細めて俺を見ていた。
「何だよ、その顔」
「んー? 何でもないですよぉ。ほら、待ち合わせに遅れちゃいますよ?」
いつもの調子で急かされ、携帯をポケットへ戻す。
何をあんなに嬉しそうにしていたのか、聞きそびれてしまった。
「ああ。じゃあ、行ってくる」
「はーい、いってらっしゃい」
ひらひらと振られた手に、鍵を持ち上げて応えた。
車へ乗り込み、座席とミラーを合わせる。エンジンをかけると冷房が動き出し、ようやく一息つけた。店長さんの店にも、これくらいの冷風が欲しいものだ。
※
警衛高校の正門前に車を寄せると、三人がこちらを振り向いた。
赤いワンピース姿のエイルと、淡い紺色のカーディガンを羽織った輝夜。その隣では、片方の肩を出したトップスを着た千歳が、眠そうに目を擦っている。
「待たせたな。荷物は後ろに積んでくれ」
「先輩、先に乗っていいですか? 冷房のある場所へ行きたいです」
「荷物を積んでからな。あと、寝るならシートベルトを締めてからにしろ」
「そこまでお見通しとは。さすが光希先輩です」
感心する暇があるなら、さっさと乗れ。
俺が後ろのドアを開けると、千歳はリュックを押し付け、さっさと助手席へ回り込んだ。三人分の荷物を積み終えた頃には、既に吹き出し口へ顔を向けて涼んでいる。
「おはよう、光希くん。車まで用意してくれて、ありがとう」
「ああ。エイル、帰りは運転を頼めるか?」
「構わないわ。バスまで運転できるんだから、この車なら問題ないわよ」
「バスも運転できるのか?」
「ええ。免許は持ってるもの」
聞いてみるものだ。
警衛高校の生徒には、十八歳に満たなくても運転免許を取得できる制度がある。俺も捜査や移動のために取ったが、大型車まで運転しようとは思わなかった。
ともあれ、帰りに眠気と戦いながらハンドルを握る心配はなさそうだ。
「なら、安心して任せられるな」
「まずは光希が安全運転してちょうだい。途中で捕まるなんて嫌よ」
「今日は依頼でも追跡でもないんだ。普通に走るさ」
「先輩が運転してるの、初めて見るです。私、命を預けちゃっていいんですよね?」
「嫌なら今のうちに降りろ。まだ学校の前だぞ」
助手席のドアへ顎をしゃくると、千歳は慌ててシートベルトを締めた。分かりやすい意思表示である。
「はいはい、喧嘩しないの。光希くん、途中で休憩していこうね」
「ああ。着く前に疲れても仕方ないしな」
「それなら私は、今のうちに寝ておくです。着いたら全力で遊ぶので」
「昨日、早く寝なかったのか?」
「寝ようとは思ったんですよ。でも、あと少しで区切りがつくところだったので」
「その区切り、朝になる前には来たんだよな」
「——流れるプール、楽しみですね!」
都合が悪くなると話題まで流すらしい。
ミラー越しに目が合った輝夜が、堪えきれずに笑った。その隣ではエイルが施設の案内を開き、早速プールのページを探している。
「ほら、早く出発しましょう。もう六時を過ぎちゃったわよ」
「逆に言えば、まだ六時なんだがな」
「開園前には着きたいのよ」
「分かってる。全員、ベルトは締めたな?」
三人の返事を確かめ、車を出す。
後部座席からは、どのプールから回るかという相談が聞こえてきた。千歳も最初のうちは口を挟んでいたが、ほどなく声が途絶えた。
赤信号で停まった際に隣を見ると、もう目を閉じている。
これで現地に着いてから眠いと言い出したら、流れるプールへ放り込んでやろう。
俺は起こさないよう缶コーヒーをホルダーへ戻し、高速道路へ向かって車を走らせた。
※
二時間ほど走ったところで、休憩のためサービスエリアへ立ち寄った。
車を停めると同時に千歳が目を覚まし、寝ぼけ眼で周囲を見回す。目的地ではないと知って一瞬だけ残念そうな顔をしたが、トイレには行きたかったらしく、エイルと連れ立って建物へ向かった。
俺も車を降りて背を伸ばしていると、輝夜の携帯が鳴った。
「あ、ごめん。依頼の件だから、ちょっと出るね」
画面を確かめた輝夜は、少し離れた場所へ歩いていった。こちらには声が届かないものの、相槌を打ちながら何度か頭を下げている。
——休日の朝っぱらから忙しそうだな。
その間に、戻ってきたエイルが俺の隣で足を止めた。
「三嘉月さん、電話?」
「ああ。前に受けた指名依頼が、まだ終わってないらしい」
「前って、いつ頃?」
「お前が転校してきた日だ」
「それ、結構前じゃない。何の依頼なの?」
電話中の輝夜へ目を向ける。
詳しい資料を見せてもらったわけではないが、話を聞いたことは何度かあった。
「盗難事件の心理分析だ。犯人の行動から、次に狙われる店を予測してる」
「お待たせ。——その予測が、全然当たらなくて困ってるんだよね」
携帯を仕舞いながら、輝夜が苦笑いで戻ってきた。
「今の電話も、その報告か?」
「うん。昨日も、私が予測したお店に警察の人が張り込んでくれたんだけど、何も起きなかったんだって」
「その晩は、盗み自体なかったの?」
「ううん。別のお店には入られちゃったみたい。難易度は黄星って聞いてたんだけどなぁ」
「実際に捕まえようとして、取り逃がしたことはあるのか?」
「それが、一度も姿を見られてないの。怪我をした人もいないし、お店を荒らされたりもしてないんだよ」
「手際がいいのね。何を盗んでるの?」
「宝石や古い装飾品、骨董品なんかだよ。ただ、高価な物ばかり狙ってるわけじゃなくて、もっと値の張る物が隣にあっても、手をつけずに帰ってるの」
輝夜の話を聞き、エイルが眉を寄せる。
俺も最初に聞いた時には、同じような顔をした覚えがあった。
「高く売れる物より、特定の品が欲しいってことか」
「たぶんね。盗まれた物には、作られた時代がはっきりしない物もあるの。何か共通点があるんじゃないかって調べてるんだけど、まだ分からなくて」
「目当ての物かどうか、盗んでから確かめてる可能性は?」
「それも考えたよ。でも、盗んだ後で何を確かめてるのか、そもそも確かめる必要があるのかも分からなくて」
話しながら、輝夜はまた携帯へ目を落とした。
今にも資料を開きそうだったので、その前に声を掛ける。
「続きは帰ってからにしろ。今日は遊びに来たんだろ」
「——そうだね。ごめん、つい考えちゃった」
「謝ることじゃないわよ。私も聞いたんだし。何か思いついたら伝えるわ」
「ありがとう、琴乃葉さん。助かるよ」
輝夜が携帯を鞄へ戻したところで、建物の脇から千歳が現れた。俺たちを見つけると、軽い足取りで近づいてくる。
「お待たせしましたです!」
「遅かったな。二度寝でもしてたのか?」
「今、先輩への好感度メーターがゴリゴリ急降下してますですよ。元々マイナスだったのによく下げられますですね。もうすぐ絶対零度ですよ」
つまり、マイナス二百七十三点か。この前、勉強を教えた時にやったところだ。変なところで吸収が早い奴だ。
「起きてたなら、何してたんだ?」
「猫さんがいたので、ちょっと遊んでたんですよ」
「猫? この辺に?」
「はいです、あそこの木陰に黒猫さんが。首輪もついてたから、飼い猫かもしれないです。すごく人懐っこくて、撫でても逃げなかったんですよ」
こんな所に飼い猫?
誰かが連れてきたのか。千歳が振り返った先へ目を向けたが、もう猫の姿は見えなかった。
黒猫と聞いて思い出すのは、地獄祭りの日に見た奴だ。変な鳴き声に細い首輪。閉め切った教室にまで入り込んでいたから、よく覚えている。
とはいえ、ここは学校から二時間も走った先。同じ猫のはずもない。
「雪名、手は洗った?」
「もちろんです! もふもふを堪能してから、ちゃんと洗ってきました!」
千歳が両手を広げてみせた。
その右手の薬指には、祝福の指輪が嵌められている。店長さんの店で見つけた時から欲しがっていた物だが、今日も忘れずにつけている。
「それ、気に入ってるんだな」
「当たり前ですよ。私の宝物なんですから」
千歳は右手を胸元へ引き寄せ、左手でそっと包んだ。
買った時には、その後の本代をどう捻出するか悩まされたものだが、こうして使ってくれているなら悪い買い物ではなかった。
千歳が車へ向かうと、その横を通ってエイルがドアを開けた。
「ほら、そろそろ出ましょう。雪名、次は起きてるのよ?」
「任せてくださいです! 今の私は睡眠も、猫成分の補給もばっちりです」
「朝飯は食ったのか?」
「——先輩、そこの売店に寄ってもいいですか?」
俺は運転席へ伸ばしかけた手を止めた。
後ろで輝夜が笑いながら、千歳の隣へ並ぶ。
「私も何か買っていこうかな。光希くんたちは?」
「俺は飲み物だけ頼む。千歳、すぐ食える物にしろよ」
「分かってるですよ。すぐ戻るので、車を涼しくして待っててください!」
返事を待たず、千歳は輝夜と共に売店へ向かった。
あの調子なら、今度は寝ずに済みそうだ。俺はエイルと車へ戻り、先に冷房を入れて二人を待つことにした。




