第五章 地獄祭り (4)
校庭に出ると、軽快な音楽が耳に飛び込んできた。
つい先ほどまで競技が行われていた場所には、大きなキャンプファイヤーの薪が組まれている。
その周囲では生徒たちが音楽に合わせて踊り、校庭の両脇には飲食屋台が軒を連ねていた。
たこ焼き、焼きそば、かき氷にチョコバナナ。
縁日ではお馴染みの顔ぶれだが、どれも無料で提供されているのが警衛高校の太っ腹なところである。
まあ、昼間の競技で散々な目に遭わされたのだから、これくらいのサービスは当然とも言えるが。
「わぁ、綺麗! 去年より賑やかだね!」
「さっきまでの校庭とは思えないわね。——あら?」
不意に、エイルが足を止めた。
屋台には『無料』の文字が掲げられていた。
「ねぇ光希。あれ、全部タダなの?」
「ああ。天国祭りの出店は基本的に無料だぞ」
「たこ焼きも、焼きそばも?」
「かき氷もチョコバナナもな」
「——素晴らしいじゃない!」
目を輝かせたエイルが、感極まったように両手を合わせた。
先ほどまで校庭の景色を眺めていたというのに、今や関心は完全に屋台へ向いている。
「お前、昼間あれだけ食ったのに、まだ食う気なのか?」
「昼食と夕食は別でしょう? それに、無料で食べられる機会なんて滅多にないじゃない」
「貧乏性だな」
「倹約家と言ってちょうだい」
物は言いようである。
エイルの食欲には、熱を操る能力が関係しているのかもしれない。
とはいえ、無料という二文字に目を輝かせる理由まで、能力のせいにはできない。
「おーい、浅瀬!」
聞き覚えのある声に振り向けば、そこには焼きそばを山盛りにした皿を両手に抱えた加藤の姿があった。
しかも、口元にはしっかりとソースが付いている。
「よく食えるな」
「何言ってんだよ。昼は食わされたんだぞ? 今は好きなもんを食ってるんだから全然違うだろ!」
なるほど。言われてみれば一理ある——いや、ないな。
「加藤、あんた凄いわね」
「琴乃葉さんに言われるとは思わなかったな。そっちこそ凄かったじゃん」
「ふふっ。まあね」
エイルが得意げな笑みを浮かべた。
「お前に感心されるんだから大したものだな」
「何か言った?」
「いや。二人とも頼もしい胃袋をお持ちで何よりだ」
危うく虎の尾を踏むところだった。
「じゃあ俺、もう一皿貰ってくるわ!」
「まだ食うのか?」
俺の制止も聞かず、加藤は焼きそばの屋台へ戻っていった。
あいつの胃袋には、一体どんな仕組みが備わっているのだろう。
エイルと違って能力によるものでもないはずだ。
ぜひとも救命科の研究対象にしてもらいたい。
「エイルさん! あっちにたこ焼きがありますよ!」
「本当? 雪名、行きましょう!」
「はいです!」
意気投合した二人が、揃って屋台へ歩き始めた。
実に楽しそうで結構なことだ。
とはいえ、俺の胃袋には昼間の二百キロ早食い競争の記憶が色濃く残っている。
目の前で大量の料理を平らげる姿を見るだけで、胃が重くなる気さえした。
「光希くんは何か食べる?」
「いや、遠慮しておく。昼みたいに腹いっぱい食う気にはなれん」
「ふふっ。じゃあ、私と飲み物でも貰いに行こうか」
「そうするか」
エイルたちとは一旦別れ、俺と輝夜は飲み物を配っている屋台へ足を向けた。
辺りを見回せば、昼間の競技で顔を合わせた生徒たちの姿があった。
勝った者も負けた者も、今ばかりは学年の垣根を越えて談笑している。
無給労働が確定した連中まで笑っているのだから、現実逃避というものは偉大である。
「それにしても、みんな楽しそうだね」
「昼間は散々だったからな。その反動もあるんじゃないか?」
「光希くんも、今日は頑張ってたもんね」
「俺は早食いに参加しただけだ。頑張ったと言うなら、榊原やエイルの方が適任だろ」
「でも、光希くんがいなかったら勝てなかったと思うよ?」
輝夜は当然のことのように言った。
その評価には少々疑問が残る。
榊原を戦力外にした原因も、俺とエイルなのだから。
「まあ、勝てたんだから結果オーライだな」
「ふふっ。そうだね」
飲み物を受け取った。
陽は西へ傾き、昼間の強烈な日差しも幾分か和らいでいる。
音楽に合わせて踊る生徒たちの向こうには、点火を待つキャンプファイヤーの薪が見えた。
地獄祭りを生き抜いた者だけが参加を許される、天国祭り。
大仰な名前だが、少なくとも今の校庭に地獄の面影はない。
エイルと千歳が戻ってきたのは、それから間もなくのことだった。
「お待たせ。焼きそばの列、結構混んでたわ」
エイルは焼きそばの皿を両手に一つずつ持っていた。
「——まさか、二つともお前のか?」
「何か問題でも?」
「いや、片方は千歳の分かと思ってな」
「私はこっちのたこ焼きです!」
千歳が得意げに容器を掲げる。
こちらはこちらで、すっかり後夜祭を満喫している。
「エイルさん、焼きそば二つで足りるんですか?」
「ひとまずね。他にも食べてみたいものがあるから」
「全部制覇するつもりか?」
「無料で食べられるんだから、気になるものは試しておきたいじゃない」
実に合理的な判断である。
ただし、一般人の胃袋では実行不可能という欠点を除けば、だが。
「ふふっ。二人とも楽しそうでよかった」
「輝夜さんも食べますか? たこ焼き、美味しいですよ!」
「ありがとう。でも、私はもう少し休んでからにするね」
本人は元気だと言っているが、倒れたばかりなのだから無理は禁物だ。
俺が言わずとも、その辺は本人が一番理解しているはずである。
そうして四人で他愛のない話をしていると、不意に校庭の音楽が止まった。
『えー、間もなくキャンプファイヤーの点火を行います。生徒の皆さんは、中央の薪から十分に距離を取ってくださーい』
教員の声がスピーカーから響く。
周囲の生徒たちが足を止め、校庭の中央へ視線を向け始めた。
「もうそんな時間か」
時計を確認すれば、時刻は午後七時を少し回ったところだった。
西の空にはまだ夕焼けが残っているが、校庭には少しずつ夜の気配が漂い始めている。
「いよいよだね、光希くん」
「ああ。もっと早く点火するかと思ってたが」
「暗くなってからの方が綺麗でしょう?」
「まあ、それもそうか」
中央に組まれた薪へと目を向ける。
間もなく、教員の手によって火が灯された。
最初は小さかった炎が、乾いた薪を伝って徐々に勢いを増していく。
やがて大きな火柱となって夜空へ伸びると、校庭のあちこちから歓声が上がった。
「わぁ、綺麗!」
輝夜が感嘆の声を漏らした。
赤々と燃える炎に照らされ、周囲の生徒たちの顔が浮かび上がる。
スピーカーから次の曲が流れ始めると、キャンプファイヤーを囲んでいた生徒たちも踊り始めた。
笑い声に、手拍子。
校庭全体が昼間とは打って変わった賑わいに包まれていく。
「いいわね、こういうのも」
「そういえば、お前は学校行事そのものが初めてか」
「学校に通うのも初めてだもの。想像していたより楽しいわ」
「初めての体育祭が地獄祭りとは、災難だったな」
「ふふっ。退屈するよりはマシよ」
「ごもっとも」
ふと、校庭の隅にある一本の木が目に留まった。
去年の俺は、競技以外はあの木陰で本を読んでいた。
それが今年は、早食い競争に参加し、後輩や同級生の活躍を応援し、挙げ句の果てには後夜祭まで残っている。
正直、疲れた。来年も地獄祭りは遠慮したいところだ。
それでも、悪い一日ではなかった。
——まあ、たまにはこういう学校生活もいいか。
「思い出にするにはまだ早いんじゃない? たらしさん」
「誰がたらしだ。ちょっと去年のことを思い出してただけだろ」
エイルに背中を小突かれ、木陰から目を戻す。
去年と比べて感慨に浸っている間にも、目の前の三人は後夜祭を楽しんでいた。今日を振り返るのは、帰ってからでもいいか。
「先輩、何か面白いことがあったんですか?」
「大したことじゃない。それより、たこ焼き冷めるぞ」
「むぅ、隠しましたね? 隠し事する先輩には一つお裾分けです!」
「食い切れないなら正直に言え。一つだけだぞ」
「はい、あーんです!」
爪楊枝を刺したたこ焼きを、千歳が俺の口元へ差し出してきた。
わざわざ食べさせる必要があるのか疑問だが、受け取るのも面倒なので、そのまま口に運ぶ。
「——熱ッ!」
外側は程よく冷めていたが、中身はまだ熱々だった。
思わぬ不意打ちに顔をしかめる俺を見て、千歳が愉快そうに笑っている。
「ふふん! 隠し事する先輩への罰です!」
「お前、熱いの知ってて食わしたな?」
「さて、何のことですかね?」
白々しく首を傾げる千歳。
まったく、油断も隙もない後輩である。
「光希くん、大丈夫? お水持ってこようか?」
「いや、平気だ。地獄祭りを生き延びて、たこ焼きに敗北するところだったがな」
「ふふっ。雪名ちゃん、次はちゃんと冷ましてあげてね」
「次がある前提で話すな」
輝夜が笑う。
その向こうでは、炎に照らされた生徒たちが音楽に合わせて踊り続けていた。
俺たちも特に何をするでもなく、しばらくその光景を眺めていた。
すると、不意に千歳が顔を上げた。
「あ、そうです! せっかくですから写真を撮りませんか?」
「いいね! せっかくだし、キャンプファイヤーを背景に撮ろうよ!」
「賛成。私も記念写真って、一度撮ってみたかったのよ」
「お前、意外と乗り気だな」
「初めての体育祭だもの。思い出くらい残しておきたいじゃない」
エイルは楽しそうに笑った。
なるほど。こいつには学校行事の一つひとつが新鮮なんだな。
「はい! じゃあ皆さん、こっちに集まってください!」
千歳がスマホを取り出し、早速カメラを起動した。
どうせなら全員で写ろうということで、まずは自撮りを試すことになった。
「先輩、もっとこっちです!」
「十分近いと思うが」
「駄目です! 先輩の顔が半分しか写ってないです!」
「なら、そのままでいいんじゃないか?」
「よくないよ、光希くん。せっかく四人で撮るんだから」
輝夜に背中を押され、渋々千歳の隣へ移動する。
千歳は画面の角度を変えてみたが、四人と炎がうまく収まらない。
「誰かに撮ってもらいましょう。その方が、キャンプファイヤーも入るわ」
千歳は近くにいた女子生徒へ声を掛けた。
「すみませーん! 写真お願いしてもいいですか?」
「いいですよ! 四人一緒でいいですか?」
「はい! キャンプファイヤーも入れてください!」
快く引き受けてくれた女子生徒にスマホを預け、俺たちは横一列に並んだ。
「光希くん、もう少し真ん中においでよ」
「俺は端で構わんぞ」
「駄目よ。どうせなら綺麗に並びましょう」
「やけにこだわるな、お前ら」
三人の指示に従い、立ち位置を調整する。
「それじゃあ、撮りますよ!」
女子生徒がスマホを構え、千歳が元気よくピースサインを作った。
「光希くん、笑って笑って!」
「笑ってるぞ」
「それで? もう少し楽しそうにしなさいよ」
「お前らは俺の表情筋に何を期待してるんだ」
「先輩! ほら、にっこりです!」
俺だけ注文がやたら多い。
というか、撮影する側を待たせてまで表情を矯正する必要があるのか?
「もう、光希くんったら!」
輝夜が堪えきれずに吹き出した。
それにつられて千歳が笑い始め、エイルまで肩を震わせている。
何がおかしいんだか。
——パシャリ。
「あっ、今の撮れました!」
「えっ、今のでいいんですか?」
「はい! 皆さん、いい笑顔でしたよ!」
千歳がスマホを受け取り、俺たちも画面を覗き込んだ。
キャンプファイヤーを背景に、四人とも笑っていた。エイルまで、普段の勝ち気な表情とは違う、柔らかな顔をしている。
そして俺はというと。
「——なんだ、この顔」
「あははっ! 光希くんも笑ってる!」
「あら、本当。いい写真じゃない」
「これは永久保存版ですね!」
自分では普通にしていたつもりなのだが、写真の中の俺は確かに笑っていた。
まあ、変顔で写るよりはマシか。
「千歳、余計な加工だけはするなよ」
「先輩に猫耳なんてつけないですよ?」
「やめろ。やるならエイルにやってくれ」
「私を巻き込まないでちょうだい」
「ふふっ。雪名ちゃん、普通の写真も送ってね」
「もちろんです!」
「あと、勝手にネットへ上げるなよ。お前の顔だって写ってるんだからな」
「心配してくれるんですね。ちょっと意外です。ラッキーパンチです。レアドロップです。タイタンの霹靂です」
「最後のは青天の霹靂だろうが。俺たちの写真でもあるんだから、そこは気を付けろ」
千歳が嬉しそうにスマホを操作し始める。
何はともあれ、無事に記念写真が撮れたわけだ。
あとは千歳の手によって、俺の頭に猫耳が生えていないことを祈るばかりである。
写真の共有を終えた千歳がスマホをしまう頃には、キャンプファイヤーを囲む生徒たちの数も増えていた。
音楽に合わせて踊る者もいれば、屋台で貰った食べ物を片手に談笑する者もいる。
中には昼間の競技で力尽きたのか、校庭の端に座り込んでいる生徒までいた。
「みんな元気ね。昼間あれだけ大騒ぎしてたのに」
「元気なのと、疲れてることに気づいてないのは別だからな」
「先輩も人のこと言えないですよ?」
「俺はちゃんと休んでるぞ。保健室で読書もしたしな」
「それ、休憩って言うのかな?」
輝夜が苦笑する。
心身の休息に読書ほど適したものはないと思うのだが、どうにも理解されない。
そんな会話を交わしている間にも、校庭には次々と曲が流れていた。
ふと、キャンプファイヤーの向こう側に見覚えのある顔が目に入った。
護衛科の同級生だ。
昼間の競技で踊り足りなかったのか、数人が揃って音楽に合わせて身体を動かしている。
「あいつら正気か?」
「あら、楽しそうじゃない」
「ソーラン節で散々な目に遭ったばかりじゃないのか?」
「今は好きで踊ってるんだから、いいんじゃない?」
あの連中の体力だけは理解できん。
そんな具合に後夜祭を眺めているうちに、時計の針は午後八時に近づいていた。
校庭の端では屋台の片付けが始まり、食事を終えた生徒たちが次々と容器を返却している。
昼間から続いていた長い学校行事も、終わりが近い。
『えー、生徒の皆さんに連絡です。天国祭りは間もなく終了します。閉会式を行いますので、各学科・学年ごとに整列してください』
スピーカーから案内が流れると、校庭のあちこちで名残惜しそうな声が上がった。
それでも、生徒たちは少しずつ中央へ集まり始める。
「そういえば、閉会式では優勝賞品も配られるのよね?」
「レジャー施設のチケットだったな」
「遊園地のチケットですよね! 忘れたら駄目ですからね、先輩!」
「わかってる。お前はそればっかりだな」
「当然ですよ! 夏休み最大のイベントになるんですから!」
千歳が胸を張る。
お前の夏休みはゲームとアニメで埋まっているんじゃなかったのか。
本人が楽しみにしているのなら水を差す必要もないか。
「じゃあ、私たちも行こうか。雪名ちゃん、一緒に途中まで行こう」
「はいです!」
輝夜と千歳は、それぞれの学科の列へ向かっていった。
残された俺とエイルも、検挙科の二年生が集まっている場所へ足を運ぶ。
既に大半の生徒が整列しており、先頭では榊原がせっせと人数を確認していた。
あいつは本当に、こういう仕事を率先して引き受ける男だな。
便利なので今後も頑張ってもらいたい。
「光希、あんまり変なこと考えてないでしょうね?」
「失礼な。俺がいつも悪巧みをしているような言い方はやめてくれ」
「自覚がないなら重症ね」
ひどい言われようである。
やがて音楽が止まり、校庭を照らすキャンプファイヤーの炎だけが静かに燃え続ける。
生き残った生徒たちが整列すると、朝礼台へ一人の教師が歩いてきた。
我らが魔人である。
その手にはマイクが握られていた。
——嫌な予感しかしない。
「さぁお前らァ! 長かった地獄祭りもこれで終了だ! 今年は去年より天国祭りに参加できた奴が多くて残念に思う! 来年はさらに難易度を上げてやるから覚悟しとけよ!」
開会式と変わらぬ大声が校庭に響き渡った。
朝から晩まで騒ぎ続けているというのに、魔人の声量は一向に衰える気配がない。
その体力を少しは生徒たちに分けてほしいものだ。
理不尽な閉会宣言に、一、二年生の間から悲鳴にも似た声が上がった。
「来年もこれをやるのね」
「嫌なら今のうちに転校することをお勧めするぞ」
「冗談じゃないわ。せっかく入学したんだから、卒業まで居座ってやるわよ」
「頼もしい限りだ」
エイルの返答に苦笑しながら、校庭の大型モニターへ目を向ける。
そこには、今日一日の競技結果とともに、途中脱落者の人数が表示されていた。
——二百七十人。
全校生徒の二割近くが途中で脱落した計算になる。
これだけの犠牲者を出しておきながら、生存率が高すぎると文句を言うのだから恐れ入る。
幸い、俺たち検挙科二年Aは優勝を勝ち取っている。
これで夏休みの無給労働からは解放されたわけだ。
去年の苦い経験を思い出せば、それだけでも十分な報酬と言える。
「というわけで、各学科、各ブロックの優勝クラスには予定通り豪華レジャー施設のチケットを進呈する! 二位には学食の食券三千円分! 最下位の連中は夏休みの予定を空けておけよ!」
最下位という単語が出た瞬間、あちこちから絶望的な呻き声が漏れた。
中には膝から崩れ落ちる生徒までいる。
気持ちはわかるぞ。俺も去年は似たような反応をしたものだ。
「光希、笑ってない?」
「まさか。他人の不幸を笑うほど性格は悪くないさ」
「よく言うわね」
何故か信用してもらえなかった。
その後、各学科の優勝クラスを表彰するため、代表者が順番に朝礼台へ呼ばれた。
「次ィ! 検挙科Aブロック優勝、二年Aの榊原拓徒ォ!」
我らが検挙科二年Aからは、榊原が代表として登壇する。
あいつが賞品を受け取ると、同級生たちから盛大な拍手が送られた。
本人も嬉しそうに手を振っている。
昼間、あれだけの料理を食わせた甲斐があったというものだ。
閉会式が終わると、今度は学年ごとに夏休みの注意事項が伝えられた。
明日から待ちに待った夏休みである。
期間は七月二十日頃から八月中旬までの約一か月間。
一般校と比べれば短めだが、それ以上に厄介なのは、休暇中に最低一件の依頼を受けなければならないことだ。
学校の外でも警衛として活動しろ、ということなのだが、休暇の意味を辞書で調べ直してほしい。
教師陣の頭の中では、夏休みと勤労期間が同義語なのか。
「夏休みも仕事があるのね」
「まあ、一件だけなら大した負担じゃないさ」
「あら、光希にしては前向きじゃない」
「去年の無給労働に比べれば、どんな仕事も天国に思えるからな」
「経験者の言葉は重いわね」
長かった連絡も終わり、生徒たちが解散し始めた。
あとは優勝賞品のチケットを受け取って帰るだけだ。
これで長かった地獄祭りともお別れ。
明日からは自宅でのんびり読書三昧と洒落込むとしよう。
そんな平穏な未来を思い描いていたところで、聞き覚えのある声がした。
「おーい、光希! 琴乃葉さんも! チケット配るから、こっちに来てくれ!」
声の主は榊原だった。
手には人数分と思しきチケットの束が握られている。
——問題はその両隣に立っている二人の少女だ。
右隣に立っているのは、追跡科二年の神坂カナリア。
そして左隣にいるのが、探索科一年の一ノ瀬由梨だ。
二人とも容姿端麗で、神坂は輝夜と、一ノ瀬は千歳と同じクラスだったはずだ。
詳しいことは知らないが、いつも榊原の周囲にいるので顔くらいは覚えている。
何故名前まで知っているのかと聞かれれば。
「拓徒くんが呼んでるんだから、さっさと取りに来なさいよ変人!」
この通り、何かにつけて絡んでくるからである。
「呼ばれてるぞエイル」
「本当に人に被害を擦りつけるのが好きよね。どう見ても彼女、光希を指差してるじゃない」
「はぁ、面倒くさいな」
何故だか俺は、榊原の取り巻きにひどく嫌われている。
特に害があるわけでもないので放置しているのだが、こうして顔を合わせるたびに噛みつかれるのは勘弁してほしい。
とはいえ、チケットを受け取らなければ帰れない。
仕方なくエイルと共に三人の元へ向かう。
「ちょっと、いつまで待たせるつもりよ!」
神坂が腕を組んで睨んできた。
相手が何も言い返さないと思ったら大間違いだぞ。
「今日は榊原の膝の上に座ってないから、どっちが喋ってるのかわからなかったぞ」
「なっ!?」
「んー?」
神坂の顔が一瞬で真っ赤になった。
対照的に、その隣にいた一ノ瀬の笑みが、妙に冷たくなった。
神坂は一見すると気の強い少女だが、榊原に対しては驚くほど甘い。
以前、放課後の教室で榊原の膝に座り、幸せそうな顔をしていたのを目撃したことがある。
本人は誰にも知られていないと思っていたのか、耳まで真っ赤にしていた——ついでに榊原も。
「これだけの人数に知られたら、さすがに恥ずかしいか?」
「黙れ変人! それ以上言ったら承知しないから!」
「一丁前に恥ずかしがってるじゃないか」
まったく、素直じゃない奴だ。
しかし、俺の発言によって別の問題が発生していた。
「カナリアちゃん。本当なの? この前、抜け駆けはやめようねってお話ししたばかりだよね。もう忘れちゃったのかな? かなぁ?」
どこかで聞いた覚えのある言い回しとともに、一ノ瀬が笑顔のまま神坂に詰め寄った。
「ちょ、ちょっと落ち着いて由梨——」
「動かないでカナリアちゃん。動いたら上手に足を切れないでしょ?」
そんな物騒な言葉を放った一ノ瀬は、何処からか取り出したバタフライナイフを握りしめ神坂に狙いを定めている。
「ひぃ!」
「落ち着け由梨!」
「拓徒くん。そこどいてそいつ殺せない」
悲鳴を上げる神坂と、なんとか止めようとする榊原。更に、この世で一番恐ろしいパロディを現実で再現する一ノ瀬。
「ご、誤解なんだ!」
「拓徒くんはカナリアちゃんの味方なの?」
「いや、そういう意味じゃなくて——」
「じゃあ、ちょっと黙っててね?」
榊原が口を閉じた。
あの男を一言で黙らせるとは、なかなか大したものである。
神坂は何とか言い訳を続けているが、一ノ瀬の笑顔は崩れない。
むしろ、言い訳が増えるたびに榊原の顔色が悪くなっている。
「——あの子って、もしかして」
隣で様子を眺めていたエイルが、小声で話しかけてきた。
「ああ、その通り。俺が一番関わりたくない、『ヤンデレ』と呼ばれるタイプの人種だ」
「恐ろしいわね」
当人たちに聞こえないよう声を落として答える。
普段なら聞かれようが気にしないところだが、何せ相手は、好意を寄せた人間に一日数百通もの連絡を送るような少女である。
迂闊に目をつけられたくない。
その被害者は榊原なのだが。
周囲の同級生たちは慣れたもので、榊原が持っているチケットを次々と受け取り、足早に帰っていく。
俺もその流れに乗り、エイルの分と合わせて二枚のチケットを受け取った。
これで用事は済んだ。
あとは帰るだけである。
「エイル、行くぞ」
「えっ、いいの? あの三人」
「人様の事情に首を突っ込むのはよくないからな」
「貴方が騒ぎを大きくしたんじゃない」
「何のことやら」
エイルの追及を適当に受け流し、その場を離れる。
後ろでは神坂が必死に弁解し、一ノ瀬が笑顔で問い詰め、榊原が二人を宥めようと悪戦苦闘していた。
地獄祭りの最後にふさわしい地獄絵図であった。
「み、光希! 頼む、助けてくれ!」
榊原の悲痛な声が背中に届いた。
だが、俺は振り返ることもなく、エイルと共に帰路へと向かいながら一言だけ返した。
「まぁ頑張れ、ラノベ主人公」
その後、警衛高校から男女二名の悲鳴が近隣にまで響き渡ったそうだが——俺とはなんら関係のない出来事だろう。




