モノローグ 主人公《ヒーロー》に憧れた少年
少年は主人公に憧れていた。
なぜ憧れたのか。
そこに明確な答えなどありはしない。幼いからこその憧れだ。
ただ、きっかけはあった。
両親は共働きで、兄弟もいない。そんな少年が家で過ごす時間の大半は、親に買い与えられたゲームで遊ぶか、幼いながらも理解できるアニメを観ることに費やされていた。
一番身近に感じられる、強くて格好いい他人。
それが空想の世界に生きる物語の主人公たちだったのだ。
「僕も人の役に立ちたい。世界を護りたい」
それは幼いながらに、少年が胸に刻んだ確かな信念だった。
だが、当然ながら現実はそれほど甘くない。
クラスメイトからの少年に対する評価は散々なものだった。臆病者や弱虫は当たり前。つまらないやつ、オタクみたい、弱いくせに大口を叩いている。
そんな言葉を投げかけられても、少年が言い返すことはなかった。
臆病で弱いという言葉を、少年自身も否定しきれなかったから。
少年は、誰からもまともに相手にされなかった。ただ、正義の味方に憧れているというだけで、笑いものにされていたのだ。
そんな少年には、一つのあだ名があった。
『正義マン』。
その名が付いたのは、少年なりの『正義』を貫こうとした結果だった。
ある日、少年は同級生が数人の男子生徒に囲まれ、悪口を浴びせられている場面を目撃した。
他人に立ち向かう自信などなかった。それでも、同級生が傷つけられている姿を見過ごすことはできず、少年は勇気を振り絞って止めに入った。
アニメで見た正義の主人公のように。
「弱い者いじめは止めろ!」
その言葉に返ってきたのは——嘲笑だった。
『ばっかじゃねぇの。かっこつけて出てきた癖に足震えてんじゃん』
指摘された通り、少年の足は震えていた。
手や足が出たわけではない。しかし、幼いがゆえに彼らの持つ『言葉のナイフ』は、恐ろしく鋭利な凶器になり得た。
いじめていた少年たちの一人が、笑いながら言った。
『こいつの名前、正義マンにしようぜ』
正義の味方と呼ばれたかったはずなのに。
笑いながら浴びせられるその呼び名は、憧れていたものとはまるで違っていた。
少年の勇気は、そこで挫けてしまった。
繰り返される『正義マン』の呼び声に耐えきれず、少年は助けようとした同級生を見捨て、その場から逃げ出してしまったのだ。
——僕は主人公になんてなれない。
少年がその結論を出すまでに、長い時間はかからなかった。
※
ある夏の公園。
少年が不名誉なあだ名を付けられた日から、三ヶ月ほどが経っていた。
今日も両親は仕事で家を空けている。帰宅するまで、あと三時間はかかるだろう。
以前であれば、家でお気に入りのアニメを観ながら、両親の帰りを待っていたはずだ。
今は、かつて憧れた存在を観ることさえ悔しかった。自分は主人公になれない。そのことを思い知らされる気がしたのだ。
「お、お前と同じくらいの歳じゃないか」
普段は人の少ない公園で、珍しく声がした。
思わず顔を上げると、二人の人物がこちらを見ていた。
親子だろうか。
女性にしては背の高い大人と、自分と同じくらいの年頃の少年。ただし、その少年はひどく無愛想な顔をしており、こちらに興味を示す様子もない。
「何か、ようですか?」
他人と話すことに緊張しながらも、なんとか声をかける。
無愛想な少年はこちらを一瞥すると、「特にない」とだけ答えて踵を返そうとした。
「おいこら、ばかたれ。挨拶くらいしろとあれほど言っただろ」
そう言って、母親と思しき女性はその頭に拳骨を落とした。
頭を押さえながら「ってぇなあ。分かったよ。こんにちは、さようなら」と投げやりに言ったものの、女性が再び拳を握りしめると、ちらりと振り返り、慌てて言葉を継いだ。
「——ってのは嘘で、お前何歳だ?」
「えっと、今年で八歳だよ」
「なんだ、タメか。なよなよしてるから年下かと思ったぞ」
「そ、そうなの」
おどおどする少年と、唯我独尊を地でいく無愛想な少年。傍から見ても、二人が同い年だとは到底思えない。
「お前、あだ名とかないのか?」
「えっ」
唐突な質問に、少年はビクッと肩を震わせた。
その反応に目敏く気づいた女性は、二人を見比べてから口を開いた。
「私はコンビニに行ってくるから、ここで待ってろ」
そう言い残し、公園から出ていってしまった。
「はいはい。そんで、さっきの反応ならあるんだろ? あだ名」
少年は迷った。
あんな恥ずかしい名前を、わざわざ他人に教えたくはない。
しかし、相手は素性も知らない、初めて出会った男の子だ。だからこそ、話してもいいかもしれない。
そんな気持ちになった。
「——マン」
「は? なんだって?」
蚊の鳴くような小さな声だった。恥ずかしさで、言葉そのものが消えてしまいそうになる。
「だから——義マン」
「欺瞞? なんだ、嘘つきなのかお前?」
「違う! 正義マンだよ!」
あまりにもひどい聞き間違いに、思わず大声を出してしまった。
——笑われる。
咄嗟に相手の表情を窺う。
しかし、少年の予想は外れた。
無愛想な少年は、意外そうに目を細めていたのだ。
「凄いじゃないか。俺と変わらない歳だってのに、名前に正義を背負ってんだろ。今時、小説の主人公だってそんなことできないぞ」
思いも寄らない言葉に、少年は目を瞬かせた。
誰もが馬鹿にしてきた『正義マン』という名前を、目の前の少年は何の疑いもなく褒めてくれたのだ。
「でも、僕なんて弱いし、最近も後悔したばかりで——」
「やれるだけのことはやったのか、正義マン。それで駄目だったならしょうがないことだろ。主人公が失敗しないわけがない。あいつらは死ぬほど努力して、人を助けるために力を使うんだ。弱かったら、これから強くなればいいだろ。まだ諦めるには早すぎるんじゃないか、正義マン」
パッと。
少年の目には、はっきりと自分の進むべき道が見えた。
今まで尊敬していた、どんな主人公よりも格好いい存在に出会ってしまったのだ。
『正義マン』。
その忌み名が、自分にとって最高の『勲章』に変わった。
「僕、頑張ってみるよ。君の名前を聞いても——」
「おーい、坊主。行くぞ」
問いかけを掻き消すように、先ほどの女性の声が公園に響いた。
「ったく、喧しい奴だ。悪い、何か言ったか?」
そう聞き返され、少年は首を横に振った。
「お礼を言っただけだよ。ありがとう」
「気にすんな。主人公には脇役が付き物だろ。俺はさながら『友人A』ってところだ。じゃあな、また会ったときはよろしく頼むよ、『正義マン』」
そう言って、無愛想な少年はゆったりと音もなく歩き去っていく。
その背中に向けて、少年は小さく呟いた。
「いつか君の隣で——僕は戦いたいな」
これは、偶然出会った二人の少年の物語。
『主人公』を目指す少年と、『脇役』を目指す少年。
相容れない二つの物語が交わった、ほんの短い幕間である。




