エピローグ それでも明日は来る
名古屋港の一件から、一週間が過ぎた。
あれから俺の生活に大きな変化があったかと聞かれれば、答えは特にない。相変わらず警衛高校へ通い、授業中は教師の話を適度に聞き流しながら読書に明け暮れている。
《執行者》の解任は、俺にとって決して小さな出来事ではない。ただ、仕事用の携帯を気にする必要がなくなった分、読書に費やせる時間は増えたくらいだ。
ちなみに、第一級特別捜査班の失踪事件については、隣の席に座る紅の瞳——エイルが調査を進めている。二人で動くのは手掛かりを掴んでからでいいと、あいつが言うので、俺も今は調査の進展を待っている。
エイルとの関係も、表向きは変わっていない。
互いの正体を知り、あれだけ派手にやり合ったというのに、相変わらず意見は合わないし、顔を合わせれば軽口が飛んでくる。俺も律儀に付き合うほど暇ではないのに、黙っていれば余計なことを言い始めるのだから始末が悪い。
目に見えて変わったことといえば、互いを名前で呼ぶようになったくらいだ。もっとも、その些細な変化を見逃してくれるほど、俺の周囲は鈍感な人間ばかりではない。
特に千歳である。
初めて俺たちが名前を呼び合う場面を目撃した際には、何があったのかと質問の嵐を浴びせてきた。あまりの食いつきように、普段ゲームへ注いでいる情熱の一割でも勉学へ回せないものかと、真剣に考えたほどだ。
結局、俺たちの態度にこれといった変化が見られなかったためか、数日で質問は収まり、今では名前で呼び合っていても気にする様子はない。実にありがたい話である。
もちろん、何もかも以前と同じではない。俺はエイルが何を信じ、何を許せないのかを知ったし、向こうも俺が何を考えて行動してきたのかを知っている。
考えが変わることはなくても、相手がそう言う理由は分かる。その上で今まで通り軽口を交わせるなら、俺としては十分だった。
今日も俺は普段通り授業に明け暮れていたのだが。
「おい、浅瀬ぇ! 聞いてんのか!」
教卓から怒声が飛ぶのとほぼ同時に、視界の端で白い物体が動いた。反射的に首を傾けると、耳元を何かが掠め、背後から乾いた破裂音が響く。
振り返れば、教室の壁に白い粉が付着していた。チョークだったらしい。ただし、コンクリートの壁まで凹んでいるのは、できれば見間違いであってほしかった。
普通の教師が投げたのなら、多少痛い思いをする程度で済むだろう。生憎、教壇に立っているのは我らが検挙科二年Aの担任、通称『魔人』である。
冗談でも、あの人間から飛んでくる物を素直に受け止める気にはなれない。
「すみません。考え事をしていました」
「考え事をしてた割には、ちゃんと避けやがるから腹が立つ。チョークだって備品なんだからな。無駄に消費させんなよ」
「なら投げなければいいのでは?」
「うるせえ! いいから本を閉じろ! 来月の『地獄祭り』について説明してるんだよ!」
その名称が出た途端、教室の空気が沈んだ。
地獄祭り。
警衛高校に通う生徒なら、知らない者はいない。いや、知らない方が幸せな行事だろう。
「ねえ、光希。地獄祭りって何なの?」
隣の席からエイルが小声で尋ねてきた。
最近聞いた話では、エイルは警衛高校どころか、高校そのものに通ったことがないそうだ。学力は大丈夫なのかとも思ったが、十歳で高卒の資格を取り、その後は黒星になるための修行に明け暮れていたという。
黒星になってからも、第一級特別捜査班の仕事で学校には通わず、東京警衛高校からの転校も表向きの経歴だったそうだ。
学校行事に馴染みがないのも、無理はない。
「体育祭だよ」
「体育祭? それにしては物騒な名前ね」
「実態を知れば、むしろ良心的な名称だと思えるぞ」
「どういう意味よ?」
「競技の内容が普通じゃないんだ。去年なんか、終わった後にまともに歩ける奴がほとんどいなかった」
「それ、体育祭としてどうなのかしら」
「俺に聞くな。教師たちにとっては、それが正常らしい」
唯一の救いは、団体競技への出場が基本的に一人一種目で済むことだ。もっとも、一種目だけで体力を使い果たすのだから、救いになっているのかは怪しい。
「毎年恒例だが、今年も同じ学科の一年A、二年A、三年Aで一組。Bも同じだ。三クラスある学科はCでも競う。各組で順位を決めるから、隣のクラスが勝ってもお前らには関係ねえぞ。能力の使用は禁止。競技ごとのルールも守れよ。勝つためなら何をしてもいいってわけじゃねえからな」
学科によって得意分野が違う以上、分けて競うのは妥当だろう。公平性に気を配るなら、まず競技内容から見直してほしいものだが。
「——恐ろしい学校ね」
「今さら気付いたのか?」
「知ってはいたけど、想像より酷かったわ」
「安心しろ。慣れても酷いものは酷い」
エイルが呆れたように溜息を吐く。まったくもって同感である。
「さて、今年の検挙科二年の団体種目候補は三つだ」
魔人は黒板に三つの競技名を書き連ねた。
『魔王の行進』
『二百キロ大食い競争』
『鉄球送り』
どれも嫌な予感しかしない。
「——先生。まともな競技が一つも見当たらないんですが」
「何言ってんだ榊原。全部まともな競技だろうが」
まともの定義から話し合う必要がありそうだ。話が通じる相手なら、こんな競技を提案してこないだろうが。
「魔王の行進というのは、どんな競技なんですか?」
「おお、目の付け所がいいじゃねえか! 私が先頭を走り、お前らがその後ろに続く競技だ。途中でバラバラにならねえよう、全員を一本の紐で繋ぐ。あとは私が満足するまで走るだけ。実に簡単だろ?」
「——アーメン」
榊原が天を仰いだ。
この人間が満足するまで走らされる上、全員が一本の紐で繋がれている。誰か一人が遅れれば、他の全員も巻き添えだ。何とも素晴らしい連帯責任である。
俺なら開始前から棄権を選ぶ。
「残りの二つは名前の通りだ。二百キロ大食い競争は、クラス全員で合計二百キロの料理を食う。鉄球送りは普通の大玉送りと同じだな。使う玉が一トン程度の鉄球になるだけだ」
「先生。それは本当に普通の大玉送りと同じ競技なんですか?」
「鉄球になっただけだって言ってんだろ。細けえことを気にすんな」
一トンを細かいことで済ませるとは恐れ入る。
魔王の行進は論外。鉄球送りも、積極的に選びたいとは思えない——というか死ぬ。
残るは二百キロ大食い競争だが、うちのクラスは四十人。単純計算で一人当たり五キロになる。
——五キロか。
走らされ続けたり鉄球に潰されたりするよりはマシだろう。
「ねえ、光希。貴方ならどれを選ぶ?」
「消去法で大食い競争だな。正直、五キロも食える自信はないが」
「随分と弱気ね」
「普段からそんな量を食べてる方がおかしいんだよ」
エイルは何か言いたそうにしたが、結局それ以上は追及してこなかった。その反応の意味を考える前に、魔人が手を叩く。
「よーし! 説明は終わりだ。今から多数決を取るぞ!」
「はーい」
挙手が始まると、票は一つの競技に集中した。魔王の行進を選ぶ物好きは皆無。鉄球送りも数えるほどで、大多数が二百キロ大食い競争を希望したのである。
「決まりだな! 今年の検挙科二年は二百キロ大食い競争だ!」
満足そうに笑う魔人をよそに、教室には安堵とも絶望ともつかない溜息が広がった。一人五キロの料理では、喜ぶ気にもなれない。
二百キロもの料理を誰が用意するのかも気になるが、そこは教師側で考えているのだろう。ひとまず競技も決まったことだし、読書に戻るとしよう。
授業が終わるまでにはまだ時間がある。中断された物語の続きを読むには、ちょうどいい。
文庫本へ手を伸ばしたところで、教壇から二本目のチョークが飛んできた。
まったく、落ち着いて読書もできない学校である。
※
さらに一週間後。
警衛高校は、一般の高校と同じく試験の時期を迎えていた。それが終われば、例の『地獄祭り』が待ち受けている。生徒にとっては憂鬱な時期だが、幸い、競技の練習までさせられることはない。
あんなものを事前にやらされては、まともに試験を受けられる生徒がいなくなるからだろう。
「暑いです! もう無理です! というわけで、私は帰って冷房の効いた部屋でゲームをするです!」
「待てコラ、残念微笑女。人を呼び出しておいて、自分だけ帰ろうとするんじゃない」
「よくそれで高校生になれたわね——」
俺たちがいるのは検挙科の教室だ。明日から試験が始まるため、本日の授業は午前中で終わっている。
放課後も残っているのは、試験に備えて自主的に勉強する真面目な生徒か、今までの怠慢を一日で取り戻そうとする大馬鹿者。そして、目の前で帰宅を宣言した千歳雪名は、残念ながら後者に分類される。
「だって、もう頭が働かないです! これ以上勉強しても何も覚えられないですよ!」
「お前な。昨日、自分から勉強を教えてくれって頼んできたんだろうが」
俺だって貴重な読書時間を割いている。それを開始早々に帰られては、何のために残ったのか分からない。
「——雪名。これはさすがに酷いわよ」
千歳の背後で問題集を捲っていたエイルが、机の上の答案に目を落とした。俺も覗き込むと、数学は二十四点。
冷房の効いた部屋に逃げ込んでいる場合ではなかった。
「千歳。お前、数学はもう少し真面目にやった方がいいぞ」
「数学だけです! 他の科目はちゃんと点数を取ってるです! 英語なんて高得点です!」
それは知っている。外国語や情報処理の成績は優秀だし、専門分野となれば教師顔負けの知識も持っている。
その頭を数学にも使ってほしいものだ。
「英語は問題ない。国語と社会もまあ許容範囲だ。数学をどうにかしろ」
「数字なんて電卓に計算させればいいです! 人間がわざわざ紙に書いて計算する意味が分からないです!」
「試験会場でそれを言ってみろ。きっと先生が丁寧に説明してくれるぞ」
相手が魔人なら、言葉だけで済む保証はない。
エイルも千歳の主張には呆れたのか、首を振った。
「雪名。赤点を取ってから後悔しても遅いのよ?」
「分かってるです——」
「だったら、もう少し普段から勉強することね」
千歳は不満そうに頬を膨らませ、問題集へ視線を戻した。鉛筆が動き出す気配はない。
「そもそも、お前はゲームをやりすぎなんだ。プレイ時間を半分にすれば、勉強する時間くらい十分確保できるだろ」
「一日十三時間しかゲームができないなんて、そんな生活は嫌です!」
「当然のように時間の概念を超越するんじゃない」
「大体おかしいです! 毎日本ばっかり読んで、授業もまともに聞いてない先輩が、どうして学年二位なんですか! 理不尽すぎるです!」
「あら、光希って学年二位なの?」
エイルが意外そうに目を丸くした。
「何だ、その反応は」
「だって貴方、授業中はいつも本を読んでいるじゃない。勉強しているところなんて見たことないわよ?」
「よく考えてみろ。教科書だって、大きな括りで見れば本だろ?」
教科書にも一通り目は通している。試験範囲を覚えるためだけに、改めて何時間も机へ向かう必要はなかった。
「——変なところで本の虫が役に立っているのね」
「読書家と言ってくれ」
エイルが溜息を吐く。
ちなみに学年一位は輝夜だ。普段から勉強を欠かさず、図書委員の仕事まできっちりこなしている。俺と違って授業も真面目に聞いているのだから、当然だろう。
「教科書を読むだけで高得点が取れるなら、誰も苦労しないです」
「文句を言う前に、今からでも読めばいいだろ」
「うぅ」
恨めしそうな目を向けられても困る。俺に文句を言っている間に、一問でも解いてほしい。
「そういえば、エイルは試験の方は大丈夫なのか?」
「私?」
「転校してきたばかりだろ。授業内容も試験範囲も、まともに把握できてないんじゃないのか?」
「その心配なら必要ないわ。試験範囲は確認してあるし、内容も特に難しくはなかったもの」
「なら問題ないな」
「ええ。少なくとも一般教科で困ることはないわ」
千歳がさらに肩を落とした。
そこから二時間ほど、俺とエイルは千歳の勉強に付き合った。輝夜がいれば教え方も違ったのだろうが、図書委員の仕事をしているあいつまで呼び出すのは気が引けた。
結局、千歳が机に突っ伏して動かなくなり、さすがに今日はここまでかと思った。
「もう限界です。頭から煙が出そうです」
「今日はこのくらいにしておきましょうか」
「そうだな」
ようやく終わった。これで帰宅して、読書に明け暮れることができる。
鞄を手に取った俺の横で、エイルが千歳へ声を掛けた。
「それじゃあ雪名、帰りましょう。家でもう少し復習するわよ」
「——え?」
千歳の表情が固まった。
「まだ苦手な問題が残っているでしょう? 明日の朝までに少しでも解けるようにしておかないと」
「ちょ、ちょっと待ってくださいです! 勉強会は終わったはずです!」
「学校での勉強会は、ね」
エイルがにっこりと微笑む。
ここでの勉強を切り上げただけで、千歳を解放する気はなかったらしい。俺まで連行される前に、帰った方がよさそうだ。
「先輩! 助けてくださいです! 帰ったらゲームする約束だったです!」
「そんな約束した覚えはないぞ。まあ、頑張れ」
二人を見送り、俺もさっさと帰路へ就く。背後から千歳の悲痛な声が聞こえてきたが、振り返る気はなかった。
これを機に、普段から勉強する習慣を身につけてもらいたいものだ。
さて、帰宅したら昨日読みかけだった小説の続きを読むとしよう。
そう考えながら校門を抜けたところで、制服のポケットから振動が伝わってきた。携帯を取り出し、画面を確認する。
——詩織。
こんな時間に連絡してくるとは珍しい。何かあったのだろうか。
俺は足を止め、通話ボタンを押した。
「もしもし、光希さん! 今、お時間大丈夫ですか!」
電話に出るなり、慌ただしい声が聞こえてきた。
相手は崎野詩織。行きつけの喫茶店『サキノ』の看板娘で、近隣の暁高校に通う一年生だ。確か、向こうも試験期間中で、今日は午前授業だったはずだが、何かあったのだろうか。
普段から元気のいい少女でも、ここまで切羽詰まった声を聞くのは珍しい。
「暇といえば暇だが、どうした?」
「それが、お店が大変なことになってまして!」
「——また強盗でも入ったのか?」
「違います! お客さんです! 今日は朝からずっと満席で、お爺ちゃんと二人じゃ全然手が足りないんです!」
「サキノが?」
受話口の向こうから、食器の触れ合う音や客の話し声が聞こえてくる。普段の静かな店内を思い浮かべても、満席という言葉がうまく結び付かなかった。
「それで、もしお時間があるなら、少しだけでもお店を手伝っていただけないかと思いまして!」
そういえば、以前マスターから週に一度ほど働いてほしいと誘われていた。
万年金欠の俺にとっては悪くない話だ。欲しい本は際限なく増えるくせに、財布の中身は勝手に増えてくれない。引き受けたままになっていたことだし、予定のない今日ならちょうどいい。
「分かった。今から向かうよ」
「本当ですか! ありがとうございます! それじゃあ、お待ちしてますね!」
弾んだ声を最後に通話が切れ、携帯をポケットへ戻す。
ようやく手に入れた読書時間は諦めるしかなさそうだが、たまには普通の高校生らしく、アルバイトに精を出すのも悪くない。
※
「——なんだ、これは」
カランコロンと鳴るカウベルを背に、俺は店内を見渡した。
テーブル席だけでなく、普段は常連客くらいしか利用しないカウンターまで埋まっている。注文を呼ぶ声と客同士の会話が重なり、いつもの落ち着いたサキノとは別の店に来たようだった。
客の大半は学生で、教科書や問題集を広げている者も多い。試験前の勉強場所になっているらしい。
羨ましい話だ。俺も客として来たかった。
「あっ、光希さん!」
店内を忙しなく動き回っていた詩織が、こちらに気付いた。人懐っこい笑顔はいつも通りだが、額には汗が浮かんでいる。
「随分と盛況だな。いつからこんな人気店になったんだ?」
「それが、色々ありまして! 詳しいお話は後でしますから、とりあえずお爺ちゃんのところへお願いします!」
詩織は料理を載せたトレーを手に、客席の間へ戻っていった。引き止めている場合ではなさそうだ。
俺も客の邪魔にならないよう、厨房へ向かう。
「マスター。手伝いに来たぞ」
「おお、光希くん! 急に呼び出してしまってすまないね。来てくれて助かったよ」
マスターは珈琲を淹れる傍ら、料理の仕上げにも追われていた。普段の飄々とした様子はなく、俺と話す間も手を動かしている。
「気にしないでくれ。元々バイトの約束はしていたんだ。それで、何をすればいい?」
「まずは溜まっている食器を洗ってもらえるかな? 料理を作るので手一杯で、なかなか手が回らなくてね」
指差された先には、皿とカップが山のように積まれていた。これでは猫の手も借りたくなる。
「了解した。ところで、服装はこのままでいいのか?」
自分の制服へ視線を落とす。目立った汚れはないが、実技授業でも使っている服だ。飲食店で働くなら、着替えた方がいいだろう。
「着替えなら奥の休憩室に用意してあるよ。サイズが合うといいんだけど」
礼を言って向かったのは、以前、強盗が押し入った際に詩織が避難していた部屋だった。
小さなテーブルと椅子、全身鏡が置かれた室内には、白いワイシャツと黒いスラックスが用意されていた。その上には、サキノの名前を刺繍した黒いエプロンまで畳まれている。
あらかじめ揃えてくれていたらしい。早速着替え、鏡の前に立ってみた。
「——悪くはないか?」
制服とは違う姿に見慣れないだけで、仕事をする分には問題ない。サイズも思いのほか——というか、怖いくらいぴったりだった。
厨房へ戻ると、マスターが顔を上げる。
「おお、光希くん。似合ってるじゃないか! サイズもぴったりで良かった。千歳くんに聞いた甲斐があったよ!」
「なんであの残念美少女が俺の体型を完璧に把握しているのか非常に気になるが——今は置いておく。あそこに溜まっている皿の山を洗えばいいか?」
以前一緒に訪れて以来、千歳はすっかりサキノの常連になっていた。詩織とも仲がいいようだし、遊びに来た際にでも聞かれたのだろう。
問題は、どうやってサイズを知ったかだ。学内に保存されている身体測定のデータでも覗いたのかもしれない。
服を用意するために不正アクセスされたのだとしたら、たまったものではない。今度会ったら問いただしておこう。
「ああ、頼むよ。あと一、二時間くらいで落ち着くと思うから、それまではお願いできるかな?」
「了解した。任せてくれ」
「助かるよ」
マスターは申し訳なさそうにしているが、まずは接客ではなく、皿洗いで助かった。
シャツの袖を捲り、山積みの食器と向き合う。一人暮らしでもあるし、皿洗いには慣れていた。輝夜が家に来る度、洗い方から片付け方まで口を出してくれるおかげで、手際にも多少は自信がある。
皿に残った汚れを落とし、洗い終えたものから水切りかごへ移していく。洗い残しがないか確かめ、次の一枚へ手を伸ばす。
作業自体は難しくないのだが。
「——減らんな」
一枚洗う間にも、新しい食器が次々に運ばれてくる。これでは追い付かない。
「光希さん! あっ、ごめんなさい! その洗い方だと、ちょっと間に合わないかもしれないです!」
振り返ると、空になったトレーを抱えた詩織が、申し訳なさそうにこちらを見ていた。
「すまない。そんなに遅かったか?」
「いえいえ! 丁寧に洗ってくれているのは分かるんですけど、今日はお客さんが多いので、もう少し手早くやらないと食器が足りなくなっちゃうんです!」
「なるほど。何かコツでもあるのか?」
「ありますよ! ちょっと代わってもらってもいいですか?」
場所を譲ると、詩織は食器を種類ごとに分け、手早く汚れを落とし始めた。洗う順番も道具の扱いも迷いがなく、俺が一枚ずつ片付けていた時とは明らかに速度が違う。
家の食器を洗うのとは、勝手が違うらしい。
「その順番なら、無駄が少ないな」
「もちろん、汚れが残っていたら駄目ですけど、慣れれば結構早くできるようになりますよ!」
「——凄いな」
「えへへ。これでも小さい頃からお爺ちゃんのお手伝いをしていますから!」
詩織が得意げに胸を張る。
普段は何気なく見ていた仕事も、やってみれば簡単ではない。洗い物一つで、これだけ差が出るのだ。
「助かった。続きは任せてくれ」
「はい! それじゃあ、私はまたお料理を運んできますね!」
ホールへ戻っていく詩織を見送り、食器の山へ向き直る。
教わったばかりで、詩織と同じようにはいかない。それでも、任された分くらいは片付けたかった。
「——負けてられないな」
教わった手順を思い返し、再び食器へ手を伸ばす。種類を揃え、洗う順番を変えるだけでも、手を止める回数が減った。さっきまで追い付かなかった食器が、少しずつ片付いていく。
それから二時間ほど経つと、店内もようやく落ち着きを取り戻した。カウンターには数人の客が残っているものの、テーブル席の大半は空き、運ばれてくる食器も途切れがちになっている。
溜まっていた食器を洗い終え、手を止めた。
あれほど積まれていた皿もカップもなくなり、シンクの底が見える。
達成感のある光景だった。
「光希さん、お疲れ様です!」
洗い終えた皿を片付けていると、詩織が厨房へ顔を覗かせた。
「詩織もお疲れ様」
「お客さんも落ち着きましたし、よかったら一緒に賄いでも食べませんか?」
「ありがたい誘いだが、お前が抜けて大丈夫なのか?」
「え?」
「まだ客は残ってるだろ。ホールを空けても問題ないのかと思ってな」
混雑は収まっても、仕事が終わったわけではない。二人揃って休憩に入っては、マスター一人に負担が掛からないか。
「ああ、それなら大丈夫だよ。今くらいの人数なら、私一人で十分だからね」
マスターが手を動かしながら、こちらへ笑みを向けた。先ほどまでの忙しさを切り抜け、余裕も戻ったようだ。
「ありがと、お爺ちゃん! それじゃあ光希さん、賄いができるまで、あちらの席で休んでいましょう!」
「ああ。ご馳走になるよ」
「二人とも、今日は本当に助かったよ。ゆっくり休んでおいで」
詩織に案内され、店の一番奥にあるテーブル席へ腰を下ろす。普段、読書をする時によく使っている席だ。
今日は客席から眺める余裕もなかったが、座ってみると、ようやく馴染みの店に戻ってきた気がした。
「はぁぁ——。今日は本当に疲れましたぁ——」
向かいに座った詩織が、テーブルへ突っ伏す。店内を駆け回っていた時には見せなかった疲れが、一気に出たらしい。
「お疲れ様。さすがに今日は大変だったな」
「そうなんですよ! こんなにお客さんが来たの、初めてかもしれません!」
「そういえば、結局何があったんだ? いつものサキノなら、平日の昼間に満席なんて珍しいだろ」
珈琲も料理も、味なら大通りの人気店に負けていないと思う。ただ、人通りの少ない裏路地にあるため、客は近隣の住民や常連が中心だった。
あれほど学生が押し寄せるようになったのには、何かきっかけがあるはずだ。
「それがですね。この前の強盗事件、ニュースになったじゃないですか」
「ああ。そういえば、そんな話を聞いたな」
「その影響で、最初は興味本位のお客さんが増えたんです。そこから珈琲や料理が美味しいって評判になって、今ではこんな感じで——」
店を脅かした事件が、繁盛のきっかけになるとは皮肉な話だ。
「いいことじゃないか。売り上げも増えてるんだろ?」
「はい。それはもちろん、嬉しいんですけど——」
詩織が言葉を濁す。先ほどの勢いはなく、困ったように笑っていた。
「何か気になることでもあるのか?」
「サキノって、昔から来てくださる常連さんが多いんです。毎朝決まった時間に珈琲を飲みに来る方とか、お仕事の帰りに寄ってくださる方とか。そういうお客さんたちが、最近あまり来なくなっちゃって——」
詩織の視線が、空いたカウンター席へ向く。
「常連客が来なくなったのか」
俺も、以前の静かな店内を思い浮かべた。珈琲を飲みながら、誰に急かされることもなく本を読む。そうして過ごせるところも、この店を気に入っている理由だった。
連日満席では、いつもの席でくつろぐことも難しいだろう。混雑を避けて足が遠のく客がいても、不思議ではない。
「お店が繁盛するのは嬉しいんです。お爺ちゃんだって喜んでますし、私ももっと頑張ろうって思えるんですけど——なんだか、今までのサキノが少しずつ変わっちゃう気がして。それがちょっと寂しいんです」
客が増えて困るとは、贅沢な悩みなのだろう。商売として考えれば、喜ぶべきことに違いない。
詩織が寂しく思っているのは、祖父と一緒に馴染みの客を迎えてきた日常が、変わり始めていることなのだろう。毎日顔を合わせていた相手が来なくなれば、忙しさとは別のところで寂しさも残る。
「——まあ、気持ちは分からなくもないな」
「そう、ですか?」
「ああ。俺だって、この店で落ち着いて本を読めなくなったら困るからな」
「ふふっ。やっぱり光希さんは本のことなんですね」
詩織が小さく笑う。その顔に、いつもの明るさが戻った。
「ただ、何もかも変わったんじゃないだろ?」
「え?」
「珈琲の味も、マスターの人柄も、詩織の接客も。客が増えたからって、そこまで変わったわけじゃない」
注文に追われながらも、マスターは一杯ずつ丁寧に珈琲を淹れていた。詩織も店内を駆け回りながら、客への笑顔を欠かさなかった。
落ち着いて座れる席はなくても、俺の知るサキノはそこにあった。
「——そうですね。でも、最近来なくなった常連さんたちも、また戻ってきてくれるでしょうか?」
「全員とは言えないが、混雑が落ち着けば戻ってくる人もいるんじゃないか。少なくとも、俺はこれからも通うぞ」
「——本当ですか?」
「嘘を言ってどうする。せっかく見つけた読書に最適な場所なんだ。そう簡単に手放す気はない。それに、輝夜も千歳も、エイルだって気に入ってるみたいだからな」
今後も混雑が続くなら、来る時間帯は考えなければならない。それでも、この店に来なくなる理由にはならなかった。
詩織はしばらく俺を見つめ、やがて安心したように微笑んだ。
「——そう言ってもらえると、嬉しいです」
「まあ、また皿が溜まったら呼んでくれ」
「はい! それじゃあ、賄いを持ってきますね! 今日はお爺ちゃんが特別に作ってくれるそうですよ!」
「それは楽しみだな」
詩織は嬉しそうに席を立ち、厨房へ向かった。
まったく、元気な奴である。その元気を千歳にも分けてやってほしいものだが、あいつの場合は使う方向を間違えているだけか。
椅子の背もたれへ身体を預けると、窓から差し込む夕日が目に入った。店内は淡い橙色に染まり、昼間の喧騒も遠のいている。
いつもの席で、賄いを待つ。
こういう時間も、悪くない。
※
マスターの作った賄いを頂き、俺は初めてのアルバイトを終えた。
帰り際に手渡された給料は、決して大きな金額ではない。数時間、皿を洗い続けて得たものだと思えば、封筒の中身にも妙な重みがあった。
店の外はすっかり夕暮れ時で、昼間の暑さが和らいだ裏路地を、心地よい風が吹き抜けていた。
千歳の勉強に付き合い、その後はサキノで皿洗い。結局、今日はほとんど本を読めなかったが、不思議と嫌な気分ではない。
執行者を辞めてから、二週間。
仕事用の携帯が鳴らなくても、学校へ通う日は続く。友人とくだらない話をし、頼まれれば誰かの仕事を手伝う。それだけで、気付けば一日が終わっていた。
学校へ通うことも、誰かと話すことも、昨日今日始めたことじゃない。今さら感慨に浸るほどのことでもない。
それでも、今日のような一日なら、またあってもいいと思った。
さて、帰りに本屋へ寄っていくか。
せっかく手に入れた給料だ。使い道は、言うまでもないだろう。
俺は封筒を鞄へしまい、夕暮れの街を歩き始めた。




