第四章 互いの正義 (3)
互いを警戒したまま目を向けると、岸壁に積まれたコンテナの最上段に、一人の男が立っていた。その離れた位置には、フードを深く被った女もいる。
——逃がしたはずなのにな。
二人とも、いつから見物していたんだ。
「——店長さん」
「おう。楽しそうだったな、光希」
「見物料を取るぞ」
「勘弁しろや。こっちも仕事なんだ」
店長さんは悪びれもせず、肩を竦めた。
偶然通りかかったとは思えない。犬塚はコンテナの縁に腰掛け、退屈そうに足を揺らしている。普段なら真っ先に余計な口を挟む奴が、妙に大人しい。
それが、かえって不気味だった。
「どういうつもりですか、銀次さん」
琴乃葉の声に苛立ちが滲む。
俺が気になったのは呼び方だった。
銀次さん。
あの口振りは、初対面の相手に向けるものではない。店長さんも、当然のように受け止めている。
この二人、知り合いなのか。
「琴乃葉とも知り合いだったのか?」
「ああ。こいつが警衛になる前からな」
「残念ながらね」
「世話になった相手に言うことかよ」
「店長さん。礼を要求すると余計に嫌われるぞ」
「お前も大概だな。ほら、二人とも武器を下ろせ。話が進まねえ」
琴乃葉へ視線を戻すと、あいつもこちらを見ていた。銃口は触れ合ったまま。店長さんの言葉に従うにしても、先に武器を下げるのは御免らしい。
こちらも同じだ。
目配せを交わし、ほぼ同時に一歩退く。ガバメントを下げ、刀で押さえていた左腕を解放した。
琴乃葉もベレッタを下ろしたが、ホルスターへは戻さない。まだ逮捕を諦めてはいないようだ。
「——お前も、とんでもない知り合いを持ってるな」
「それ、私の台詞よ」
店長さんは二人の視線を気にも留めず、コンテナから飛び降りた。数メートルの高さを、軽い着地音だけで済ませて歩み寄ってくる。
相変わらず、人間離れした身体能力だ。
「さて。二人とも言いたいことは山ほどあるだろうが——」
「まず一つ答えてくれ」
「何だよ」
「琴乃葉が《執行者》を捜していたこと、知ってたのか?」
店長さんは俺の問いに、面白そうに口元を緩めた。
「こいつに手掛かりを渡したのは俺だ」
「なんだって?」
間抜けな声が漏れた。
琴乃葉は否定しなかった。ただ、店長さんを見る顔からも、それまでの余裕が消えている。
「銀次さん。執行者とは、どういう関係なんですか」
「仕事を出してる。今夜の執行も、俺の指示だ」
「——天秤に関わっていたんですね」
「お前を警衛に誘う前からな」
琴乃葉の視線が俺へ移り、店長さんへ戻った。
「父の殺害を命じたのも、銀次さんですか」
「俺だ。光希に執行させた」
ベレッタを握る指が強張った。
琴乃葉は銃を持ち上げこそしなかったが、その手を緩めることもなかった。
「私の父だと知っていて?」
「そこまで調べずに、執行を命じると思うか」
「では、私が執行者を捜していた時も、全部知っていたんですね」
「誰が、いつ、どこで殺したかまでな」
店長さんの声は落ち着いていた。誤魔化す気も、冗談にする気もないらしい。
対照的に、琴乃葉はすぐには言葉を返せなかった。伏せた目を上げ、改めて店長さんを見据える。
「私は銀次さんを頼ったんです。執行者を見つけるために」
「だから、警衛高校にいると教えた」
「命令を出したご自分のことは伏せたまま、ですか」
「お前を光希に会わせるつもりだった。俺が間で説明して終わらせるんじゃなく、本人と話をさせたかったんだよ」
「——そう言えば、納得するとでも?」
「そこまで都合よく考えちゃいねえよ。黙ってたことに腹を立てるなとも言わねえ」
琴乃葉が唇を引き結ぶ。
俺も黙って聞いてはいられなかった。店長さんは牛尾があいつの父親だと知りながら、何も知らない俺を引き合わせたのだ。
正体を隠すために手を回してきた男が、追っ手に学校を教えた理由は分かった。
分かったところで、気に食わないことに変わりはない。
「店長さん。説明するなら、俺にも分かるように頼む」
「順に話す。ただ、先にお前らの立場を整理するぞ。琴乃葉、まだ光希を逮捕する気なんだな?」
「当然です。銀次さんが命じたとしても、執行者が人を殺した事実は変わりません。ご自身の関与についても、説明していただきます」
「そこは変わらねえか。なら、まず逮捕できない理由から話す」
「——どういう意味ですか?」
琴乃葉の表情が険しくなる。
俺も説明を待った。いくら旧知の仲でも、第一級特別捜査班が店長さんの一言で逮捕を諦めるはずがない。
「光希がこれまで行ってきた執行には、国の正式な承認がある」
「——承認?」
「正式な執行命令には、特別な権限が付く。黒星の権限とは違うもんだ」
「待て。国の依頼で動いていることは知っているが、そんな権限は聞いてないぞ」
「教えてねえからな」
《天秤》が国の依頼を受け、調査と裁定を行う。その命令を俺が執行する。仕組みは知っている。
国が仕事を命じることと、その結果に責任を持つことは別だ。
正体が明るみに出たところで、誰かが俺を守ってくれるとは思っていなかった。必要になれば切り捨てられる。それも《執行者》の仕事だと覚悟していたのだ。
「正式な執行なら、罪に問われないと?」
「許可された対象に限る。誰でも好きに殺していいって意味じゃねえぞ」
「——なぜ黙ってた?」
「国が許してるからって、気が楽になるような仕事じゃねえだろ」
「許可があれば、俺が何も感じなくなると?」
「そこまでは言ってねえ。ただ、余計な拠り所を与えるのが嫌だった。俺の勝手だよ」
まったく、笑えない話だ。
輝夜や千歳との約束も、ようやく馴染んできた学校生活も、すべて置いてこの街を去るしかないと思っていた。
それが、店長さんの一言で覆された。
二人に何も告げず、姿を消さなくて済む。輝夜の作る晩飯を食って、千歳とゲームの感想を話す。そんな明日が、まだ続くのだ。
張り詰めていたものが緩み、息が漏れた。
助かったとは思う。ここまで振り回した男に、礼を言う気にはなれなかったが。
「——私にも、説明する機会はありましたよね。執行者を逮捕できないと、最初から知っていたんですから」
「知ってた。そこも含めて説明する。必要なら、正式な執行命令も確認させる」
「お願いします。ですが、今になってそれを明かされても、すぐに納得はできません」
「無理に納得しろとは言わねえ。まず、俺の説明を聞いてくれ」
「——分かりました」
琴乃葉はベレッタへ目を落とした。
やがてホルスターへ収める。疑問は残っている。今は、店長さんの言葉を信じると決めたようだ。
「俺を捕まえるのは、ひとまず保留か?」
「執行命令を確認するまではね。ただし、政府が認めていても、貴方のしてきたことに納得したわけじゃない」
「認めろとは言ってない」
「ええ。だから今は、銀次さんの説明を聞くわ」
俺もガバメントと無銘刀を消す。
これで今夜の戦いは終わった。互いの考えが変わったからではない。
そして、店長さんにはまだ聞くべきことがある。
「さて。今度はこっちの質問に答えてもらおうか」
「何だよ」
「俺を逮捕できないと知っていて、琴乃葉に手掛かりを渡した理由だ。ハブとマングースを戦わせたかったわけじゃないんだろ」
「俺を何だと思ってんだよ」
「面倒事を持ち込む天才」
店長さんが苦笑する横で、琴乃葉が目を細めた。
「——第一級特別捜査班の件ですね」
「察しがいいな」
「その捜査に、執行者を加えるためですか」
「お前と組んでもらう。今夜、互いの実力は分かっただろ」
「事前に説明していただきたかったです」
「先に言って、お前は承諾したか?」
「いいえ。ですが、説明しなくていい理由にはなりません」
「——そいつは一理あるな」
「一理しかありませんか?」
琴乃葉は笑っていなかった。店長さんも苦笑を引っ込め、俺へ向き直る。
「光希。第一級特別捜査班で厄介なことが起きてる」
「何があった?」
「琴乃葉を除く所属者全員が、消息を絶ってる」
琴乃葉へ視線を向けたが、驚いた様子はなかった。険しい顔で店長さんの話を聞いている。
知らなかったのは俺だけか。
「生死も分からないのか?」
「所在も安否も、まだ確認できてねえ」
一度も標的を取り逃がしていない精鋭たちが、消息不明。
一人ならまだしも、琴乃葉を除く全員だ。偶然で済む話ではない。
「手掛かりは?」
「最後に確認された足取りを追ってる。消息を絶った理由までは分かってねえ」
「黒星が何人も消えて、それだけか」
「だから厄介なんだよ」
店長さんが苦々しげに吐き捨てた。
ただ、気になることがあった。
「——それにしては、静かだな」
「あ?」
「第一級特別捜査班が機能してないんだろ。国にとっても相当な痛手なのに、噂一つ聞かないぞ」
「公表してねえからな」
無理もない。連中の不在が知れ渡れば、好機と捉える犯罪者も出てくる。
国としても、迂闊に明かせる話ではないのだろう。
「それで、政府はどう動くんだ?」
「俺に命令が来てる。消えた連中を捜して、何があったか突き止めろってな」
「店長さんに?」
「何だよ。不満でもあるのか?」
「いや。雑貨店の店主に国家の一大事を任せるとは、政府も人材不足なんだな」
店長さんは呆れたように鼻を鳴らした。
それまで黙っていた琴乃葉が、口元を緩める。
「知らなかったの? 銀次さんは元第一級特別捜査班よ」
「——そうなのか?」
「昔の話さ」
「残念なことに、私の師でもあるの」
元第一級特別捜査班にして、現役の黒星を育てた男。
琴乃葉が遠慮なく言い返しながらも、店長さんの説明には耳を傾ける理由が分かった。政府が直接仕事を任せるのも、そうした経歴があるからか。
ただ、雑貨店まで営んでいる理由は、ますます分からなくなった。
「店長さん。あんた、本当に何者なんだ?」
「ただの雑貨屋だよ」
「説得力が皆無だな」
「うるせえ。雑貨屋だって色々あるんだよ」
「そんな雑貨屋があってたまるか」
「話を戻すぞ。連中が自分から姿を消したのか、誰かに消されたのか。それも分からねえうちに人を送り込んで、同じことになったらどうする」
「——嫌な予感しかしないぞ」
店長さんの視線が、俺と琴乃葉を順に捉えた。
「光希。お前には琴乃葉と組んで、消えた第一級特別捜査班の連中を捜してもらう」
「断る」
「拒否権はねえ」
「相談ですらないのかよ」
「命令してるんだよ」
相変わらず横暴な男だ。こちらの都合を聞く気など、最初からない。
琴乃葉も黙ってはいなかった。
「銀次さん。捜査が必要なのは分かります。でも、どうして執行者を選んだんですか?」
「実力なら十分だろ。お前も今夜、嫌ってほど確かめたはずだ」
「腕が立つのは認めます。でも、協力できるかは別です」
「お前が納得できねえのは、こいつの腕か。それとも、やってきたことか?」
「切り離して考えろと言うんですか?」
「捜査の間はな。考え方まで合わせろとは言ってねえ」
「簡単に言ってくれますね」
「簡単じゃねえから、お前ら二人を選んだんだよ」
「——本当に勝手な人なんだから」
琴乃葉が息を吐く。
俺と組むことへの不満はあっても、それ以上は言い返さなかった。仲間が消息を絶っている以上、捜査を優先するのだろう。
俺には引き受ける理由がない。
「悪いが、店長さん。俺は引き受けないぞ」
「理由を聞こうか」
「今の仕事がある。いつ終わるとも知れない捜索に付き合ってる暇はない」
「その件なら心配いらねえ」
「どういう意味だ?」
店長さんは俺を真っ直ぐに見据えた。
軽薄な笑みは跡形もない。妙な胸騒ぎを覚えながら、その返答を待つ。
「光希。今日限りで、お前には《執行者》を降りてもらう」
言葉の意味が理解できなかった。
あまりにも唐突な宣告に、店長さんを見つめ返す。
「——何だって?」
「今後、お前に執行命令は出さねえ。今回の調査に専念してもらう」
「待て。そんな話、聞いてないぞ」
「今初めて話したからな」
「そういう問題じゃない」
声が強くなった。
店長さんは表情一つ変えない。本気で俺を《執行者》から外そうとしている。
いつか辞める日が来ることは考えていた。いつまでも続けられる仕事ではないし、今の生き方をまともだとも思っていない。
だが、今ではない。
俺が辞めれば、それで済む話ではないはずだ。
「店長さん。一つ聞かせてくれ」
「何だ?」
「俺が辞めた後、残された仕事はどうする? ああいう連中を野放しにするのか?」
店長さんはすぐには答えなかった。
その沈黙が癇に障る。
俺が辞めても、法の網を潜り抜ける人間は消えない。救いを求める声も、突然届くようにはならない。
これまで執行してきた連中の中には、何年もの間、罪を重ねながら平然と暮らしていた奴もいた。その間、踏み潰されてきた人間がいる。
それを知っていて、後のことも確かめずに辞められるか。
「野放しにはしねえ。後任は俺が用意する」
「——もう決まってるのか?」
「いや。人選はこれからだ」
「ふざけるな」
右手にガバメントを書き出し、店長さんの額へ銃口を向ける。
指は既に引き金へ掛かっていた。我ながら驚くほど迷いのない動作だった。
それほど腹が立っているのに、頭は妙に冴えている。
店長さんは眉一つ動かさなかった。
「——貴方、何をしているの!」
琴乃葉が咄嗟にベレッタへ手を伸ばす。
店長さんは片手を上げ、彼女を制した。
「琴乃葉。手を出すな」
「ですが、銀次さん!」
「いいんだよ。こうなることは分かってた」
店長さんは俺から視線を逸らさない。
銃を向けられることまで承知の上で、後任も決めずに俺を辞めさせる。その落ち着きが、なおさら気に食わなかった。
「——分かっていて、辞めろと言うのか?」
「撤回する気はねえ」
「あんたが俺を辞めさせたい理由なんて、どうでもいい。次が決まるまで、救いを求める人間はどうなる?」
「後任は必ず見つける」
「それまで待てない人間はどうなる?」
店長さんは、銃口の向こうで俺を見据えていた。
後任が見つかるまでの間に何が起こるか、この男に分からないはずがなかった。
「——お前には続けさせねえ」
「その間に見殺しになる人間は、どうでもいいって言うのか?」
返事はなかった。
潮風がローブの裾を揺らす。
俺は銃口を向けたまま、店長さんを見据えた。欲しいのは謝罪でも、もっともらしい言い訳でもない。《執行者》がいなくなっても、救いを求める人間が見捨てられないという確信だ。
その保証もないまま、すべてを他人に委ねるわけにはいかなかった。
店長さんが息を吐いた。
初めて、その表情に苦さが滲む。俺に向ける視線は揺らがなかった。
「光希。お前が辞めた後も、救いを求める人間を見捨てはしねえ。そこは約束する」
「何を根拠に信じろって言うんだ?」
「——雲雀に誓ってやるよ」
息を呑んだ。
よりにもよって、この男はその名前を持ち出した。
俺にとって、その名がどれほど重いものなのか。知らないはずがない。
「——卑怯だな、あんた」
「自覚はある」
「その名前を出せば、俺が引き下がると?」
「俺が本気だってことは伝わるだろ」
否定できなかった。
普段はいい加減で、肝心なことほど煙に巻く男だ。雲雀の名を軽々しく持ち出す男ではない。
だからこそ腹立たしかった。何を言われても引き下がらないと決めていたのに、この男は俺が最後に何を信じるのかまで分かっている。
銃口は、まだ店長さんの額を捉えていた。
辞めろという決定には納得していない。後任が決まっていない事実も変わらない。
雲雀の名に誓った言葉だけは、疑うことができなかった。
「——約束を破るなよ」
「破らねえ」
「二度と、その名前を交渉材料に使うな」
「肝に銘じとくよ」
ようやく銃口を下ろし、ガバメントを消す。
離れたところで、琴乃葉もベレッタから手を離した。余計な心配をかけたが、今は謝る気にもなれなかった。
「——分かった。《執行者》は辞める」
「そうか」
店長さんが短く頷く。
調査に専念させたいだけなら、《執行者》を辞めさせる必要まであるのか。
「店長さん。第一級特別捜査班の捜査だけが目的なのか?」
「さてな」
否定はしない、か。
調査の間だけ執行命令を止めれば済む話を、この男は雲雀の名まで持ち出して押し通した。ほかにも思惑があるのだろう。
それを聞き出すのは後だ。今は、引き受ける仕事をはっきりさせておく。
「——今回の捜査だけだ。琴乃葉と組むのは引き受ける」
「おう。助かるぜ」
「ただし、あんたの思惑まで信用はしてないぞ」
「分かってるよ」
店長さんが笑う。
俺はローブの内ポケットから仮面を取り出した。
「店長さん。これも返しておく」
「確かに預かった」
差し出した仮面を、店長さんが受け取る。
ついさっきまで正体を隠すために被っていたものが、今はその手の中にある。
もう俺には必要ない。
そう思っても、すぐには目を離せなかった。
※
店長さんと犬塚が去り、港にはようやく静けさが戻った。
保護された女性たちは、犬塚が手配した施設で社会復帰に向けた支援を受けることになる。それを聞けただけでも、多少は気が楽になった。
俺自身の状況は散々だ。《執行者》を解任され、面倒な捜査を押し付けられ、挙げ句には帰りの足まで失った。送迎役の犬塚まで、店長さんと一緒に帰ってしまったのである。
まったく、最後まで勝手な連中だ。
今から歩いて帰る気力もなく、始発を待つことにした俺は、岸壁近くの段差に腰を下ろした。
潮風に吹かれながら海を眺めていると、背後から足音が近づいてくる。
「光希、少し話さない?」
振り返ると、琴乃葉がこちらを覗き込んでいた。
「これ以上何を話す——って、お前、名前を」
「何か問題でも?」
「いや。今まで頑なに『貴方』だったからな」
「——人を殺す人間を、名前で呼ぶ気にはなれなかったのよ」
遠慮のない言い方だ。
いかにもこいつらしい。
「今は違うのか?」
「ええ。貴方が考えなしに人を殺してきたとは思わないもの。それに、もう《執行者》ではないでしょう?」
「辞めたところで、過去は消えないぞ」
琴乃葉は俺を真っ直ぐに見据えた。
「勘違いしないで。貴方のしてきたことを認めてはいない。ただ——名前で呼ぶくらいは、いいと思ったの」
「そいつは寛大なことで」
「あら、不服かしら?」
「とんでもない。せっかくだ、俺も呼び方を改めるとしよう」
「ふふっ。殊勝な心掛けね」
琴乃葉が楽しげに微笑む。
素直に名前を呼ぶ前に、ひとつからかってやりたくなった。
「琴乃——」
「燃やすわよ?」
最後まで言わせてもらえなかった。
しかも、笑顔である。
これ以上からかうのはやめておこう。
「——エイル」
改めて名前を呼ぶと、彼女は満足そうに目を細めた。
「何よ。ちゃんと呼べるじゃない」
「名前一つで命の危険を感じるとは思わなかったぞ」
「貴方が意地悪するからでしょう?」
「否定はしない」
エイルは呆れたように笑い、俺の隣に腰を下ろした。
二人で海へ目を向ける。遠くを航行する貨物船の灯りが、暗い水面に揺れていた。吹き抜ける潮風が、エイルの長い紅髪をなびかせる。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
沈黙を破ったのは、エイルだった。
「ありがとう」
俺は隣へ顔を向けた。
「礼なら店長さんに言え」
捜査を引き受けた礼かと思ったが、エイルはゆっくりと首を振った。
「違うの。私が感謝しているのは——私を人殺しにしないでくれたこと」
俺が父親を殺したことで、エイルは人殺しにならずに済んだ。
つまり、俺が先に執行していなければ、こいつは自分の手で父親を殺していた。
そのために、犯罪者の殺害を認められる階級を目指したのか。
「——父親を殺すために黒星になったのか?」
エイルは俯いたまま、こくりと頷いた。長い紅髪に隠れ、その表情は見えない。
「あの頃の私は、あの男を殺すことしか考えていなかったの。どれだけ時間がかかっても、必ず自分の手で終わらせるつもりだったわ」
「お前は人を殺すことを認めないと言っていただろ」
「人を殺すことは許されない。そう信じていたのに、あの男だけはどうしても許せなかった。犯罪者を殺す権限を持つ黒星になれば、あの男を殺しても許されると思ったの」
「大した執念だな」
エイルは膝を抱えると、言葉を続けた。
「でも、ようやくその権限を手に入れて、あの男のところへ向かったときには——もう、すべて終わっていたわ」
「俺が先に殺していたんだな」
彼女は小さく息を吐いた。
「そのとき、私が何を思ったか分かる?」
「さあな」
「——良かった、って。そう思ったのよ。人を殺してはいけないと言いながら、自分だけは例外になろうとしていたくせにね」
「——都合のいい理屈だな」
「本当にね。きっと、あの男を殺してもいい理由が欲しかったのよ。正義なんて言葉を盾にして、自分の復讐を正当化しようとしていたの」
人を殺してはいけないと信じながら、父親を殺す権限を求めた。
そこまでエイルを突き動かした怒りに、俺にも覚えがある。
あの戦場で名も知らぬ少女に命を救われた時、己の無力さに絶望し、怒りのままに敵を討った。あの時は、目の前の連中を殺すことしか考えられなかった。
雲雀と出会わなければ、俺も悪と見なした者を殺し続けるだけの人間になっていたのかもしれない。
「そうか」
俺はそれ以上、何も言わなかった。
「だから、もう一度だけ言わせて。ありがとう、光希」
「——」
返す言葉は見つからなかった。
エイルが父親をそこまで憎んでいた理由は知らない。今ここで聞き出そうとも思わなかった。
どれだけ感謝されたところで、俺がやったことは——人殺しなのだから。
膝を抱えて顔を伏せるエイルの頭に、掌を置いた。
撫でることも、髪を梳くこともしない。
ただ、返事の代わりはこれでいいと思った。
「貴方って、やっぱりたらしなんじゃない?」
「最初に言っただろ? 俺に複数人を相手にできる甲斐性なんかないって」
エイルは小さく笑い、再び海へ視線を向けた。
いつの間にか東の空が白み始めていた。やがて朝日が差し込み、暗かった海面を照らしていく。
始発まで、まだ時間がある。
俺たちは取り留めのない話を交わしながら、静かな朝を迎えた。




