第四章 互いの正義 (2)
驚きより先に、納得が来た。
仮面の下が浅瀬光希だと知っていたなら、あの馴れ馴れしい返しにも説明がつく。
なら、稲宮公園でもそうだったのか。
入学試験や階級、魔人との一件まで調べ、「記録だけでは分からない」と勝負を持ちかけてきた。
確かめたかったのは、俺が執行者かどうかではなく、その実力だったわけだ。
何を手掛かりに俺へ辿り着いた?
「どうやって《執行者》が俺だと分かった?」
「捜査の手の内まで明かすと思う?」
「ったく、優しくないやつだ」
こちらは正体を隠しているつもりで、向こうは最初から知っていた。
道理で、余裕があるわけだ。
これ以上、仮面を被っている意味もない。
琴乃葉から視線を外さず、留め具へ手を掛ける。
「外すの?」
「もう意味がないだろ」
仮面を外すと、変声機が止まった。自分の声に戻り、潮風が直接頬を撫でる。
広がった視界の先には、長い紅髪と、こちらを見据える紅い瞳。
隣の席で軽口を交わしていた時と、何も変わらない琴乃葉が立っていた。
天秤の執行者と、第一級特別捜査班ではない。
浅瀬光希と琴乃葉エイル。
互いに相手が何者なのかを知った上で、同じ場所に立っている。
その事実を改めて意識した瞬間、頭の片隅に二人の声が蘇った。
『じゃあ明日にでも晩ご飯作りに行くね!』
『また明日です、先輩!』
二人にとっては、何でもない明日の約束だった。
俺も数時間前までは、そのつもりだった。
学校へ行けば千歳に捕まり、ゲームの感想を聞かされる。帰宅すれば、輝夜が晩飯を作りに来る。
面倒だとぼやきながらも、断る気はなかった。
もう同じように警衛高校へ戻ることはできない。
琴乃葉は第一級特別捜査班だ。俺を逮捕すると明言している以上、今夜を逃げ切ったところで追跡は終わらない。
教室にも、自宅にも、俺の居場所を知る人間がいる。
そこへ戻れば、輝夜や千歳まで巻き込むことになる。
愛知を離れ、浅瀬光希の名を隠して身を潜める。
そうなれば、二人との約束も果たせない。
輝夜が俺の食生活に呆れながら台所に立つことも、千歳が頼んでもいないゲームの話を始めることもなくなる。
別れを告げることすらできず、俺は二人の前から消えるのだ。
昼休みの教室も、誰かが訪ねてくる部屋も、最初からあったものではない。
いつの間にか、それを当たり前にしていた。
少しだけ——惜しいと思った。
それ以上の感情に名前を付ける前に、俺は首を振った。
今さら考えることじゃない。《執行者》として生きると決めた時から、いつかこうなる可能性は分かっていた。誰かと近づけば、離れる時に面倒になる。だからこそ、距離を置いてきたはずだ。
予定より早かった。
それだけの話だ。
今は、目の前のことだけ考えればいい。
正体が割れた以上、能力だけ隠し続ける意味も薄い。仮面をローブの内ポケットへしまい、右手を琴乃葉から見える位置へ持ち上げる。記憶の中から一本の刀を拾い上げ、その構造を思い描いた。
《執筆》。
掌に集まった光が輪郭を結び、一振りの抜き身の刀へ変わる。握り慣れた柄と、手に伝わる確かな重み。
師匠が愛用していた、銘すら打たれていない刀。ただ『無銘刀』と呼ばれていたものだ。
琴乃葉の紅い瞳が見開かれ、視線が刀へ落ちた。
「——武器を作れるの?」
「ああ。さっきの拳銃も同じだ」
「ずっと隠してたのね」
「手品の種を先に明かす奴はいないだろ」
稲宮公園では勝負を受けずに逃げた。俺の正体を知っていても、作家を目にするのは初めてのはずだ。
「この前、逃げずに見せてくれてもよかったのに」
「見せたら、お前は満足して帰ったか?」
「いいえ。使うところまで確かめたわ」
「なら、逃げて正解だったな」
無銘刀を構えると、刀身が夜の中で鈍く光った。琴乃葉は切っ先から俺へ視線を戻し、腰を落とす。
「刀なら、どうにかなると思う?」
「素手で炎に触るよりはマシだ」
琴乃葉の両腕を覆う紅い炎が、勢いを増していく。
正体は割れた。能力の一端も見せた。互いに譲れないものは変わらない。
「正体を知られても、貴方は続けるのね」
「ああ」
「なら私は止めるわ。何度でも」
「分かってる」
理解できないから対立しているわけじゃない。
理解した上で、譲れないから対立している。
「本当に頑固ね」
「お互い様だろ」
琴乃葉が息を吐く。呆れたようにも見えたが、紅い瞳に迷いはない。俺も似たような顔をしているのだろう。
もう言葉を重ねる必要はなかった。
炎が肩口まで広がり、夜の岸壁を紅く照らす。潮風に煽られた火の粉が二人の間を横切った。
俺は無銘刀の切っ先を下げ、左足を半歩引く。
琴乃葉は俺の動きを覚え、俺も《煉獄》の使い方を掴みつつある。一度見せた手は、もう簡単には通じない。
ここからは、別の手が必要だ。
紅い炎が揺れ、無銘刀の刃が街灯の光を細く返す。
数メートル先で、琴乃葉の重心が前へ移った。俺も柄を握り直し、腰を落とす。足の運びから切っ先の位置まで、身体に叩き込まれた型へ収めていく。
雲雀流剣術。
師が編み出した、超実戦向けの剣術だ。
俺の基本は、パーリトゥード。拳銃が有効なら撃ち、刀が必要なら斬り、素手で済むなら殴る。手段を選ばず戦う俺にとって、一振りの刀と型に身を預ける雲雀流は、使い勝手がいいとは言えない。
だが、自分より強い相手から勝ちを奪うなら話は別だ。僅かな隙へ全力を叩き込み、外せば自分がやられる。その危険まで引き受けて使う剣術なのだから。
雲雀流を使う。それは、相手を格上だと認めることでもある。
琴乃葉エイルは、その条件を十分に満たしていた。
「——さっきまでと構えが違うわね」
「相手が悪いんでな」
「それは褒め言葉?」
「俺なりにはな」
「あら嬉しい」
琴乃葉が紅い瞳を細めた。
「雲雀流剣術、五ノ型——《永日》」
上段から振り下ろした刀を、琴乃葉が右へ躱す。その先へ横薙ぎを返し、上体を反らしたところへ踏み込んで裏刺突を重ねた。
《永日》は一撃で仕留める型ではない。詰将棋のように攻撃を連鎖させ、回避先へ次の一手を置き続ける。反撃も逃走も許さず、最後の一手へ追い込む型だ。
三撃目を凌いだ琴乃葉の身体が後ろへ流れる。
ここからは、俺のやり方だ。
刀を引く動きに合わせ、左手にガバメントを《執筆》。琴乃葉の視線が銃口へ移った瞬間、引き金を絞った。
弾丸がコートの脇腹を捉え、衝撃で体勢が崩れる。
「剣術の途中で拳銃?」
「俺の基本は《なんでもあり》だからな」
銃を警戒したところへ刀を差し込み、刀を避けた先へ弾丸を送る。本来の雲雀流にはない戦い方だ。型を綺麗になぞることが目的じゃない。
攻めを途切れさせず、追い込む。それさえ守ればいい。
無銘刀を袈裟に走らせ、回避先へ一発。弾丸を躱した琴乃葉へ踏み込み、腹部へ刺突を重ねる。防刃素材に切っ先は止められたが、衝撃まで消せず、その身体が大きく押し戻された。
初めて明確に主導権を取った。
このまま押し切る。
刀を引き、次の斬撃へ繋げようとした瞬間、琴乃葉の表情が変わった。
「——離れなさい!」
「くッ」
琴乃葉の全身から紅い炎が膨れ上がった。
全方位へ広がる《煉獄》に、連撃を断ち切られる。俺は《永日》を中断して後ろへ跳んだ。直後、それまで立っていた場所を炎が呑み込む。
炎が収まると、琴乃葉は腹部を押さえていた。息は乱れているが、紅い瞳に宿る戦意は衰えていない。
「——好き勝手してくれたわね」
「黒星相手に出し惜しみできるほど余裕がない」
「そこまでしても、急所は狙わないのね」
「殺す気はないからな」
《永日》は通ったが、詰みには届かなかった。次は連撃を警戒し、もっと早く炎で断ち切ってくるはずだ。
左手のガバメントを消し、無銘刀を両手で握る。
「今度は拳銃を消すのね」
「ああ」
「まだ何かあるみたいね」
「次で最後だ」
刀を頭上へ掲げる。
ただ真っ直ぐ振り下ろすための上段。小細工も連撃も捨て、踏み込みから体重移動まで、全てを一度の斬撃へ注ぎ込む。外した後のことなど考えない、雲雀流でも特に背水の色が濃い型だ。
琴乃葉も両腕の炎を強め、腰を落とした。
「その構え、分かりやすいわね」
「そういう技だからな」
「真正面から来るの?」
一度、息を吐く。
「雲雀流剣術、七ノ型——《落雲雀》」
数メートルの距離を一息に潰し、琴乃葉の右肩へ無銘刀を振り下ろす。これまでのどの斬撃より速い。見てから躱すには遅すぎる——はずだった。
琴乃葉の左手から、炎が横向きに噴き出した。
その噴射で身体を押し流し、斬撃の軌道から外れる。無銘刀が肩口を掠めると同時に、右手が腰のベレッタへ伸びた。
外した。だが、左腕は炎を放った直後だ。
振り下ろした刀を返し、その腕を外側へ押さえ込む。炎をこちらへ向けさせなければ、残るのは右手の拳銃だけ。
それなら、まだ一手打てる。
柄から左手を離し、ガバメントを執筆。
掌に銃が収まるのと、ベレッタがこちらを向くのはほぼ同時だった。
互いに一歩踏み込み、銃口を相手へ突きつける。
——二つの銃口がキスをした。
どちらかが動けば、もう一方の攻撃が通る。
それでいて、どちらにも決定的な一手がない。
「——どうする?」
「そっちこそ」
至近距離で視線がぶつかる。
将棋でいうなら——千日手。
つまり、引き分けだ。
「時間切れだ。お二人さん」
均衡を破ったのは、聞き馴染んだ声だった。




