第四章 互いの正義 (1)
第一級特別捜査班。
その名は店長さんとの世間話で出たばかり。
一般の警衛では対処が不可能と判断された犯罪者を専門に追う警衛組織。その内情は徹底して秘匿されており、警衛であっても知り得る情報は一般人と大差ない。
そんな数少ない情報の中でも、特筆すべきものが二つある。
一つは、圧倒的な検挙率。
第一級特別捜査班が逮捕に動いた場合、その検挙率は恐るべきことに百パーセント。
そして、より重要なのが二つ目。
警衛高校で得られる最高階級は金星。しかし、警衛としては、そのさらに上に位置する階級が一つだけ存在する。
ただ功績を積めば届くものではない。圧倒的な実力があろうと、それだけでも足りない。
その力と権限を預けるに足る人間だと、警衛上層部——ひいては政府にまで認められて、初めて発行される特殊な階級。
「——黒星」
「あら、さすがに知ってるのね」
「犯罪者を独断で殺害することが許されてる、おっかない存在であることくらいはな」
「権限はあるけど、使うかどうかは本人次第よ。少なくとも私は使わないわ」
「そいつはありがたい話だ。殺されないと分かっただけでも、今夜の収穫としては十分大きい」
「大人しく投降してくれるなら、もっと安心できると思うけど?」
「それは別の話だな。命の心配がなくなったからって、自分から捕まりに行く理由はない」
口では軽く返しながら、意識は既に琴乃葉から周囲へ移っていた。
——さて、どう逃げるか。
重要なのは最初からそちらだ。
相手が黒星だろうが、第一級特別捜査班だろうが、律儀に正面から戦ってやる義理はない。そもそも琴乃葉と戦ったところで何の得もないし、騒ぎが長引けば別の警衛まで寄ってくる可能性がある。
逃げられるなら逃げる。
駄目なら隙を作って逃げる。
戦うのは、どうにもならなくなった時だけでいい。
名古屋港の岸壁には湿り気を帯びた潮風が流れ、黒い海面を揺らしている。街灯の光が細かく砕け、その向こうには、営業を終えた名古屋港シートレインランドの観覧車が静かに佇んでいた。
海側へ逃げることも不可能ではない。
ただし服を着たまま夜の海へ飛び込めば、その後びしょ濡れで逃げ回る羽目になる、好んで選びたい手ではない。
なら陸側。
岸壁沿いに抜けるか、積み上げられたコンテナの間へ入り込むか。
そのどちらを選ぶにしても、目の前の琴乃葉が邪魔になる。
「さっきから落ち着かないけど、もしかして逃げ道でも探しているの?」
「ご名答。正面から付き合うより、どうやって逃げるか考える方がよっぽど健全だろ」
「堂々と言うことかしら。でも残念ね。貴方が何を考えていようと、ここから逃がさないわ」
「だろうな」
何気なく岸壁の上に立っている琴乃葉。改めて見るとその位置がいやらしい。
こちらが港の外へ向かうには、必ず琴乃葉の近くを通らなければならない。コンテナ側へ回り込むにしても、一度はあいつの間合いを横切ることになる。
偶然ではなく、最初から俺の進路を潰す位置を選んだのだろう。
「海なら空いてるわよ。泳ぎに自信があるなら、そっちから逃げてみたら?」
「深夜に服を着たまま海へ飛び込めと?」
「六月なんだから凍え死にはしないでしょう。それに、岸へ上がってきたところを私がちゃんと逮捕してあげるから安心して」
「せめて海に入った努力くらいは評価しろよ」
「犯罪者の逃走努力を評価する警衛がどこにいるのよ」
もっともな話だ。
海は却下となれば琴乃葉の脇を抜けるしかない。
一瞬でいい。
注意を別方向へ向けさせるか、体勢を崩すか。こちらへ追いつくまでの数秒さえ稼げれば、コンテナの間へ入り込める。
そう考えながら琴乃葉の重心や視線を探っていると、一つ妙なことに気付いた。
逃げようとしていると分かっているのに動かない。
それどころか第一級特別捜査班を名乗る人間なら、不意を突いて一気に制圧する方がよほど確実だったはずだ。
それをせず、さっきから俺との会話に付き合い続けている。
「のんびりしてるんだな。さっきから捕まえようともしてこない」
「素直に喜んだら? ゆっくり逃げ方を考えられるでしょ」
「普通の警衛相手ならな。お前は第一級特別捜査班だ。逃げる隙を与える危険くらい、分かってるはずだ」
「——何が言いたいの?」
「俺を捕まえる前に、聞いておきたいことでもあるんじゃないか?」
琴乃葉の表情が変わった。その反応だけで十分だった。
「——本当に、変なところで察しがいいのね」
「逃げるために観察してただけだ」
「可愛げがないわね。でも、貴方の言う通りよ。逮捕する前に、話をしておきたかったの」
「なるほど。なら聞かせてもらおうか」
逃げ道は探し続けていた。
ただ、話を聞かなければいけない気がしたのだ——執行者として。
琴乃葉が息を吐く。軽い空気が消え、紅い瞳が俺を捉えた。
「牛尾の名前に、聞き覚えはあるかしら?」
「牛尾——?」
聞き覚えはある。
国内でも有数の大企業、牛尾財閥。その頂点に立っていた男を俺は殺している。
依頼を受け、執行した。
何より俺にとって——最初の仕事だった。
「牛尾財閥の当主なら覚えてる。俺が殺した男だ」
「あっさり認めるのね。誤魔化すかと思っていたわ」
「知ってて聞いたんだろ」
「ええ。確認したかっただけ」
琴乃葉の声は妙に落ち着いていた。
俺が殺害を認めても、表情一つ変わらない。責めることも、詳しい経緯を問いただすこともなかった。
「それで、そいつがどうした?」
「あの人——牛尾財閥の当主は、私の父親よ」
「——父親?」
逃走経路へ向けていた意識が止まった。
二日前、一緒にボールを追い、千歳や輝夜と昼飯を食った。放課後には街を案内し、本屋やサキノにも立ち寄った。
その相手の父親を、俺は殺していた。
殺した人間にも家族はいる。そんなことは分かっていたが、知った顔を前にすると、割り切れないものが残る。
後悔などしてはいない。
しかし、琴乃葉が俺を恨んでいたとして、その恨みを否定する資格はなかった。
「そういうことか。要するに敵討ちがしたかったんだな」
「違うわ。父を殺された恨みで貴方を探していたんじゃない」
「実の父親を殺した人間を探し出しておいて、恨んでないと言われても信じられないな」
「信じるかどうかは貴方の自由よ。だけど、父の件で貴方を恨んだことは一度もないわ」
俺は初めて、返す言葉に困った。
怒りを向けられる方が、まだ話は単純だった。父親を殺した犯人だから捕まえる。憎いから殴る。それなら理解できる。
しかし、琴乃葉からはそんな感情が見えなかった。
「なら、なぜ俺を探した?」
「感謝を伝えるためよ」
「は?」
今度こそ、思考が止まった。
「聞き間違いじゃないわ。父を殺した貴方に、私は感謝しているの」
「待て。恨んでないのは分かったが、どうして感謝になる?」
「あの人が死んだことで、救われたものがあるの。私にとってはね」
「——感謝していても、俺を逮捕するのか?」
「もちろんよ。私が救われたからといって、貴方の罪は消えない。警衛として見逃せないわ」
父親の死が救いになる。二人の間に何があったのかは分からないが、俺が思い描いていた親子関係とは違うようだ。
向けられたのが恨みなら、受け止める覚悟はあった。
感謝にはどう応じればいい。俺は牛尾を執行したのであって、その娘に礼を言われるために殺したのではない。
戸惑う俺をよそに、琴乃葉の態度は変わらなかった。
個人として感謝しても、警衛としては捕まえる。その線引きに迷いはない。
面倒な女だ。
「納得して大人しく手錠を掛けられてくれるなら、話は早いんだけど?」
「そこまで物分かりが良かったら、さっきから逃げ道なんて探してない」
話している間も、琴乃葉の立ち位置や視線を確かめ、岸壁沿いへ抜ける距離を測っていた。
ただ、逃げる算段とは別に、こいつの考えを聞いてみたくなった。
父親を殺した相手に感謝しながら、その殺人を許さない。その姿勢を支えているのは何なのか。
「一つ聞かせろ」
「何かしら?」
「そこまでして、人を殺すことを許せない理由は何だ?」
「人は人を殺してはいけない。それだけよ。相手がどんな悪人でも、捕まえて法で裁く。それが私の考えよ」
仮面の下で、思わず嗤った。
「正論だよ。俺はそれを間違ってるとは思わない」
琴乃葉の眉が動いた。
「意外ね。てっきり、自分こそ正義だと言い張るものだと思っていたわ」
「買い被るなよ。俺は自分を正義だと思ったことなんて一度もない。人を殺せば殺人だ。相手が犯罪者だからって、その事実まで消えることはない」
「なら、なおさら理解できないわね。人を殺し続ける理由は何?」
「間違っていることと、必要がないことは同じじゃないからだ。法で裁いて全員救えるなら、俺だってそれが一番いい」
潮風がローブの裾を揺らす。
「法だけでは救えない人がいるから、執行者が必要だと言いたいの?」
「ああ。法の手が届くまで待っていたら、手遅れになる人間がいる。それを知っていて何もしないことが、俺にはできない」
「だからこそ警衛がいるのよ。犯罪者を捕まえるだけじゃない。被害を防ぐことも、今苦しんでいる人間を守ることも私たちの仕事だわ」
「それは否定してない。お前たちの手で助けられるなら、それに越したことはない。俺が言ってるのは、その手が届かなかった時の話だ。声を上げても握り潰され、逃げる場所すらない。そういう人間もいるんだよ」
「その人たちを救うためなら、相手の命を奪うことも受け入れると?」
不意に、遠い記憶が脳裏を過ぎった。
名前すら知らない少女。
どこで生まれ、何が好きで、どんな人生を送りたかったのかも知らない。
助けが届かないまま、爆弾を巻き付けられて戦場へ送られた少女。
「他に止める手段がないならな。今日助けなきゃ、明日が来ない奴だっている。そんな人間を目の前にして、証拠が揃うまで待て、警衛が動くまで耐えろ——俺にはそんなこと言えない」
「だからこそ、その一線を越えちゃいけないのよ。相手が悪人だから。大切な人を守るためだから。どうしても許せなかったから。理由を重ねれば、最後には自分の感情で命を奪うことまで正しいと思えてしまう。だから私は、『殺してもいい人間がいる』という考えを認めないわ」
琴乃葉の声が、一段と強くなった。
俺に向けた言葉のはずが、自分にも言い聞かせているように聞こえた。
単なる理想論ではない。そこまで言い切る何かが、こいつにもあるのだろう。
「言いたいことは分かった。俺だって、人を殺していいとは思ってない。相手がどんな人間でも、俺のしたことまで正しくはならない」
「自分が殺人犯だと理解したまま、続けるのね」
「ああ。目の前の弱い奴を見捨てる気はないからな」
琴乃葉が紅い瞳を細めた。
「自分も裁かれるべきだとは思わないの?」
「思ってるよ。助けた人間の数で、奪った命は帳消しにならない」
「だったら、どうして今じゃないの?」
そこだけは迷わなかった。
「まだ俺が止まる時じゃないからだ。役目が終われば、罰を受けることからも逃げない。けど、今俺が止まれば、助けられなくなる奴がいる。そいつらを置き去りにして、自分だけ罪を償って楽になろうとは思わない」
「——本当に勝手な人ね。誰かを救うためだと言いながら、自分がまだ必要かどうかまで自分で決めている」
「そうだな。勝手だ」
波が岸壁へ打ち寄せる。
二人の沈黙を、砕ける水音が埋めていった。
「私は認めないわ。誰かを救うためでも、人を殺すことは許されない。貴方が続けるなら、警衛として止める」
「お前が間違ってるとは思わない。ただ、法で救えない奴が目の前にいるなら、見捨てない」
「これだけ話しても、貴方は変わらないのね」
「ああ。お前もだろ?」
この話は平行線だ。
前提となる互いの正義が、そもそも相反しているのだから。
これ以上言葉を重ねたところで、どちらかが自分自身を否定しない限り答えは出ない。
「なら、これが最後の警告よ。抵抗せずに投降しなさい」
「悪いな。話してる間も、ずっと逃げ道を探してたんだ」
「そう。なら、言葉で説得するのは諦めるわ」
「奇遇だな。俺もそろそろ逃げることに専念したかったところだ」
琴乃葉の右手が、腰元のベレッタへ伸びる。
俺も右手をローブの内側へ滑り込ませた。
方針は変わらない。
琴乃葉を倒すことも、正義の優劣を証明することも目的じゃない。
逃げる。
そのためには、目の前の黒星を突破する必要がある。
「一応言っておくけど、逃がす気はないわよ」
「知ってる。だから困ってるんだよ」
ローブの内側で《執筆》を終え、掌に冷たい金属の感触を確かめる。
ガバメントを引き抜くと、二つの銃口が互いを捉えた。
ベレッタが胸元へ向いた瞬間、俺は上体を横へ滑らせる。
直後、閃光。
弾丸がローブを掠め、背後のコンテナから甲高い音が響いた。
「——今、私が撃つ前に避けた?」
「銃口を向けられたら、誰でも避けるだろ」
「誰でもできるなら、私は苦労してないわ」
琴乃葉が続けて二発放つ。
一発目は銃口の向きから射線を読み、半歩ずれて躱す。二発目は銃口が閃くと同時に上体を沈めた。
背後のコンテナに弾丸が跳ね、琴乃葉の表情から余裕が消える。
「気味が悪いわ」
「当たってやる義理はないからな」
「避けられる前提で話すのね」
再び、ベレッタの銃口が動く。
右へ踏み出す素振りを見せると、銃口がその先へ流れた。
回避先を狙うのか。
足を止めて重心を戻す。直後、弾丸が俺の右側を抜け、背後で金属音が響いた。
「避ける先を狙っても駄目なのね」
「狙ってると分かれば、そこへは行かないさ」
こちらもガバメントで撃ち返す。狙いは黒いロングコートに覆われた胴体。
琴乃葉は身を捻ったが、弾丸が脇腹を捉えた。衝撃に体勢を崩すものの、コートに穴は開いていない。
「そっちも防弾か」
「確かめ方が乱暴ね」
琴乃葉がベレッタを構え直す。
コートが弾丸を防いでも、衝撃までは消えない。今の一発では逃げる隙を作れなかった。
なら、直接退かすまでだ。
胸元へもう一発。琴乃葉が射線を外すのに合わせて地面を蹴る。
一気に間合いを詰め、ベレッタを持つ右手を外側から叩いた。銃口が海へ逸れる。
「今度は接近戦? 逃げたい人にしては、積極的に近付いてくるのね」
「道路の真ん中に居座ってる奴を退かしに来ただけだ。勘違いするな」
そのまま右手首を掴み、身体を内側へ入れる。
近接格闘ならこちらが上だ。
琴乃葉が左手を伸ばしてくるが、その腕も押さえ、重心を崩しながら足を掛ける。地面へ倒して動きを止めれば、逃げる隙は作れる。
琴乃葉の身体が傾いた瞬間、掴んでいた腕から異様な熱が伝わってきた。
反射的に手を離す。
「繋いだ手を簡単に解くなんて甲斐性のない男ね」
「蕩け合うのは歓迎するが、溶ける気はない」
「あら残念」
琴乃葉の左手に、紅い炎が灯る。
「くそッ!」
「——煉獄」
炎が膨れ上がり、火球となって真正面から撃ち出された。
速いが、避けられないほどじゃない。
火球の向こうで、琴乃葉がベレッタを構える。迫る炎に遮られ、銃口が見えなくなった。
左右へ躱せば、その先を撃たれる。銃声を頼りに対応できても、火球を避けた直後にもう一度動かされれば、それだけ隙が生まれる。
当てるだけじゃない。俺の動きを崩すための撃ち方か。
「念入りに逃げ道を潰してくれるな」
「逃げようとするからでしょう?」
「それを言われると反論できないな」
避ければ、次の回避を強いられる。なら、避けなければいい。
重心を落とし、迫る火球へ右足を振り抜く。防火仕様の靴底が紅い炎へ触れた瞬間、視界いっぱいに火の粉が弾けた。
正面から受け止めず、下から掬い上げるように軌道を逸らす。
火球は頭上を抜け、そのまま夜空へ舞い上がった。
「——今、蹴った?」
「見れば分かるだろ」
「炎を蹴る人なんて初めて見たわ」
「俺も初めてやった」
「よくそれで躊躇なく足を出せたわね」
「お前の狙い通りに動くよりはマシだ」
右足を地面へ擦り付ける。靴に損傷はないが、足先には鈍い熱が残っていた。
何度も使える手ではなさそうだ。
それより気になったのは、火球そのものだった。蹴り上げても形を崩さず、塊のまま飛んでいった。
単に火を生み出すだけではない。炎に形を与え、維持することまでできるのか。
視線を戻すと、琴乃葉の左手には次の炎が灯っていた。
今度は火球にならず、指先から手首へ這い上がり、左腕を包み込んでいく。
黒いロングコートには焦げ跡一つ付かない。
本人に能力への耐性があるのは分かる。服まで燃えないとなれば話は別だ。
銃弾も炎も防ぐ。あのコートも、普通の代物ではない。
「その服、火にも強いのか」
「ええ。貰い物だから詳しくは知らないけど、燃えたことはないわ」
「いい物を貰ったな」
「重宝してるわ」
琴乃葉が踏み込み、炎を纏った左拳が迫る。頭を振って躱すと、仮面越しにも熱が伝わってきた。
続けて、右手のベレッタが腹部へ向く。
銃口を外側へ弾き、懐へ潜る。右肘を押さえ、軸足を払おうとしたところで、左腕の炎が膨れ上がった。
拘束を諦め、距離を切る。
動きは読めても、触れれば焼かれる相手では、格闘技術の差を生かし切れない。
「近付いたと思ったら、すぐ離れるのね」
「熱いものには触るなって、さっき学んだんでな」
「あら、学習能力はあるのね」
「おかげさまで」
琴乃葉が左腕を横へ振り抜くと、纏っていた炎が一気に伸びた。
岸壁を薙ぐ炎を後ろへ跳んで躱す。炎は途中で軌道を変え、こちらを追うように湾曲した。
「——曲がるのかよ」
「真っ直ぐしか飛ばせないなんて言ってないわよ?」
「そうであってほしかったんだよ」
さらに一歩下がり、炎の先端を躱す。
火球として飛ばし、身体に纏わせ、鞭のように伸ばす。形を保つだけでなく、放った後の軌道まで操れる。
単なる発火能力ではない。琴乃葉が操っているのは、『炎』そのものだ。
遠距離では火球、接近すれば炎を纏った格闘。距離を取っても、炎を伸ばして追ってくる。
間合いを変えるだけでは崩せない。
なら、能力そのものの限界はどこにある。
炎の届く距離、操れる量、維持できる時間。どれか一つでも分かれば、付け入る隙はある。
強力な能力ほど燃費は悪い。全力を出し続けられる時間も短くなる。
琴乃葉に疲れた様子はない。呼吸も乱れず、炎の勢いも衰えていなかった。
消耗を待つには、まだ余力がありすぎる。そもそも、これで全力なのかさえ分からない。
琴乃葉は俺を見据えたまま、ベレッタを腰のホルスターへ戻した。
「貴方相手に撃ち続けても、弾の無駄ね」
「それは朗報だ」
「——まだ逃げる気?」
答えかけて、口を閉じる。
岸壁沿いも、コンテナの間も、逃げ道は琴乃葉の向こうにある。
銃撃では十分な隙を作れず、間合いを詰めれば《煉獄》に阻まれる。脇を抜けても、炎の追撃が待っている。
逃げる隙ばかり窺っていては、攻め切れない。
先に、こいつの動きを止める必要がある。
「——いや。やめた」
「投降する気になった?」
「勘違いするな。お前を退かしてから帰る」
逃走経路へ割いていた意識を、琴乃葉へ絞る。
こいつをどうにかする。それから帰る。
考えることが一つ減った分、楽になった。
「ようやくその気になったのね」
「できれば避けたかったんだよ。黒星と正面からやり合うなんて面倒だからな」
「その割には楽しそうだけど?」
「気のせいだ」
ガバメントをローブの内側で消し、構え直す。
今度は隙ができても逃げない。動きを止めるまで攻め続ける。
先手は琴乃葉。
右拳を半歩ずれて外し、その腕の外側へ滑り込む。追って振られた左を内側から押し上げ、空いた胴へ掌底を叩き込んだ。
「っ——!」
コート越しに衝撃が通り、琴乃葉の身体が後ろへ流れる。
そのまま追う。
姿勢を戻させず踏み込み、こちらを払おうと伸びた腕を外へ流す。背後へ回って肩を押さえ、重心を前へ崩した。
地面へ落とせる。
琴乃葉は片手を岸壁につき、その腕を軸に身体を捻った。
炎を纏った脚が横薙ぎに迫る。
前腕で受けると、骨に響く衝撃と熱が走った。
受け止め続けず、蹴りの勢いに合わせて身体を引き、間合いを切る。
「——さっきまでと違うわね」
「逃げ道を探すのは後にした」
「私を倒してから?」
「通してくれるなら、今からでもやめるぞ」
「お断りよ」
「なら、仕方ないな」
琴乃葉が踏み込んでくる。
拳を躱し、炎を避け、空いた胴へ打撃を返す。深く踏み込めば熱で押し返されるが、大きく炎を動かした直後には、こちらが入り込む隙もできる。
攻防を重ねるうちに、癖が見えてきた。
踏み込む前に肩が沈む。炎を放つ方向へ視線が流れる。背後へ回れば、炎を広げて距離を取る。
一つ一つは些細でも、次の動きを読む手掛かりにはなる。
琴乃葉も攻防の中でこちらの動きを読んでいた。
足を掛けようとすれば、先に軸足を引く。懐へ潜ろうと身体を沈めれば、そこへ炎が伸びてくる。
一度見せた手は、次には対処される。射撃だけでなく、格闘でも覚えがいい。
なら、こちらも変える。
踏み込むと見せて足を止め、炎を誘ってから横へ回る。琴乃葉もすぐに向き直り、拳で進路を塞いできた。
互いに相手の手を読み、その裏をかく。
決定打のないまま、攻防だけが続いていった。
「勝てるビジョンが浮かばないな」
「大人しく降伏する気になった?」
「知ってるか? 相手が強ければ強いほど燃えるのが男ってもんだぜ」
「貴方には一番似合わない言葉ね」
その返しに、引っかかった。
似合わない?
仮面を被り、声まで変えた《執行者》の何を知って、そう言った。
思い返せば、戦い始めてから何度か感じていた違和感だ。
軽口を返す間も、呆れたような言い方も、妙に馴染みがある。こちらの冗談を、最初から冗談だと分かっているような——。
隣の席で、琴乃葉と話していた時と同じだ。
俺は仮面越しに、紅い瞳を見据えた。
「お前、俺の正体に気付いてるだろ」
「——ええ」




