第7話 奥様の第3項目
公爵領の本邸は、丘の上に建っていた。
石造りの三階建て。屋根は深い灰色で、庭の木々が、窓の高さまで枝を伸ばしている。馬車が車寄せに着くと、玄関の扉が音もなく開いた。
「ようこそお越しくださいました、奥様」
ずらりと並んだ使用人たちの先頭で、白髪まじりの男性が、深く頭を下げた。背筋が定規のように伸びている。
「家令のオズワルドと申します。お部屋のご用意は、整っております」
「ありがとう。ルチアと呼んでくださって構いません」
「恐れ入ります。ですが、奥様は奥様でございます」
即答だった。ルチアは、この人には何を言っても通らないと悟った。
(オズワルド。ゲームでは『ユナカイト公爵家・家令』という名前だけの人だったわね)
名前だけの人が、目の前で瞬きをしている。ルチアは、少し不思議な気持ちになった。
続いて紹介されたのは、侍女長のタバサ。背の高い女性で、挨拶の間、ルチアの靴から髪飾りまでを、一度ずつ正確に見た。厳しい目だが、嫌な感じはしない。
「料理長のガストンです」
腕を組んだまま、ぼそりと言った男は、頭を下げたのかどうか、わからなかった。
「庭師のミロと申します」
最後に、帽子を深くかぶった若者が、にこりと笑った。二十代に見える、柔らかな顔立ちだ。
「奥様のお庭は、とても元気です。手をかけていないのに」
「手をかけていないのに?」
「ええ。放っておくと、植物は好きに育ちますので」
どこか話がずれている気がしたが、ルチアは、深く考えないことにした。
案内された部屋は、南向きの広い部屋だった。窓の外に、庭と、遠くの畑が見える。
「いい部屋ね」
「はい」
エマは、荷物の目録を片手に、部屋の隅々を確認している。
「寝台、書き物机、書棚。お嬢様、書棚が空です。荷馬車の本は、全部ここに入りますね」
「全部は入らないわ」
「入れます」
エマは、きっぱりと言った。
ルチアは、窓辺の椅子に腰を下ろした。柔らかい午後の光が、膝の上に落ちる。
「ねえ、エマ」
「はい」
「ここ、とても静かね」
「静かです」
「二周目の人生計画書、第一項目は『毎朝、遅く起きる』よ。第二項目は『一日一回、庭を散歩する』」
「第三項目は」
「『領地には、できるだけ口を出さない』」
エマは、目録から顔を上げなかった。
「……お嬢様。その項目は、守られたためしがございません」
「今度は守るわ」
「承知いたしました。賭けますか」
「賭けません」
賭けたら、負ける気がした。
夕食は、使用人たちと同じ食堂で、というのがルチアの希望だった。
オズワルドは、三度、聞き返した。三度とも、ルチアは同じ答えを返した。
「主のいない屋敷で、ひとりで広い食卓に座っても、味がしませんもの」
四度目は、聞き返されなかった。
使用人用の食堂は、広い長机が一つあるだけの部屋だった。壁は白く、掃除が行き届いている。長机の端に座ったルチアの前に、スープと、パンと、焼いた肉の皿が置かれた。
使用人たちは、座らなかった。全員、壁際に立ったままである。
「皆さんも、座ってください」
「いえ、奥様がお召し上がりになるまでは」
「では、わたくしが先に頂きます。それなら、座っていただけますか」
ルチアはスプーンを取った。ひと口、飲む。
(……薄い)
いや、味は悪くない。塩加減も、火の通しも、完璧だ。ただ、出汁が薄い。野菜だけで煮た、水のようなスープだった。
次に、パンをちぎった。外は固く、中は柔らかい。よく焼けている。ただ、切り口が妙に丸い。
「このパン、端の部分がありませんね」
壁際で、ガストンが、わずかに身じろぎをした。
「……焼き上がりの端は、お出ししておりません」
「どうされているのですか」
「捨てております」
「毎日?」
「毎日です」
ガストンは、腕を組み直した。
「公爵閣下のお口に、固い端はお出しできませんので」
「閣下は、王都にいらっしゃいますよね」
「……はい」
「このお屋敷で召し上がるのは、わたくしたちだけです」
ガストンは、何も言わなかった。
ルチアは、スープの皿に目を落とした。
「ひとつ、伺っても? お肉の骨は、どうされていますか」
「骨は、臭みが出ますので、すべて」
「捨てておられる」
「……はい」
「野菜の皮も?」
「皮も、端も、切れ端も。調理場の裏の樽に」
長机の周りの空気が、ほんの少し、動いた。
タバサが、横目でガストンを見た。オズワルドは、表情を変えなかったが、片眉だけが上がっている。
ルチアは、ごく静かに言った。
「ガストンさん。パンの端は、細かく砕けば、スープに入れてとろみが出ます。骨は、一度湯にくぐらせて臭みを抜いてから、野菜の皮や端と一緒に、ゆっくり煮出す。そうすれば、水のようなスープが、少しだけ、濃くなります」
「……はい」
「それだけの話です。出汁というものは、そうして取るのだと、前に、本で読みました」
前世で、料理屋さんの仕入れ帳を見ていたとき、一番に気づいたのが、廃棄の欄だった。皮と骨と端の量だけで、経費の一割を超える店があった。
「それと、余った分の数を、ざっくり記録してみてください。どのくらい捨てているのか、一度数字で見ると、面白いですよ」
ガストンは、長いこと黙っていた。
やがて、ぼそりと言った。
「……三年、ここで働いておりますが」
「はい」
「そのようなことを、おっしゃった方は、おりません」
「それは、皆さんが、お屋敷の主が見ていない場所で、きちんと仕事をなさっているからでしょう」
ルチアは、パンをひと口、かじった。
「でも、せっかくの腕前が、水のスープでは、もったいないわ」
ガストンの組んだ腕が、ほどけた。
顔つきが、ほんの少しだけ、変わった。腕を組んだまま黙っていた人が、はじめて、考え込む顔をした。
「……明日、試してみます」
「楽しみにしています」
そのとき、タバサが、小さく咳払いをした。
「奥様。恐れながら、座ってもよろしいでしょうか」
「ええ。どうぞ」
壁際の使用人たちが、順に席についた。椅子の脚が、床を擦る。ミロだけが、帽子を直しながら、「骨も、土に返せますよ」と、にこにこ言った。
「ミロ」
「はい、オズワルドさん」
「今は、その話ではない」
「はい」
ルチアは、スープのおかわりをもらいながら、使用人たちの顔を、ひとりずつ眺めた。
オズワルドは、無駄のない所作で食事をしている。タバサは、新入りの給仕の子の手元を、皿を運ぶたびに目で追っている。ガストンは、自分の皿のスープを、ひと口ずつ確かめるように飲んでいる。ミロは、パンの端っこを、ことさら大事そうに眺めていた。
(みんな、優秀だわ。ただ、全員が、ほんの七割くらいの力で動いている)
仕事はできている。誰も、手を抜いてはいない。ただ、どの人にも、「もっとやれる」の余白が残っていた。
主が、いないからだろうか。
隣で、エマが、小声で言った。
「お嬢様」
「なあに」
「第三項目」
「…………」
ルチアは、おかわりのスープを、黙って飲み干した。
同じ夜。王都の外れの、小さな隠れ家で。
レオンハルト・ユナカイトは、ソファに座って、一通の封筒を見つめていた。
厚い紙。見慣れた紋章の封蝋。差出人の名前は、ユリウス・ユナカイト。公爵の父である。
「閣下」
向かいの窓辺で、白金の髪の女性が、静かに振り返った。シルヴェリアだった。長い耳の先が、燭台の光に、ほのかに透けている。
「わたくしにも、同じものが届いております」
彼女は、もう一通の封筒を、指先で持ち上げた。こちらの差出人は、エレオノーラ・ユナカイト。公爵の母である。
「何が書いてある」
「まだ、読んでおりません」
「読んでくれ」
「……閣下が、先に」
二人は、しばらく、互いの封筒を見つめていた。
やがて、公爵が、封を切った。目を走らせる。一枚、二枚、三枚。
「……『嫁を迎えたのなら、いい加減に、あの方とは手を切りなさい』」
声が、低くなった。
「三枚だ。宛名は、私。内容は、おそらく、同じだ」
シルヴェリアは、無言で、自分の封筒を開いた。紙を広げる。数行を読み、静かに、折りたたんだ。
「……とても、丁寧なお手紙でございます」
「どうだった」
「『息子の嫁になった娘さんには、何も知らせないように。くれぐれも、波風を立てないように』と。そして、『息子と、きちんと、お別れをしてくださるように』」
「それで」
「お茶菓子の、おすすめも書いてありました」
「母上は、いつも、そうだ」
公爵は、額に手を当てた。
窓の外で、月が傾いていた。
遠い公爵領では、新しい奥様が、スープのおかわりをもらっている。その奥様が、この手紙に巻き込まれることを、まだ誰も知らなかった。




