第8話 風景の中に、わたくしが入っています
公爵領に来て三日目の朝。
ルチアは、九時まで寝た。
人生で初めてではない。二周目の人生では、初めてだ。窓から入る光の中で、天蓋の布を見上げながら、ルチアは深く満足した。
「お嬢様、起きてらっしゃいますか」
「起きていないわ」
「起きていらっしゃいます」
エマが、カーテンを引いた。
朝食の席に出ると、湯気の立つスープが置かれていた。
ひと口、飲む。
(あ)
昨夜までの、水のようなスープではなかった。骨と野菜の皮から出た出汁が、やわらかく舌に残る。パンの端は、細かく砕かれて、とろみの下に沈んでいた。
壁際に控えていたガストンが、腕を組んだまま、目だけをこちらに向けた。
「……いかがでしょうか」
「おいしいです。とても」
「骨は、湯にくぐらせました」
「臭みが、全然ありません」
ガストンは、何も言わなかった。ただ、組んだ腕の指先が、ほんの少し、持ち上がった。
「ガストンは、今朝は日の出前に起きておりました」
後ろから、タバサが静かに言った。
「余計なことを」
ガストンが小声で返した。
朝食のあと、ルチアは第二項目に取りかかった。「一日一回、庭を散歩する」である。
庭は、広かった。手入れが行き届いている。ただ、どの花壇も、きれいに整いすぎていて、少し寂しい。ミロの腕は確かなのだろう。その腕を、庭の外に出す場所がないだけだ。
(……いいえ。第三項目)
ルチアは、頭を振った。
エマが、少し離れた場所で、何食わぬ顔をして歩いている。
「何か言いたそうね」
「いいえ。お嬢様が、庭を見て目を細めていらしたので」
「風が気持ちいいと思っただけよ」
「承知いたしました」
承知していない顔だった。
その時だった。
屋敷のほうから、足音が駆けてくる。走っているのは、オズワルドだった。この家令が走るところを、ルチアは初めて見た。
「奥様。ご報告がございます」
「どうしたの」
「閣下が、お着きに」
「え」
「ただいま、門をお入りになりました」
ルチアは、庭の端から玄関のほうを見た。
黒塗りの馬車が、車寄せに止まったところだった。扉が開き、金色の髪の青年が降りてくる。
朝の光が、その髪に当たった。
(………………)
ルチアは、歩いてきた道を引き返したくなった。
屋敷の中の空気が、変わっていた。
廊下を行き来する使用人たちが、昨日までの七割の動きではない。八割、いや、それ以上に見える。タバサは、手袋の指先まで整えて、階段の手すりを睨んでいる。オズワルドの背筋は、昨日よりさらにまっすぐだった。
「主が戻った」
誰かが、そう小声で言った。
そのとき、玄関ホールで、公爵と目が合った。
「クラレンス嬢」
「閣下。……いえ、レオンハルト様。ご予定が、お変わりに?」
「様子を見に来た」
公爵は、いつもの涼しい声で言った。
「私の妻の様子を見に来るのは、不自然ではないだろう」
「はい」
不自然ではない。ただ、昨日までは、『王都で忙しい』と聞いていた。
そのとき、ルチアは気づいた。公爵の目の下に、うっすらと、疲れの影がある。
(……お疲れのようね)
問いかけようとして、やめた。契約の範囲外である。
代わりに、エマが、すっと茶を差し出した。
「お茶を、お持ちしました」
「ありがとう」
公爵は、カップを受け取った。ひと口、飲む。
「……旨い」
「ガストンが、お茶の淹れ方も変えました」
「ガストンが」
公爵は、ほんの少し、目を細めた。
「オズワルドの報告書が、今月は二枚あった」
「二枚、でございますか」
「ここ三年、毎月一枚。『異常なし』とだけ書いてあった」
オズワルドが、無表情のまま、咳払いをした。
「……奥様が、お屋敷の食卓についてくださったことなど、書き添えましたので」
「それで、来る気になった」
公爵は、淡々と言った。
ルチアは、きょとんとした。
(王都の仕事が忙しいんじゃなかったのかしら)
深く考えるのは、やめた。
午後。
ルチアは、庭のベンチに腰を下ろし、本を開いた。ここ数日で、ようやく手に入れた、完全な自由時間である。
風。陽だまり。鳥の声。
「その本は」
隣に、人が座った。
ルチアは、ページから目を上げなかった。
「地方の穀物税に関する、百年前の記録です」
「面白いのか」
「眠くなります」
「では、なぜ」
「眠くなるからです」
ルチアは、ページをめくった。
「寝るために、読んでいます」
公爵は、一瞬、黙った。
「……それは、勉強とは言わないのでは」
「勉強ではありません。昼寝の準備です」
「準備のために、ベンチで」
「ええ」
「私は、邪魔か」
「邪魔です」
即答だった。
エマが、少し離れたところで、吹き出しかけて、咳をした。
公爵は、ほとんど表情を変えなかった。変えなかったが、ルチアは、その肩がほんの少し持ち上がったのを見逃さなかった。
「正直だな」
「お約束ですもの。お互いの生活には、立ち入らないという」
「契約か」
「契約です」
「……そうだった」
公爵は、ベンチの端に座ったまま、立ち上がらなかった。
「では、邪魔にならないよう、黙っている」
「それは、助かります」
「一時間ほど、ここで」
「一時間」
「公爵領の風が、王都より良いことを、先ほど気づいた」
ルチアは、ちらりと隣を見た。
公爵は、本当に黙った。膝の上で手を組み、庭の向こうを見ている。黙っているのに、存在感がある。
十分後、ルチアはページを三回めくった。
二十分後、同じページを、二回読んだ。
三十分後、ついに本を閉じた。
「……閣下」
「何だ」
「見られていると、眠れません」
「見ていない」
「見ていらっしゃいます」
「風景を見ている」
「風景の中に、わたくしが入っています」
公爵は、ほんの一瞬、返事に詰まった。
「それは、避けようがない」
「では、あちらのベンチに移っていただけますか」
「あちらは、日陰だ」
「日陰が、お嫌ですか」
「嫌ではないが」
「では」
「…………」
公爵は、立ち上がった。きれいな動作で、庭の反対側のベンチに移動した。そこで再び座り、背筋を伸ばして、先ほどと同じ姿勢で、庭の向こうを見た。
エマが、小声で言った。
「お嬢様」
「なあに」
「閣下が、ずっと、こちらを見ていらっしゃいます」
「風景を見ているのよ」
「あの風景に、お嬢様が入っています」
ルチアは、本を顔の前に立てた。
窓の向こうから、使用人たちが、ひそひそ話している。
「旦那様が、あんなところで」
「奥様のおそばに」
「今月は、お屋敷に、二枚の報告書が」
オズワルドが、廊下から一喝した。
「そこ、仕事に戻りなさい」
使用人たちが、散った。ただ、足取りは、昨日より軽かった。
夕暮れ。
屋敷の玄関ホールで、ルチアは、ようやく解放された。
公爵は、夕食まで、庭の反対側のベンチから動かなかった。結局、昼寝はできなかった。
「お疲れでしょう、お嬢様」
「ええ。疲れたわ。でも」
ルチアは、窓の外を見た。
「……少し、屋敷が明るくなったわね」
「公爵閣下のおかげでしょうか」
「ええ。きっと」
ルチアは、素直に頷いた。
そのとき、玄関の扉が、控えめに叩かれた。
オズワルドが、扉を開けた。使用人が一人、小走りに入ってきて、家令に何かを耳打ちする。オズワルドの眉が、ほんの少し動いた。
「閣下。奥様」
家令は、二人に向き直った。
「門に、お客様がお見えです。奥様に、お目にかかりたいと」
「わたくしに?」
「白金の髪の女性です。お名前は」
オズワルドは、一瞬、言葉を選んだ。
「……シルヴェリア様、と」
ルチアは、首をかしげた。
聞いたことのない名前だった。
ところが、横に立っていた公爵の手元で、お茶のカップが、かちゃりと音を立てた。
「閣下?」
「…………」
「お知り合いですか」
公爵は、しばらく無言だった。それから、いつもの涼しい声で、言った。
「……知り合いだ」
涼しい声だったが、カップを持つ指が、ほんのわずか、白かった。




