第6話 上司が、義弟になる朝
翌朝。応接間の窓から差し込む光は、昨夜より少し白かった。
ルチアは、三時間しか眠っていなかった。二周目の人生計画書、第一項目「毎朝、遅く起きる」は、初日から破綻している。
テーブルの上には、清書された契約書が置かれていた。昨夜の八つの条項に、追記が一行。紙の端から端まで、一分の隙もない文字が並んでいる。
「完璧ですな」
最後の行まで読み終えて、ハロルドが唸った。
向かいの席の公爵は、昨夜と寸分違わぬ姿勢で座っていた。夜通し清書をしたはずなのに、襟元には皺ひとつない。
ペン先が紙を走る音だけが、応接間に響いた。レオンハルト・ユナカイト。ルチア・クラレンス。二つの署名が、並んで乾いていく。
「閣下なら、社交界の花ですものね」
ロザリーが、おっとりと言った。
「まあ、いいかしら」
「ロザリー」
「あら、だって」
そのとき、玄関のほうから、乱暴な足音が近づいてきた。
「父上、母上! ルチアが、婚約破棄されたと聞いて……!」
応接間の扉が、勢いよく開いた。
飛び込んできたのは、上着の乱れた青年だった。徹夜明けの目の下には、うっすらと隈。それでも、整った目鼻立ちは少しも崩れていない。
(兄様、徹夜明けでも、顔がいい)
ルチアの胸の奥で、何かが小さく鳴った。
(この世界、イケメンだらけかよ)
(……いえ、兄様は兄様。ブラコンは、まずいわ)
兄のベルナールは、血相を変えて妹のもとへ駆け寄ろうとして、そこで、止まった。
向かいのソファに、座っている人物がいる。
「…………閣下?」
「おはよう、ベルナール」
公爵は、いつもの涼しい声で言った。
「なぜ、わが家に、閣下が」
「契約を結びに来た」
「何の、契約を」
「兄様」
ルチアが、静かに口を挟んだ。
「結婚の契約です」
ベルナールの顔から、表情が消えた。
「……けっこん」
「契約結婚、です」
「……閣下と、妹が」
「そうなる」
ベルナールは、ふらりとソファの背に手をついた。そのまま、すとん、と腰を落とす。
長い沈黙。
「……ということは」
やがて、絞り出すように言った。
「わたしは、閣下の、義兄に」
「年は私のほうが上だが、貴方の妹の夫になる以上、そうなる。私が、義弟だ」
「上司が、義弟に」
「ああ」
「閣下を、何とお呼びすれば」
「今まで通りで構わない」
「では、閣下は、わたしを何と」
「ベルナール」
「兄上と、お呼びいただけたり」
「しない」
即答だった。
ロザリーが、繕いものの布で、また口元を隠した。エマは、窓の外の雀を、真剣に観察している。
ベルナールは、しばらく両手で顔を覆っていたが、やがて、ゆっくりと顔を上げた。
「……閣下」
「何だ」
「契約であっても、妹を、粗末にはなさらないでしょうか」
公爵は、まっすぐにベルナールを見た。
「約束する」
短い言葉だった。それだけで、ベルナールの肩から、力が抜けた。
「それなら、わたしに言うことは、何もありません」
「兄様」
「ただし」
ベルナールは、妹のほうを向いた。
「何かあったら、すぐに言え。兄が、閣下に話をつける」
「兄様は、閣下の部下でしょう」
「それでも、兄だ」
ルチアは、咳払いをひとつした。胸の奥がじんわり温かくなったのを、悟られたくなかった。ブラコンは、まずい。
一週間後の朝、クラレンス邸の前に、ユナカイト公爵家の馬車が着いた。
黒塗りの車体に、金の紋章。馬は四頭。後ろには荷馬車が二台続き、護衛の騎士が六人、整然と並んでいる。通りの向かいの窓が、いっせいに開いた。近所の人々が、ひそひそと囁き合っている。
「閣下は、本気だな」
ハロルドが、感心したように言った。
「荷馬車の数まで、きちんと計算されている。エマ嬢から、荷物の量を聞き出されたのだろう」
「お聞きになったのは、わたくしではありません」
エマが、淡々と言った。
「公爵家の使者の方が、前日に、荷物の目録を見せてほしいと。三番目に書いてあった『書物』の箱数をご覧になって、荷馬車を一台、増やされたそうです」
ルチアは、無言で目をそらした。荷物の三割は、本である。税法と、地方行政の資料と、前世で読み損ねた経営書の、この世界版だ。
「ルチア」
ロザリーが、小さな箱を差し出した。
「持参金代わりよ」
「お母様、そんなものは」
「いいから」
受け取った箱は、ずしりと重かった。蓋の隙間から、商会の預金証書の端が見える。
「これは、多すぎます」
「あなたが毎年、貧乏に見せている分を、取り戻しているだけよ」
「ほんの少しだ」
ハロルドが、さらりと言った。
ルチアは、桁を数えるのをやめた。エマが無言で箱を受け取り、鞄の底に、そっと沈めた。
「ルチア」
最後に、ベルナールが前に出た。今朝は、きちんと上着を整えている。
「閣下の領地は、遠い。体に気をつけて。それから」
そこで、ほんの少し照れたように、視線を逸らした。
「……手紙を、書け」
「兄様」
「閣下には、内緒で構わん」
「閣下は、兄様の上司ですよ」
「それでもだ」
ルチアは、声に出して笑った。笑って、兄の袖を、軽く引いた。
馬車に乗り込むと、座面は柔らかい革で、揺れがほとんどなかった。
「お嬢様」
エマが、向かいの席で声を落とす。
「この座席の革は、王宮御用達の最上級です」
「あら。道理で、揺れないわけね」
「閣下のご手配でしょう」
「仕事のできる方ね」
ルチアは、ふっと息を吐いて、窓の外を見た。
クラレンス邸の前で、ハロルドが、帳簿を握りしめたまま、大きく手を振っている。ロザリーの隣で、ベルナールが手を上げかけて、止まって、結局、小さく頷いた。
(行ってまいります)
馬車が、ゆっくりと動き出した。
同じ頃。ウィンスロー邸の書斎で、ラディ・ウィンスローは、机の引き出しを開けていた。
一番上の引き出し。ルチアの言った通りの場所に、青い紐で束ねられた書類があった。
「……青の、一番」
几帳面な字の付箋が、貼ってある。「ご不明な点は、まず、こちらから」。
ラディは、紐をほどいた。
一枚目には、支払いの期日が、整然と並んでいた。そのうちの二行が、赤い線で囲まれている。
三日前に期限の過ぎた支払いが、二件。
ペンを持つ手が、細かく震えた。
「……三日前」
付箋の日付は、婚約破棄の夜より、前の週だった。




