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婚約破棄された転生令嬢は、今世こそスローライフを送りたい ~ちょっと指摘しただけなのに領地が勝手に発展して、冷徹公爵様に「師匠」と呼ばれています~  作者: 滝内亜依
第1章 悪役モブは、先回りして婚約を終わらせた

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第5話 第三条の穴

 ロザリーが「お茶を淹れ直してまいります」と言い出したのは、ルチアが「条件を詰めさせてください」と口にしてから、きっかり三十秒後だった。

「では、わたくしたちは、席を外しますわね」

「うむ。商人が草案に口を出し始めると、夜が明けるのでな」

 ハロルドは、いかにも残念そうに腰を上げた。本当は、いちばん口を出したいのが、この父である。

 応接間の扉は、少しだけ開けたままにされた。残ったのは、ルチアと公爵、そして後ろに控えるエマ。二人きりにはしない。それが、クラレンス家の、揺るぎない礼儀だった。

「お手数をおかけします」

 公爵は、上着の内側から、折り畳んだ紙を取り出した。

「草案を、用意してきました」

「馬車の中で、お書きになったのですか」

「ええ。三十分ほどで」

 三十分。ルチアは、紙を受け取りながら、胸の内で頷いた。この人は、本当に仕事が速い。

 紙には、整った文字で、八つの条項が記されていた。条項の並びも、文言の選び方も、役所の書式のように美しい。一目見て、ルチアは、この人が優れた実務家なのだと分かった。

 そして、美しいだけに、穴もよく見えた。

「閣下。三点、確認させてください」

「どうぞ」

「第三条。『妻として公の場に出る』とありますが、公の場の定義がございません。夜会は含まれますか。王宮の園遊会は。お茶会は。回数の上限も、ありません」

 公爵の指先が、ぴくりと止まった。

「第五条。『契約の解消は、妻に好きな人ができたときとする』。誰が、どの時点で、好きな人ができたと判断するのですか。わたくしの自己申告ですか。それでは、わたくしの胸ひとつで、期限が決まってしまいます」

「……」

「第七条。解消後の取り決めがございません。住まいのこと。わたくしの評判のこと。閣下から申し込まれた契約でありながら、世間には、わたくしが捨てられたように見える恐れがあります。それについて、一言もありません」

 エマの筆が、紙の上をさらさらと走っていた。この乳姉妹の字の速さは、ルチアの言葉に、ほとんど遅れない。

 沈黙が、続いた。

 公爵は、紙とルチアを、順に見た。ペンを持った手が、止まっていた。珍しく、言葉を探している顔だった。

「……なるほど」

 低い声だった。

「第三条は、確かに、抜けていました。第五条は、貴女の自己申告のつもりでしたが、貴女に負担が偏る。第七条は」

 そこで、ほんの少し、息を継いだ。

「考えていなかった。貴女の評判のことまでは」

「契約とは、そういうものですわ。お互いの側から見えない穴を、埋め合うためにございます」

「……し」

 公爵が、何かを言いかけて、口を閉じた。

「閣下?」

「いえ。咳です」

 冷徹公爵は、そう言って、咳払いをひとつした。言いかけたのが何だったのか、ルチアには分からなかった。ただ、エマの筆が、一瞬だけ、止まった気がした。

「では、条項を整理します」

 ルチアは、エマに目配せをした。

「公の場は、月に二回まで。夜会や王宮の行事は、日取りを事前にお知らせください。解消は、好きな人ができたほうが、三十日前に書面で通知する。閣下の側から解消なさる場合も、同じです。解消後は、公爵家の名誉を傷つけない形での円満な解消として、世間には、お互いの合意と発表する」

「……承知した」

 公爵が、静かに頷く。

「それから、領地の邸のことですが」

「邸が、何か」

「邸の人事と予算について、提案をする権限を、いただきたいのです」

「提案」

「はい。決定は、家令殿に。わたくしは、提案するだけです」

 公爵の眉が、今夜三度目に動いた。

「なぜ、そのようなものを」

「のんびり暮らすには、周りの皆様が、機嫌よく働いてくださる環境が必要ですので」

「……機嫌よく」

「はい。使用人が不機嫌な邸で、お茶を飲んでも、美味しくありませんから」

 公爵は、しばらく考えてから、紙の余白に、一行を書き足した。「妻は、邸の人事及び予算について、家令に提案することができる」。その文字は、先ほどより、少しだけ、速かった。

「最後に、もう一点だけ」

 ルチアは、膝の上で、手を重ね直した。

 エマの筆が、見えないところで、止まった。

「夜伽は、なしでもよろしいでしょうか」

 応接間の空気が、固まった。

 暖炉の薪が、ぱちりと鳴る。公爵の動きが、完全に止まった。耳の縁が、じわじわと赤くなっていく。

「……もとより、そのつもりです」

 即答だった。あまりにも、速かった。

 ルチアは、頭の中の帳面に、一行を足した。即答。未記載の事情と、関係があるかもしれない。

「それでは」

 公爵が、ペンを取り上げた。

「この条項を、清書します。署名は、明日の朝、クラレンス伯爵ご夫妻の立ち会いのもとで」

「承知いたしました」

「領地の邸へは、来週、迎えの馬車を出します」

「ありがとうございます。荷物は」

「お嬢様のお荷物でしたら、すでに、まとめ始めております」

 エマが、淡々と言った。ルチアは、乳姉妹の顔を、まじまじと見た。

「エマ。いつから」

「第三条の指摘のあたりから、です」

 ちょうどそこへ、ハロルドが、新しいお茶を持って戻ってきた。

「草案は、どうなりましたかな」

 公爵が差し出した紙を、ハロルドは、目から少し離して、じっくりと読んだ。

「……第三条。公の場の定義が、ありませんな」

「クラレンス嬢に指摘されました」

「でしょうな」

 ハロルドは、誇らしさを隠そうとして、まったく隠せていない顔で、深く頷いた。

 玄関で、公爵を見送った。

 馬車に乗る前に、公爵が足を止めた。

「では、クラレンス嬢。明日の朝、署名の場で」

「ルチアとお呼びくださいませ、閣下」

 ルチアは、膝を折って続けた。

「夫婦という体裁をとる以上、苗字で呼び合うのは、不自然かと存じます」

 公爵は、ほんの少し黙った。

「それでしたら、私のことはレオとお呼びください」

「検討いたします、閣下」

 公爵の眉が、今夜四度目に動いた。

 黒塗りの馬車が、夜の道を遠ざかっていく。蹄の音が小さくなっていくのを、ルチアは、玄関の灯りの下で、じっと聞いていた。

(これで、のんびり暮らせるわ)

 そう思った。この時点では、本当に、そう思っていたのである。

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