第4話 綺麗なので
応接間の暖炉で、薪がぱちりと音を立てた。
縁組。その言葉が、部屋の真ん中に置かれたまま、誰にも手を付けられずにいる。
最初に動いたのは、ハロルドだった。
「閣下。縁組、と申されますと」
「婚姻の申し込みです」
公爵は、少しも言い淀まなかった。
「ただし、先に申し上げておきます。恋愛感情に基づくものではありません。契約結婚の、お願いです」
ロザリーのカップが、ソーサーの上で、かちりと鳴った。
ハロルドは、帳簿を膝の上に置き直した。お許しを出すかどうかは、伺ってからにいたしましょう、と顔に書いてある。
「契約、でございますか」
「はい。書面で、期間と条件を明確にしたものを」
「それは結構。商いは、書面です」
ハロルドが、はっきり頷いた。この父は、結婚という言葉より、契約という言葉のほうが、落ち着くらしい。
ルチアは、膝の上で両手を重ねたまま、背筋を伸ばしていた。どこで息をすればいいのか、しばらく分からなかった。五十二年の人生のうち、契約の相手が結婚だったことは、一度もない。
「順を追って、ご説明します」
公爵は、背筋を一ミリも崩さずに続けた。
「私のもとには、この二か月で、縁談が七件届いています。どれも、断るのに手間のかかる家柄ばかりです。妻という立場の人間が必要になりました。ただし、本物の妻は望んでいません」
「それで、わたくしを」
ようやく、声が出た。
「貴女は、今夜、婚約を解消されたばかりです。しかも、少しも惜しんでおられなかった」
見られていた。分かってはいたが、改めて言葉にされると、頬の裏側が熱くなる。
「恋愛や結婚に、重きを置いておられないと見ました。それに」
公爵は、そこで、ほんの短く言葉を切った。
「見た目が綺麗なので、社交の場に出ていただいても、見栄えがする」
応接間が、静まり返った。
エマが、天井の梁を見上げた。ロザリーが、繕いものの布で口元を隠した。ハロルドは、帳簿の角を、意味もなく揃え直した。
(見た目)
外見を理由に何かを選ばれたのは、前世の五十二年を通して、一度もない。税務署でも、独立した後の経営者たちの間でも、評価されるのは、いつも数字と仕事ぶりだった。
新鮮である。
悪い気分ではなかった。それが、少し悔しい。
「……好きな人ができるまで、契約結婚はどうだ」
公爵が言った。
それまで完璧な敬語だった声が、そこだけ、ぶっきらぼうに、素のまま転がり出た。
公爵の耳の縁が、わずかに赤くなる。
「……どうでしょうか」
慌てて言い直した声は、もう冷徹公爵のものに戻っていた。
(今、素が出たわね)
ルチアは、澄ました顔の下で、その発見を、そっと帳面にしまった。
「閣下」
口を開いたのは、ロザリーだった。繕いものの布を膝に置き、娘のほうを見ながら言う。
「この話が娘にとってよいものかどうかは、娘が決めます。ルチア、どうなの」
「お母様。まだ、聞いておりません」
「それもそうね」
ロザリーが、にっこり笑った。この母は、助けるべきところで、きちんと助けてくれる。
「お聞きしたいことが、いくつかあります」
ルチアは、公爵に向き直った。
頭の中では、もう、前世の会議室の灯りが点いていた。契約を前にしたときは、まず、条項を洗い出す。期間。役割。報酬。免責。それから、記載のない項目。
「期間は、『好きな人ができるまで』でよろしいのですか」
「ええ」
「わたくしの立場は」
「公爵夫人です。公の場では、妻として振る舞っていただきます。それ以外の時間は、ご自由に」
「ご自由に、というのは」
「領地の邸は、私が不在のことが多い。貴女は、好きなように過ごして構いません」
好きなように。
ルチアの耳が、その四文字に、ぴくりと反応した。
(領地の邸。主は不在。縁談避けの対価は、静かな暮らし)
頭の中の帳面に、利点と欠点を並べていく。利点。縁談避けの盾が手に入る。静かに暮らせる。王国屈指の財務家の仕事ぶりを、間近で見られる。欠点。「公爵夫人」という肩書きは、目立つ。それから、相手の顔が、よすぎる。
最後の一行だけ、数字にならない。
公爵は、答えを急かさなかった。のんびり暮らしたい、と決めたのは、ほんの二時間前のことだ。日当たりのいい縁側は、この世界にはないかもしれない。けれど、条件次第では、それに近いものは手に入る。
ただし。
ルチアは、膝の上の手を、そっと握り直した。
「閣下。この契約には、説明されていない項目がありますね」
公爵の目が、ほんのわずかに見開かれた。
「……なぜ、そう思われる」
「縁談避けだけなら、これほど、お急ぎになる理由がありません。それに、『見た目が綺麗なので』のあとの間が、少し長うございました」
「間」
「はい。他にも、理由がおありなのではないかと」
沈黙が落ちた。暖炉の薪が、もう一度、ぱちりと鳴る。
ハロルドの口元が、満足そうに、ほんの少しだけ持ち上がった。商人の血は、争えない。
「ある」
公爵は、観念したように言った。
「今は、申し上げられない事情がある。ただし、貴女に実害が及ぶものではありません。それだけは、お約束します」
(実害のない、未記載事項が、一件)
ルチアは、頭の中の帳面に、その行を書き足した。
サインをする前に、不明な項目は、洗い出して埋める。それが、前世からの鉄則だった。けれど、今夜は、ここまでにしておく。この人は、嘘をつく人ではない。嘘をつけない人が、言葉に詰まるときの顔をしていた。
「分かりました。では、閣下」
ルチアは、にっこり笑った。
「条件を、詰めさせてください」
公爵の眉が、今夜二度目に、動いた。
その横で、ハロルドが、満足そうに頷いた。ロザリーが、小さく拍手をしかけて、慌てて膝に戻した。エマは、いつの間にか、ルチアの後ろに、紙とペンを構えて立っていた。
契約書の草案は、今夜のうちに、出来上がりそうだった。




