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婚約破棄された転生令嬢は、今世こそスローライフを送りたい ~ちょっと指摘しただけなのに領地が勝手に発展して、冷徹公爵様に「師匠」と呼ばれています~  作者: 滝内亜依
第1章 悪役モブは、先回りして婚約を終わらせた

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第3話 古いだけでございます

 自宅の門が見えてきたのは、夜も十一時を回った頃だった。

 王都の外れに建つ、古い石造りの屋敷である。門柱の苔は払われておらず、玄関ホールのランプは三つのうち一つしか灯っていない。階段に敷かれた絨毯は、擦り切れた箇所が丁寧に繕ってあった。

 どれも、わざとである。

 馬車が止まると、エマが先に降りて手を差し出してくれた。振り返ると、黒塗りの馬車は、門から少し離れた道の端に、音もなく停まっている。

「すぐには降りてこないようです」

 エマが小声で言った。

「お屋敷の灯りを確かめて、少し間を置いていらっしゃるのでしょう。礼儀正しい方ですね」

「……礼儀正しいのは、結構なことだわ」

 結構なことなのかどうかは、ルチアには分からなかった。

 玄関を入るなり、居間から声がした。

「おかえり、ルチア。早かったのね」

 母のロザリーは、繕いものの手を止めて、にっこり笑った。暖炉の前の椅子には、父のハロルドが座っている。膝の上には帳簿。顔は上がらない。

「婚約破棄だそうだな」

「はい、お父様」

「サンドイッチは食べたか」

「エマが用意してくれました」

「それならよろしい」

 ハロルドは、帳簿の頁をめくった。

 このやり取りで、今夜の出来事は、家の中では片づいたことになる。ルチアは外套を預けながら、胸の内でひっそり頷いた。この家に生まれてよかった、と思うのは、こういうときだ。

「ところで、ルチア」

 頁から目を離さずに、ハロルドが続けた。

「ラディ君の領地の取引先だが、うちで引き受けられそうなところが三つほどある。もちろん、先方が望めばの話だが」

「あなた」

「いや、明日の朝、ご挨拶に行こうと思っているだけだ」

「お父様。今夜は、お休みになってください」

「分かっている」

 分かっている人の声ではなかった。ハロルドは、頭の中で、もう算盤を弾いている。若い頃に行商から身を起こした父は、今も、クラレンス商会の帳簿を、寝る前に必ず一巡する。

「そんなに急がなくても」

 ロザリーが、繕いものに針を戻しながら言った。

「十歳の冬に、高熱が下がった朝のことを思い出すわ。あなた、起きるなり『お父様、今年の仕入れ値は高すぎます』って言ったのよ」

「あれは驚いた」

「驚いたというより、感動した」

「婚約破棄くらいで、騒ぐ娘ではないと、昔から思っておる」

 二人は、顔を見合わせて、深く頷いた。

 自慢の娘、と呼ばれることには、いまだに慣れない。ルチアは、咳払いをして話題を変えた。

「お母様。兄様は」

「ベルナールは、今夜は王宮に泊まりですって。閣下のお仕事が、立て込んでいるそうよ」

「閣下」

「ユナカイト公爵様。ほら、ベルナールがいつも、神様みたいに言っている」

 ルチアは、咳払いをもう一度した。喉に、ちょうどいい具合に、引っかかるものがあったからである。

「それに、ルチア」

 ロザリーは、針を持つ手を止めて、娘を見た。

「無理に、結婚しなくてもいいのよ。あなたなら、一人でも食べていけるもの。うちの商会を継いでもいいし」

「それは、のんびり暮らせませんので」

「そう言うと思ったわ」

 ロザリーが、おかしそうに笑った。

 ちょうどそのとき、居間の扉が、控えめに叩かれた。

「失礼いたします」

 屋敷に長く仕える老執事が、背筋を伸ばして立っていた。

「旦那様、奥様、お嬢様。ユナカイト公爵閣下が、お見えでございます」

 居間の時間が、一拍止まった。

 ハロルドの手から、帳簿が滑り落ちた。拾おうとして、ロザリーの針が、刺さった。エマが、扉の脇で、見事に無表情を保った。

(二周目の人生計画書。第二項目は、面倒なことには近づかない)

 ルチアは、心の中で、紙に書く前の第二項目に、静かに線を引いた。

 応接間へ通された公爵は、扉の前で、きちんと足を止めた。

「夜分に、失礼をいたします。レオンハルト・ユナカイトです。ベルナール・クラレンスの上官にあたります」

 低い声が、古い応接間の空気に、ゆっくりと染み込んだ。

「ハロルド・クラレンスでございます。息子が、いつもお世話になっております」

 帳簿を拾い直したハロルドが、深々と頭を下げる。商人の顔が、その一瞬で、伯爵の顔に切り替わっていた。さすがは、父である。

「家内のロザリーでございます。どうぞ、こちらへ。お茶を」

 公爵が、ソファへ進む。その途中で、足が止まった。

 視線が、応接間の机に落ちている。

「この脚の細工は」

 公爵は、机の脚を見たまま言った。

「百年前の工房のものでは」

「古いだけでございます」

 ハロルドが、さらりと答えた。

「古いだけです」

 ルチアも、声をそろえて重ねた。

 公爵の眉が、ほんのわずかに動いた。

 視線が、机から椅子の背へ、椅子から窓辺の燭台へと、静かに移っていく。どれも、古い。どれも、傷や色褪せがある。そして、どれも、手入れが行き届いていた。

 見る人が見れば、分かる。

 その「見る人」が、よりによって、王国屈指の財務家だった。

 けれど公爵は、何も言わなかった。ただ、一度だけ、ルチアのほうへ視線を滑らせて、ソファに腰を下ろした。

(踏み込まないでくださるのね)

 その引き際が、ありがたいような、少し悔しいような、妙な気持ちだった。

 公爵が通り過ぎるとき、かすかな香りが、鼻先をかすめた。夜会で貴族たちが好む麝香でも、薔薇でもない。花とも薬草ともつかない、森の奥の朝露のような香りだった。

(何の香りかしら)

 前世で、数えきれないほどの取引先を訪ね歩いた。人は、その人の暮らしの匂いを、必ずどこかに纏っている。けれど、この香りだけは、ルチアにも見当がつかなかった。

 お茶が運ばれ、ロザリーが、湯気の向こうでにこにこと微笑んでいる。この母は、すでに事態の八割を察している顔をしていた。

「ベルナール殿は、今夜は王宮で当直と伺っています」

 公爵は、カップに手を伸ばさずに言った。

「ご夫妻のお休みの時刻に、突然お訪ねした非礼は承知しています。それでも、今夜のうちにお話しすべきだと考えました」

 視線が、ハロルドとロザリーを順に捉え、最後に、ルチアで止まった。

「クラレンス嬢との、縁組についてのご相談です。まずは、ご夫妻のお許しを。そのうえで、ご本人にお話しさせてください」

 ハロルドが、咳払いをした。ロザリーの目が、きらりと光った。エマの肩が、わずかに揺れた。

 縁組。

 その二文字がルチアの耳に届くまでに、一拍かかった。

(婚約破棄から、まだ二時間も経っていないのだけれど)

 ゲームの攻略対象でも、もう少し間を置く。

 湯気の向こうで、紙に書いていない第二項目が、音を立てて崩れていくのが聞こえた。

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